第一幕
第一章 それは真夜中から始まった
1 ニ〇七五年九月一日午前〇時を告げる鐘楼の鐘の音が鳴る
月光の下、少女は黒マントを纏い、巨大ドーム大扉の前に立った。
少女の名は黒崎桜子。長い黒髪を棚引かせながら、背筋を伸ばし大扉を見上げる。大扉の上から見下ろしている感知センサーの目玉を見つめウインクする。藍色の感知センサーが、ビクビクと瞬きする。大扉の真ん中が縦に割れ橙色の光が溢れだすと、両扉が左右に開き始めた。
巨大ドームの中は橙色の光に満ちていた。
ドームの床に一歩足を踏み入れる。
体が冷風に包まれる。
見覚えのある寺島家の執事が立っていた。
「
今は亡き桜子の父は、かって寺島邸で執事をしていた。出迎えた執事は父の後任なのだ。たしか、名前は北原。
寺島ホールディングス先代会長の葬儀のとき、葬儀会場だったこのドームに初めて入った。その時もそうだったが、半球形のこのドームは広すぎて落ちつきを失いがちになる。
奥のさらに奥の壁面に身長が三メートルほどの戦闘用ロボットが立っている。
桜子は目を凝らした。そのロボットの両眼は暗く閉じられている。そう、休眠中なのだ
ロボットの前にダークスーツを着た女がいて、桜子を見つめていた。暗くて顔立ちまでは分からない。その女の前に体長一メートルほどのドックロボットが三頭臥せている。
突然、鐘楼の鐘が鳴り響いた。
桜子は体を強張らせて、立ちどまった。
二〇七五年、九月一日、午前〇時を告げる鐘の音だった。
桜子は自分を待ちうけている女に向かってまっすぐ歩いていった。女はポケットから折り畳み式のタブレットを出すと、画面に指を走らせた。
桜子が五メートルほどに近づいたとき、奥の壁面が三メートルの高さまで縦に割れて、左右に開き始めた。暗闇の中から、二足歩行椅子がゆっくりと現れた。その椅子に、頭から黒いショールを纏った老女が座っている。寺島ホールディングス会長、五社企業連合組織の総裁、
ダチョウの脚をした歩行椅子は、桜子に向きを変えると、急ぎ足で近づいてくる。顔の前まで来ると、ダチョウの脚をすっと伸ばし、麻莉婆さんは桜子を見下ろした。この婆さん、見下ろされるのが嫌いなのだ。
「黒崎桜子、わたしの孫の婚約者。ずいぶん不機嫌なようだね。ま、仕方ないか。真夜中に叩き起こされたのだから」
その言葉で、この老女を睨みつけていたことに気づいた。あわてて作り笑いを浮かべる。
「おまえの婚約者が、西の国で拉致された。二時間ほど前に連絡が入ったんだ。桜子、おまえなら、どうする?」
どうする? 桜子は自問する。この婆さんは、何を期待しているのか。
「助けることしか、思い浮かびませんが」
「どうやって、助ける?」
どうやって? 再び自問する。
「相手の要求を聞いて、それに対応する、とか……」
「なるほど、おまえは婚約者の
あたりまえでしょう、と言おうとしたが、かろうじて思いとどまった。いつも、一言多いのだ。それで周囲の斟酌をかうことになる。
そもそも、桜子は寺島綾人をなんとも思っていなかった。どうしたわけか、麻莉婆さんから、孫の嫁になるように懇願されたのだ。綾人は体が細く弱弱しかった。魅力を感じていなかったというのが本心だ。だが、彼には別の魅力があった。寺島企業グループの権力、そして富豪としての金力。この魅力に勝るものはない。
「孫を解放する条件は、その国の最高指導者の臓器移植手術を成功させることだ。移植チームのすべての準備を整えて、一週間以内に現地に到着させなければならない。どうだ、おまえにできるか」
できるはずがないでしょ。わたしはまだ十八歳、リーダーの経験など一度も経験したことがないのだから。
そもそも、桜子が表舞台に拾いあげられたのは、麻莉婆さんの誕生日祝いの日のことだった。執事だった父に連れられて、このドームに来たのがきっかけだった。
そのとき、麻莉婆さんは、桜子に自己紹介するように命じたのだ。
「黒崎桜子は、若くて、凄く強い女なの」
胸を張って言った。周囲の取り巻き連中から失笑が漏れ、品がないこと、教養のないこと、囁きが聞こえた。
桜子は父の勧めで十二歳の頃から武術の修業をしてきた。からかわれるので、誰にも話さなかったが、流派は柳生新陰流である。
でも、人生は分からないものである。
翌日、麻莉婆さんに呼び出されて、昼食を共にしたのだ。父親が執事をしていたからなのか、それとも、自己紹介が功を奏したのか分からない。確かなことは、麻莉婆さんさんに気に入れられたということだ。
「わたしの婚約者は、無事なのですね」
「無事だ。今はな。でも、現地に遅れていったり、手術に失敗すれば、どうなるかわからない」
「わたしは、どうすればいいのですか」
「おまえは、わたしの名代として、かの国の最高指導者に会ってほしい。そして、婚約者の開放を願いでるのだ。最高指導者は女らしい。お前が、ひたすら頼み込めば、おまえの心は、相手に通じるかもしれない」
「わかりました」
ここで、麻莉婆さんに見捨てられたら、桜子はアホで間抜けで、一文無しの小娘になり下がってしまう。
「一番大事なことがある。三ヶ月後の十一月三十日の日没前までに、必ずここに戻ってくることだ。知っていると思うが、わたしはその日に総裁の任期を終える。その時刻までに寺島ホールディングスの後継者手続きを終えていなければならないからだ。綾人が後継者と認められなければ、寺島ホールディングスは、企業連合組織での総裁の地位を失うことになる。下手すると、政府の支配下に組み込まれてしまうかもしれないのだ」
そんな……。荷が重すぎる。
寺島ホールディングスが解体したら、玉の輿も夢のままに終わってしまう。わたしはアホで間抜けな一文無しになってしまう。
「時間の余裕はない。明日の早朝には、準備を整えて、東京を発たなければならないのだ」
麻莉婆さんは、桜子を睨みつける。
麻莉婆さんの後ろに待機していた女のタブレットが悲鳴を上げ、赤く光を発した。女は麻莉婆さんに駆け寄り、タブレット画面を見せた。
麻莉婆さんは深い溜息をついた。
「今日は、徹夜になるのか……」
何が起きた? まさか、綾人に異変が起きたのか。
「詳細は、この
麻莉婆さんの顔がほころんでいる。つられて桜子も作り笑いを浮かべた。
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