32 マ―ラは生きているのか、死んでいるのか
マ―ラがララモントと共にドームの手術室に現れた、彼女は青い手術着を着て、手に尿の入った小瓶を持っている。黒崎桜子が出迎え、小瓶を受けとった。彼女は土楼で初めて出会ったときに比べ、顔の血色が悪く見える。そう見えるのは、今彼女が化粧をしていないからかもしれない。
「こちらに」
桜子はマ―ラを手術室に案内する。滅菌室の前に成田が立っていて、ララモントに、ここで待つように、と語りかける。桜子とマ―ラは滅菌室に二十秒ほど留まり、手術室に入った。
手術室には、桂木がヒラゲンのホログラフィーモニターを操作していた。手術台の反対側にジャンが立って桂木の行動を見守っている。桜子が尿瓶を桂木に渡す。桂木は尿瓶から尿をスポイトで検査容器に移し、ヒラゲンの生化学分析装置にセットする。
「どう、少しは、気分が落ち着いた?」
「はい」
「これから、体を調べます。まず血液検査ね」
桂木はマ―ラを手術台に座らせた。左腕の静脈から血液を採取し、検査容器に移し替える。それを、ヒラゲンの生化学分析装置にセットする。
マ―ラを手術台に仰向けに寝かせた。
「ローランがね、あなたに回復の見込みがあるならば、あなたを助けてほしいと言っていたの」
桂木が囁きかけた。
マ―ラは微笑んだ。
「あの方は、優しいから。でも、どうしてもローランの命を守りたいのです。私は覚悟を決めていますから」
「怖くないんですか。命を失うことが」
「怖くないです。ドクターにも、わたしの心の内が分かる日が、いつかきます。それより、記憶のほうをよろしくお願いします」
マ―ラが目を閉じた。
桜子は天井を仰いだ。マ―ラの気持を理解できない。わたしなら、こんな手術絶対嫌だ。
「ヒラゲン、体内検査を始めて。まず頭部から」
マ―ラの頭上に一メートル四方の核磁気共鳴検査器板が三枚下りてきて、頭部を囲った。その中央の隙間に、十センチメートル四方の検査器板が滑りこんでゆく。
上部空間に光が現れた。
「脳の立体映像を映し出します」
ジャンが言った。ヒラゲンは言語発声機能を有していない。ヒラゲンのデジタル言語を、ジャンが音声として発しているのだ。
マ―ラの脳が空間ホログラフィーモニターに立体映像となって浮かびあがってくる。
大きく拡大された脳が、ゆっくりと三百八十度回転する。
「右大脳辺縁系、内部、拡大」
ホログラフィーモニターに、映側頭葉が映り、その内部に入っていく。
「海馬、辺縁体、拡大」
赤黒い紐状の塊が現れた。
「これは?」
ヒラゲンに尋ねる。
「悪性腫瘍です。完全に海馬、辺縁体を覆っています」
「腫瘍を剥がすことは、可能ですか」
「神経に深く入り込んでいるので、危険です」
「海馬と辺縁体ほ健康ですか」
「海馬はダメージを受けている可能性があります。辺縁体はかろうじて正常状態を維持しています」
「辺縁体の腫瘍に穴を開けて、神経ケーブルを通すことは、可能ですか」
「一ミリ以内の穴ならば、可能です」
「左大脳辺縁系、内部、拡大」
ホログラフィ映像に、右側頭葉と同じく赤黒い腫瘍が映し出される。
「海馬、辺縁体、拡大」
左も同じか、桂木が呟く。
「小脳、脳幹、拡大」
小脳と脳幹の上部が映し出された。腫瘍が脳幹にへばりついている。
「ヒラゲン、これは?」
「脳幹部神経膠種です」
「その程度は?」
「結果を出すには、時間がかかります」
桂木はマ―ラの顔を見た。マ―ラは目を閉じて静かに呼吸している。
「胸部拡大、肺、心臓」
四枚の検査器板がラーマの胸部へ移動していく。
立体映像が、首から胸部に移っていく。肺と心臓の映像が浮かぶ。
「次、肝臓、膵臓、脾臓、腎臓」
検査器板が腹部に移っていく。
各臓器の立体映像が映し出され、その状態を検査していく。
「小腸、大腸」
消化器まで終えて、桂木は「お疲れ様」とヒラゲンに言った。
桂木はマ―ラの手を取って体を起こした。
「結果を出すのに、時間がかかりますので、外で待っていてください」
桂木はマ―ラを手術室の外まで送っていった。成田に目配せして、手術室に入るように促す。
「どうでした」
成田が訊いた。
「脳以外は健康ですね。やはり、問題は脳の腫瘍ね。あきらかに、ただの神経膠種ではないわ」
「悪性腫瘍っていうことですか?」
桂木が成田を見つめて頷いた。
「それで、助けられるのですか、マ―ラを」
「ヒラゲン、どう思う?」
桂木はヒラゲンの意見を求めた。
「悪性腫瘍が脳幹の呼吸中枢まで食い込んでいます。予後不良です。いつ死んでもおかしくありません。率直に言いますと、生きているのが不思議なくらいです」
「それでも、生きている……。何か、理由があるのかもしれない」
桂木が呟やく。
「記憶の移植は、できるの?」
桜子が桂木の顔を覗き込ん訊いた。
「辺縁体が無事だから、可能性はある。愛する人の死が、恐怖体験と重なっていれば、その記憶は辺縁体に残っているかもしれない。問題は、記憶素粒子が、うまくエクソソームに付着するかどうか、と言うこと。辺縁体から取り出すのは、初めてだから……」桂木が溜息をついた。
「どうしても分からない。こんなに酷い腫瘍が、左右同時にできたのか……」
「ドクター、血液検査で、一点、異常がみられました」
ジャンの声が聞こえた。ヒラゲンが、血液分析を終えたのだ。
「エクソソームですが、マイクロRNAの塩基の数が 二十六あるものが、相当数混在しています。このような所見は初めてです」
「その数は、どのくらい?」
「推定、四兆個ほどになると思われます」
「全体の十パーセント近くも……」
桜子は父の病のことを思いだした。父の癌を見つけ出したのは、エクソソームの異常からだった。エクソソームとは臓器同士のメッセージカプセルのことだ。塩基の数は二十二個である。
桂木は手術室を出た。桜子は彼女の後にぴったりとくっついて行った。
マ―ラは緊張した面持ちでララモントと椅子に座っていたが、桂木に気づいて立ち上がった。
「マ―ラさん、臓器移植は可能です。実施するかどうかは、ローランの状態を調べたうえで、彼女と相談して決めます」
「わたしの、脳の状態はどうなんです。もう手遅れなんでしょう。そうだったら……」
桂木はマ―ラの哀願を無視してララモントに言った。
「ララモントさん、ローランの検査は、一時間後から始めます。そう伝えてください」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます