第13回 贖い

 父親と喧嘩した末に、思いもよらぬ怪我を負わせた雄馬は当て所なく暗闇をひた走った。

腕を振り、脚を上げて逃げに逃げていた。

道路のそばの田んぼを駆け抜けた間、ケロケロと蛙の大合唱を耳にした。まるで疾駆している自分を嘲笑ってるように感じたあまり、雄馬は田んぼを離れるまでずっと耳を塞ぎながら走った。

――――お前のせいだ。

「ッ!」

――――お前が悪い。

「う、うるさい」

――――お前が壊したんだ。

「うるさいうるさいっ! 僕は、僕は……!」

自責の念からか、あるいは急激な運動により蓄積した疲労なのか。

あらぬ幻聴を脳の片隅で幾度となくリフレインされた。

それでも、脚だけは止めようとはしなかった。

どのみち、家にも外にも居場所を見出せなかった彼には帰る場所も戻る場所も、辿り着くべき場所さえないのだから。


☆☆☆☆☆☆


やむなく雄馬は定陵小学校のピロティにひとり身を寄せていた。

そこにたどり着いた時点で、彼はそこまでの距離を走って無いにも関わらず息を切らしてどっと疲れていた。

走り高跳び用の白いマットへと向かい、着くやいなやマット目掛け思い切り倒れ込んだ。

カビ臭いマットに顔を埋めながら、雄馬は全身の血管という血管が迸っていることに気づいた。

「身体が……熱い……」

うわ言のように取り留めもなく呟く。弱々しく発せられた言葉は、ピロティ内部に響き渡ることなくやがて広がっている暗闇の中へ溶けてかき消えた。

極限状態に陥った雄馬からすれば、どんなに心地よく吹き付けられた夜風も突き刺すように感じた。

「さ、寒い」

 身体中の漲りようとは裏腹で、生み出された熱はたちまち夜風に気化されて相次いで攫っていってしまう。

身体をさすり、細やかな温もりを享受した。

そのうち、マットの上でうずくまるとその心地よさにしっくり来たので、やがて雄馬は眠りへと入った。

意識を手放す直前、家族の顔を思い浮かべた。人肌の恋しさと、在りし日の懐かしさに想いを馳せながら、雄馬は寝落ちた。


☆☆☆☆☆☆


ピロティで眠りこけていると、突然雄馬は叩き起こされた。

聞き覚えのある最低中年男性の声で幾度となく名前を呼ばれ、身体を揺さぶられていた。

「雄馬! 雄馬、おい起きろ! 雄馬って!」

声に応えようとして目を開けたがすぐ目を固くつぶってしまった。

雄馬の寝ぼけ眼の真ん前に、凄まじい光量を放つ懐中電灯が当てられていたからだ。

眩しさのあまり、雄馬は苦言を呈した。

「……なんの光?」

徐に光で手を遮りながら薄く目を開け始める。

微睡んだ視界の、強い光の向こうで揺らめく人影がひとつ。

しばらくじっと待った。

するとだんだん目も慣れてきたようで、その影の輪郭と姿形が段々掴めてきた。

ついに雄馬は、その正体を口にした。

「おっさん? なんで」

そう言うと、おっさんはスイッチを入れた懐中電灯をマットの上に投げた後、雄馬を抱き留めた。

うまく状況を飲み込み切れないせいで、雄馬は呆気に取られ口をポカンと開け放っていた。

心底安堵した声色で、おっさんが語りかけてくる。

「よかった、起きてくれて。仕事が終わって、家で飯食ってたらお前のお母ちゃんから携帯で連絡が入ったんだ。『うちの雄馬が家出した』ってもう、てんやわんやだ」

事のいきさつを述べられ一瞬納得しかけた。

たちまち、根本的な疑問が雄馬の中で浮かび上がりそうは問屋が卸させなかった。

密に身体を寄せているおっさんを引きはがしてから、当然と言えば当然な疑問をぶつけていく。

「え、なんでお母さんがおっさんの携帯番号知ってるの?」

「警察官はパトロールの際、人の家に訪問することがある。その時、『本官は、このお宅を訪問しました』って証明のために警察官の携帯の番号を添えた名刺を渡す決まりがあるんだ。たぶんそこから……」

「でもなんで僕がここにいるってわかったの?」

「まあ、俺とお前が出会った場所だし心当たりのある場所って言えばここくらいしかなかったからな。ともかく、割とすぐ発見できてよかったよ」

ふーん、あたかも納得したように振る舞う。

おっさんがハッとした顔つきになり、雄馬に質問をぶつけた。

「そういや、お前なんで家出なんてしたんだ? そこんところお前のお母ちゃんから聞き出してなかった」

「なんでって、ケンカしたから」

「その理由は?」

詳細を訊ねられると、バツが悪い表情を浮かべて押し黙ってしまった。

ふたりの間に、沈黙が横たわる。

「………………。」

途端に固く口を閉じ自分から目を逸らす様子に、おっさんはなんとなくだが事情を解したのだった。


☆☆☆☆☆☆


ロクな灯り一つないピロティを後に、一同は道の上を渡り歩いていた。

 ふと雄馬が横に目をやると、先ほど逆方向から駆け抜けていた田園一面が確認できた。耳障りな蛙の鳴き声はなく、代わりにタンボコオロギのリズミカルで小気味いい羽音が至る所で発せられていた。

その音のおかげか、頑なだった心が解れていき雄馬はおっさんにその事情をペラペラと明らかにした。

雄馬のマンションがある方向へと歩を進めながら、おっさんは何度も頷く。

慎重に、けれど感情的にならず一部雄馬自身の事情も汲み取りながら訥々と教えを説いた。

「世の中には、思い通りにならない事がいっぱいある。お前の気持ちも分からなくはないが、だからって暴力はいかん。ましてや、生みの親を傷つけることより親を裏切る行いなんて他にあるか?」

「こんなことになるなんて思ってなかったんだ。僕はただ振り払おうとしただけなのに、もしそうなると分かってたら絶対しなかったのに」

そんな風に弁明してみせる必死な雄馬を見、思わずため息をおっさんがこぼす。

「皆そう言うんだよな。困ったことに……」

まるで取り調べを受けている被疑者のような気持ちにさせられた雄馬は、堪りに堪りかねたあまりに不安で吐露した。

「それで、僕はこの後どうなるの? もしかして、傷害罪で刑務所に連行されちゃうのかな」

本職からしたらあまりにも素っ頓狂でしかない発言に、おっさんは笑いが込み上がった。

「生憎だが未成年じゃまだムショ送りにはならんぞ。せいぜい少年院と言いたいところだがお前はまだ12歳にも満たないから、児相みたいな児童自立支援施設が関の山だ。そもそも、俺はお前を令状も無しに傷害でとっ捕まえにわざわざ探しに来たんじゃないぞ。言ったと思うが、お前のお母ちゃんに言われて居ても立っても居られず飛び出してきたんだ。お前を無事家まで送り届けて、お父ちゃんに謝るまでを見届けるまでが俺の今日の仕事だ」

そう言い切って見せたおっさんに、ふと素朴な疑問をしてみせた。

「なんで、そこまで僕の事を気にかけてくれるの?」

「お前を親不孝者なんかにしたくない。ましてや、親を裏切ったばかりに親不孝以下にさせたくないんだ。雄馬、お前に今必要なのは親と向き合うことだ。どれだけ惨めな思いを受けようがどれだけ嫌がろうが、親は親だ。いずれ歳を取れば、先にいなくなっちまうのは明白なのだから、そうなる前にきちんと腹を割って話し合うことがすごく大切なんだ。……そうすりゃ、万が一の時『あの時、ちゃんと話し合っとけばよかった』って思わずにすむだろう?」

「そういうものなんだ」

そうだ、とゆっくりと飲み込んでいく様子の雄馬を前にして強く言い切る。

「何より、お前は昔の俺に似ているんだ」

「昔の、おっさんに?」

「野球が好きで好きでしょうがなくって、気のしれ合った連中とどろどろに汗まみれになって……本当にそんな感じだったんだ」

何かを思い返すかのように、己の手をじっと見遣る。

そんなおっさんを、雄馬はただ黙って視界に収めていた。

「実を言うとな、俺野球は高校卒業してからピッチはおろかボールすら握ってなかったんだ」

「う、嘘」

「お前と始めて出会った時こぼれ球につい手を伸ばして掴んだ。実に30年ぶりの感触だったよ」

「好きで好きでしょうがなかったのに、30年もほったらかしにしてたの? 30年前に何があったらそうなっちゃうのさ」

雄馬は無意識的に、生まれて初めて他人の領域に足を踏み入れたのだ。

そんな、予想外の食いつきぶりに思わず憮然とした顔つきで迎えるおっさん。

そして、そんな自らの状況に何か一つ決意を固める素振りをしつつおっさんは心の奥底に眠る宝箱に手を伸ばした。

さび付いた鍵穴をこじ開け、開かずの蓋を引っぺがすとまるで昨日あった出来事のようにつらつらと過去を語り出す。

「高校3年生の卒業式の日。部員たちが菓子類やらジュースやらを部室に持ち込んで細やかな送別会を開いてくれたんだ。今まで世話になった分、みんな躍起になっててとても楽しかった。俺は一次会で切り上げて、そこに畑もくっついて来たから俺の家に上げてやったんだ。夜遅くまで、思い出を語り合ってその内ふたりとも寝落ちしちまってな」

「………………。」

「それで、朝。電話のベルがあまりにもやかましかったもんで、起きて渋々出ることにした。その電話は警察署からかけられたものだったんだ。『あなたの所属なさってる学校の野球部員数名が、隣町の高校の野球部と昨夜乱闘をして負傷者を出しました』ってな」

「えっ……」

日頃から飄々とした態度をとるおっさんにあまりにも似つかわしくないその過去に、雄馬は自らの驚愕した面持ちを隠せなかった。

「偶然にも隣町の高校の卒業式の日取りと打ち上げのタイミングが同じだったのが、悲劇の元だった。当時は、縄張り意識とかが強くて向こうの連中とも折り合いが悪かった。それで、乱闘にまで発展したってのが真相だ。後で分かったことだが、双方どちらも体内からアルコールが検出されたらしい。主将として、飲酒について口を酸っぱくして部員たちに言い聞かせてたはずだったんだがな」

「そ、そんなことが……」

ゆっくりと息を吐きながら、おっさんは下に俯いた。

もう一度息を吸い込み、口を開いた。

「お陰で野球部は廃部になっちまった。部員たちの居場所がなくなっちまって、何より畑には申し訳なかった。せっかくそいつに次期主将の座についてもらいたかったってのに、それもできなくなったんだ。今でも、ふと『あの時帰らなかったら、せめて畑だけでもつけてしっかり目を光らせておけと命令していたら』と思う時がある」

後悔先に立たずとは、よく言ったもんだな。

そう言葉を紡ぎながら自らをせせら笑うおっさんの目は、決して笑っていなかった。

遠く広がる闇夜に瞬く星々を見据え、失った何かを渇望するように瞳が潤んでいた。

「それがきっかけで、男手一つで育ててくれた親父とも疎遠になっちまった。なぜかって、俺に最初に野球のいろはを叩き込んでくれたのが親父なら当時現職の警官として部員たちの乱闘事件に取り掛かったのもまた親父だったからだ。以来気まずくなって、会話もしなくなった。俺が窮屈だと感じ取った親父が気を使って向こうからも言い出さなくなったんだ。最後に会話したのは……10年も前に老人ホームに移り住んだ時、一声『じゃあ、元気で』ってかけたっきりだ。それから程なくしてぽっくり逝っちまったけど」

「そんな、たったそれだけ……?」

おっさんの体験話に強烈に困惑する雄馬の言葉に、至ってシンプルに一声でもって切り返す。

「それだけだ」

なあ雄馬、と一段階トーンを下げた声色で呼びかけた。

無論、当の雄馬は身体をビクつかせながらも黙っておっさんと向き直る。

「お前今、こうはなりたくないって思ったろ?」

「えっと、えっと……僕は……」

「無理して答えなくたっていい。雄馬、時に逃げたくなる時だってある。逃げてもいいが、絶対に投げ出さないでくれ。希望も夢も、家族も、野球も……放っておけば、ズルズル引きずって引っ込みがつかなくなっちまう。頼むからどうか、俺と同じ過ちだけは犯さないで欲しい」

「う、うん……。」

「何より、お前はチームの抑えを任されたんだろう? なら、親と喧嘩して投げ出そうとはするな。しっかりと向き合え。投手ピッチャーが投げてていいのは、ボールだけだ」

先の人生論を耳にし、大事なものに気付かされた雄馬はそんなおっさんを直接見据えた。

「わかったよ。まずはお父さんに怪我させたことを謝る。でも、許してもらえなかったらどうしよう」

大きく一歩を踏み出した途端、縮こまってしまう雄馬の頭の上におっさんがポンと手の平を置いて励ました。

「心配するな。素直に向き合ってくれれば、きっと許してもらえるよ。お前は十分、親から愛されてる。だから生まれて来たんだ」

「う、うん」

 そんな感じでおっさんに背中を押される形で、雄馬はおっさん共々マンションへ無事帰宅を果たした。

おっさんの雄馬発見の一報を聞きつけ、春海そして頭に包帯をぐるぐる巻きに施された徹次たちはマンションの一室にてじっと帰りを待っていた。

帰って早々、雄馬は玄関先にておっさんに付き添われながらも、リビング兼ダイニングの一室から飛び出てきた両親に向けて頭を垂れた。一言、ごめんなさいと。

殊勝な態度を見せる息子を、両親は叱らずそっと抱きしめた。

父親は、言った。お前の気持ちをわかってやれず済まなかった、と。

母親は、言った。もう、本当に男の子ってのはバカなんだから、と。

そして、三人揃ってさめざめと泣き暮れるのであった。











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