5 老兵は消え去らない
消毒薬の臭いがする。灰色の天井が見える。右も左も白いカーテンで仕切られている。
成田毅は寝返りをうって窓側を見た。青い空と海が見えた。ここは小笠原父島の寺島軍団病院。見覚えのある病室だ。二年前、寺島軍団に入隊を志願したとき、健康診査のため検査入院したときの病院である。点滴棒はベッド脇に残されていたが、チュウブも静脈針も片づけられていた。
日本は五つの巨大企業によって支配されている企業連合国家になっていた。筆頭企業の寺島ホールディングス、それに前島物産、唐沢ホールディングス、KSTホールディングス、黒沢総合を含めた五社である。これらの企業はそれぞれ自前の軍団を所持している。あたかも古代ローマの軍団組織のようだ。他国から侵略、攻撃に対しては、協働して当たることが、五社連合規約に記されている。
日本国政府は、企業連合の総裁のもと、構成されている。
成田毅は寺島軍団の兵士である。
震災と疫病の蔓延の後日本は財政破綻し、年金制度、医療保険制度は崩壊した。生き残った多くの国民は、病気と飢えで苦しみ続けてきた。
廊下側の壁に見覚えのあるポスターが貼られてある。高齢者男女の笑顔が寄り添っている。入隊資格は、七十歳。軍に入って、健康と年金と健康保険を勝ち取ろう。入隊募集ポスターのキャッチフレーズだ。このキャッチフレーズに間違いはない。五年間兵役に服すれば、年金と健康保険資格を得ることができる。ロボットスーツには、健康管理と健康増進機能が組み込まれている。ただ戦死の可能性については一切触れられていないのが残念だ。毎年数百人を超える死者が出ているというのに。
三十歳以下の若者は、子づくりと子育てを義務つけられている。労働は三十歳を超えた者たちの任務だ。
成田はナースコールのボタンを押した。四、五分ほどして、看護師が姿を現した。高齢の女性だ。
「気分はどうですか」
笑顔が不気味だ。丸い顔をマスクで隠しているが、マスクの下から二重顎が垂れ下がっている。
「悪くない」
「熟睡していましたから、もう大丈夫です。私物は、あのバックに入っています。戦場での物は、すべてなくなりましたが」
彼女は壁際の床に置いてある灰色の大きなショルダーバックを指さした。
「うん」
成田は確認し頷く。
「着替えはバスケットに入っています。洗面とシャワーを終えたら、帰りにナースステーションに寄ってください。背中の治療と本部からの連絡事項を伝えます」
看護師は成田の返事を待たずに病室を出ていった。
床に足を下ろし天井を見上げた。心が晴れない。深い倦怠感に埋もれている。真夜中の出来事が、まだ心を重く閉ざしていた。
ゆっくりと立ち上がり、スリッパを履く。
患者服のまま廊下に出て、洗面所の位置を確認した。病室のドアを五つ数えた所の反対側に、洗面所と書かれた札が貼られている。バスケットから着替えを持ち、ショルダーバックを肩にかけると、洗面所に向かった。
その洗面所には見覚えがあった。トイレの小便器に放尿し、洗面台の鏡に自分の顔を映す。以前見たときより、頭髪は薄くなり白くなっていた。無精髭が口の周りと顎を覆っている。蒼ざめ、疲労に満ちた顔だった。
着ていたものを脱ぎ、空のバスケットに入れる。シャワーを浴びる。背中が燃えるように熱い。火傷の炎症が治まっていなかった。頭髪と体を洗う。衣類の入っていたもう一つのバスケットからパンツを捜しだし穿く。
内刃に髭が巻き込まないように、シェーバーでそっと髭を剃る。時間をかけて、歯を磨く。歯並びはいいほうだ。親知らずを抜歯しているが、二十八本は健在だ。兵士は歯が命だ。
イージーパンツを穿き、上半身裸のまま軍用ブーツを履く。ショルダーバックを左手に持ち、バスケットに残っていた衣服を右手で抱え、ナースステーションに向かった。
先ほどの看護師が待っていた。彼女は成田をナースステーションに招き入れ、椅子に座るように促した。
成田の背中に軟膏を塗りながら言った。
「兵士待機室に行ってください。司令部から連絡事項があります」
黒色のTシャツを着、兵士用のジャケットを着る。
彼女は成田に軟膏の入った瓶とガーゼとテープを手渡した。
「軟膏は、朝晩背中に塗って。だれかに頼んでね」
そして紙袋を目の前に差しだした。
「これは、わたしからのプレゼント。腹が減っているでしょう。時間を作って食べて」
髪袋の中には、レーズンの食パン二つと、紙パックの牛乳が入っていた」
「グッドラック」
彼女は親指を立て、笑顔を浮かべた。
兵士待機室は格納庫だった。
私服の兵士たちで、ごったがえしていた。男が二百人ほど、女も百人はいる。いずれも七十歳以上の高齢者だ。成田は遅れて入ったので、一番奥の金属製のベンチに腰を落とすことになった。人ごみの中に埋もれ、体を小さく丸める。
正面の大型スクリーンには、昨夜の戦闘場面が映し出されている。兵士の中から、時々呻き声が上がる。兵士の顔には、生気が失せており、絶望感が漂っている。
昨夜の襲撃で、三基の掘削プラントが破壊された。少なくとも、今後半年は資源の採掘は望めないだろう。これは、寺島ホールディングス傘下の寺島資源株式会社にとっては、大きな痛手になることは明らかだった。
小笠原基地司令部が名指ししたのは、南太平洋の連合国家「ユニットステイ」だった。過去にも何度かこぜりあいがあった。だが、ユニットステイは即座に攻撃を否定した。ユニットステイが否定しても、その構成国六か国のうち、いずれかの国が行ったということは否定できない。
だが、攻撃ミサイルの発射地点が明らかになったものの、武装船や潜水艦は確認することはできなかった。攻撃の狙いは想像できる。日本の資源採掘を長期間中断させることによって、レアアース価格を高騰させることだ。
日本、寺島グループは、採掘にかかる費用が膨大になり、再起に難儀することになるだろう。
スクリーンの映像が途切れ、壇上に将校七人が並んだ。四十代の司令官がゆっくりとした足取りで壇上に上がる。待機室は静まりかえった。将校は兵士に向かって起立を命じない。兵士たちも当然のようにベンチに腰掛けたままだ。
司令官は開口一番、ごくろうさまでした、と言った。戦死者七名、負傷者三十二名と報告した後で、司令官は必ず攻撃国を特定し、その責任をとらせると明言した。最後に、十日間の休暇が与える、と告げた。
司令官が待機室を去ると、兵士たちは立ち上がり、言葉少なく出ていく。
「成田毅、いますか?」
下士官が大声を出した。成田はショルダーバックからレーズン食パンを出して食べていた。
「成田毅、いたら、手を上げなさい」
成田は食パンを咥えたまま手を上げ、重い体を持ち上げた。下士官と視線が合った。
「ただちに、司令官室に来るように」
成田は食パンを呑みこむと、はい、と大声を上げた。
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