辞書と消しゴム

執行明

第1話 

 独裁者は、辞書からある言葉を抹殺するように命じた。言葉が消えると、実体もなくなる。そういう魔力をもった辞書を、手に入れたのだ。

「はっ、総統閣下」

 親衛隊長は敬礼し、地下の秘密金庫に降りて行った。

 独裁者は昨日、ある法律を作った。

 その法律は明らかに憲法違反だったが、いま親衛隊長に消去を命じたのは「違憲審査」という言葉である。これで彼がどんな法律を作っても、裁判所は手出しできなくなる。良心的な最高裁長官は、独裁者のつくる悪法を数々の判決で潰してきた。だが、それももう終わりだ。

 独裁者は、この辞書の力でN国の独裁者となった。

 今この辞書は、親衛隊長に行かせた地下金庫に入っている。その鍵は親衛隊長だけが持ち、独裁者が抹殺を命じた言葉だけを消し去るのだ。親衛隊長は独裁者に絶対的な忠誠心を持っている。消去を命じられた言葉が仮に「親衛隊長」であったとしても、彼は躊躇わずに従うだろう。

 一年前、独裁者は「野党」という言葉を消去してしまった。全ての野党議員がたちまちこの世から消滅し、国会は一党独裁の翼賛体制となった。

 だが民間にも邪魔者はいる。独裁者は次に「反政府組織」という言葉を消去させた。

 問題は、党内の議員や組織内の反対者たちである。どうすればいいか……。

(そうだ)

 独裁者はほくそ笑んだ。

 辞書に載っているのは、なにも一般名詞ばかりではない。

 固有名詞だって載っているのだ。たとえば「Catharine:英語の女性名」という具合に。

意に沿わぬ人間をこれで消していってしまえばいい。同名の無関係な人間ももちろん全員消えてしまうが、構うものか。

 そして、ついに独裁者は世界征服に乗り出した。その直前に「反戦運動」という言葉を消去したのは言うまでもない。

 気に喰わぬ人間の名前を片端から消したために、N国の人口は以前の半数くらいに減ってしまっていたが、辞書の力があれば世界征服にとって何の支障も無かった。勝利に次ぐ勝利。征服に次ぐ征服。

 N国の世界制覇は目前となった。

 最後に残った国は、日本。

 独裁者は、攻撃と同時に日本の指導者、総理と副総理の名前を消すことを考えていた。戦争が始まった瞬間に指導者が消えれば、国は大混乱に陥る。簡単に勝てるはずだ。


 一ヵ月後。

 独裁者は机を砕かんばかりに両腕を叩き付けた。

 日本攻撃のあの日の大異変によって、全世界が、食糧不足と大規模な異常気象に喘いでいる。人間を含む世界中の餓えた動物達が、あらゆる植物を喰い尽くし、地球は死の世界になる。さらに酸素まで、地球の大気から消えてなくなりつつある。

 人類は終わりだ。動物も植物もおしまいだ。生き残れるのは、嫌気性の黴菌とウィルスくらいのものだと科学者たちはいう。

「お前、一体何をした! 何を消したんだ!」

 独裁者は親衛隊長の胸ぐらを掴んでわめいた。

「わ、わたくしは総統閣下の命令通りのことをしただけです!!」

「じゃあなぜこんなことになった!」

「わ、わかりません」

 親衛隊長は夢中で抗弁する。

「でも本当なんです! わたくしはご命令のとおり、日本の指導者2人の名を消去しただけなんです! たったそれだけしかしていないんです!! モリとハヤシという名前を!!」

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辞書と消しゴム 執行明 @shigyouakira

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