2 戸倉絵美は賢い女だ でも好きになれない
麻莉婆さんがドームから消えると、戸倉は黒崎桜子に近づいた。
「桜子、油断は禁物だよ」
彼女は桜子のことを呼び捨てにした。
寺島グループの人間なら全員わたしに敬語を使う。この女、わたしのことを馬鹿にしている。とんでもない女だ。多分、わたしより二十歳は歳をとっているだろう。わたしのほうが断然魅力的だ。でも、今は我慢しておこう。
「何があったの」
桜子は一歩後ずさりして訊いた。
「何があった? 何のこと?」
「タブレットの内容よ」
「たいしたことではないわ。ちょっと南の海でトラブルが起きただけ」
そんなことはないだろう。麻莉婆さんの驚きようは尋常ではなかった。
「あなたには、そんなこと、気にしている余裕はないはずだ。桜子、油断は禁物だよ。会長の申し出を聞いた以上、結果に覚悟が必要だ。ミスすれば、命取りになる」
近すぎる。桜子はもう一歩後ずさりする。
「寺島の御曹司、あなたの婚約者は、シベリア共和国のバイカル湖の畔で拉致された。三日前のことだ。拉致したのは、中央アジアに棲息している、新興の自治集団だ。ジュンガルと名乗っている。彼らの目的は、最高指導者の臓器移植を日本の医師にさせることだ。ドクターも指名してきている。臓器移植の装備を整えて、一週間以内にジュンガルに来るようにと言っている。もし来なければ、人質の命は保障しないと」
桜子はマントを胸の前で両手で合わせ、戸倉を鋭く見つめたまま腕を組んだ。戸倉は笑みを浮かべた、マントの下の寝間着を見られてしまったのかもしれない。麻莉婆さんの呼び出しがあまりにも激しかったので、着替える間などなかった。気がついたときには、マントを羽織って飛び出していたのだ。
戸倉は桜子に一枚のペーパーを渡した。
「移植チームは、寺島ホールディングスの責任者、ドクター、警護の兵士一人、警護用設備数体、作業用ロボット一体、装備等の運搬用車両一台、臓器記憶移植用資材、食糧、生活用品。そう伝えてきた」
桜子は記憶に留めようと何度も頷いた。
「それで、あなたは、何から手をつける?」
また口頭試問だ。
桜子は戸倉から渡されたペーパーを確認した。それには、八点の項目が箇条書きで記されていた。
1 寺島ホールディングスの代表者
2 臓器移植ドクター 桂木奈津子
3 警護の兵士 一人
4 警護用付属器 数体
5 作業用ロボット 一体
6 装備等資材運搬用車両 一台
7 臓器・記憶移植用資材、設備 一式
8 食糧、生活用品 一式
「移植チームの編成です」
「誰から、何から、優先順位は?」
桜子は慌ててもう一度ペーパーに目をやった。
「ドクターです」
「正解だ」
戸倉はにんまりと笑った。
わたしは、運がいい。今まで運の良さで生きてきた。
「名前は、
「ひとつ、訊いていいですか」
「どうぞ」
「どうして、ジュンガルは、そのドクターを指名したのですか」
「それは、分からない。彼女でなければ、駄目だと言っている」
臓器移植医は、世界中に履いて捨てるほどいるだろう。日本にだって、彼女の他に何人もいるはずだ。
「彼女を説得するのは、戸倉さんですね」
「なに、言ってるの。あなたに決まっているでしょう」
まずい、わたしは坊主と医者は苦手なんだ。
「もう一つ訊いていいですか」
「今度は、何?」
「臓器移植には、ドナーがいるでしょう。そのことについては、どうなっているのですか」
「それは、今は考えなくてもよさそうなの。桂木ドクターが承諾したら、相談してみる」
うん、やはり戸倉絵美は賢い。でも、わたしは好きになれない。
「あなたのことだから、すでに桂木ドクターの居場所は掴んでいるんでしょうね」
桜子はそう尋ねて、マントの合わせ目を引きよせて両手で体を抱きしめる。
「わたしは、愚かではないんでね、それぐらいの段取りは、考えている」
桜子は自信がなかった。突然、危険な仕事を依頼されても、桂木がオーケーを出すとは思えなかった。どう説得すればいいのだろう。彼女の望むものは、何だろう。お金かな、それとも名誉、かな。
「さあ、桜子、出かけましょう。時間がない」
戸倉は外への扉に向かって歩きだした。桜子はその場で立ちつくした。
戸倉は桜子にショルダーバックを投げてよこした。
「それは、わたしの着換えだ。仕方がない。あなたにくれてやる。わたしは、淫らな恰好でここには来ていないから大丈夫。ここで、着換えしな。だれも見ていないから」
戸倉の皮肉が胸に突き刺さる。
やっぱり、戸倉はわたしのマントの下を見ていたんだ。油断できない。
「外で待っている。さあ、ドクター桂木を叩き起こしにいくよ」
軍用ヘリコプターはドームのある府中から房総に向かう。
ヘリから見える都心は、月明かりに照らされて、廃都となった無残な姿をさらしている。崩れた高層ビル群、埋没した街並み、林立する枯れた樹木。東京は廃都となったまま、手づかずの状態で長い年月が経過していた。
二〇三九年から三年の間、日本は未曽有の大震災に見舞われた。千島海溝地震、東京直下型地震、東南海地震、冨士山噴火。国家財政の破綻によるデフォルト状態。日本は最貧国に陥った。日本発の大恐慌は全世界に広がり、世界は混乱の渦の中に沈みこんだのだ。
しかし、悲劇はそれで終わりではなかった。
二〇四五年、アジア大陸中央部から新たな疫病が蔓延しだしたのだ。猛毒性変異型インフルエンザである。アジア大陸は半年で汚染しつくされ、一年後には、全世界はパンデミックに陥った。経済的に疲弊していた国々は、なすすべもなかった。
日本の人口は九千万人を下回っていたが、二年間の間に、さらに半減してしまった。
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