第12回 安全への逃避
雄馬と織田とで繰り広げられた熱戦の翌くる日。
日が沈みかかったのを見計らい、監督の畑が招集をと声を掛ける。
「よし、全員集合」
全員が勢ぞろいしたのを機に、まずは労いの言葉を添える。
「今日の練習も皆ご苦労さん。もう皆分かってると思うが、今から強化試合に向けてのスタメンを発表しようと思う。今日まで付いてきてくれて本当にありがとう。その前もなんだが、やっぱり先輩が練習に顔出すようになってからお前ら本当に抜群に良くなったよ。いや本当、投げる打つ守る走る全てにおいて各段に向上したとみた。俺も鼻が高いよ」
発表という言葉を聞き、一気に全員の表情が硬くなる。
一段と自分へと注がれている視線が熱く感じた畑は、ピリピリした空気を清浄化しようとおどけてみせる。
「とは言え、そのおかげで選考は滅茶苦茶大変だったけどな! いや、これ謙遜とかボケとかでもなんでもなくガチだからな? 本当、選ぶの苦労させられた」
本当に、と念押しして自らの重労働ぶりをアピールした。
チラっと視線を送ってみると、すでに何人かの部員は失笑しているのだった。
いくらか場を和ませられたと実感した畑は、いよいよ本題であるスタメンの発表にもつれ込んだ。
「さて、前置きもこの辺で、とっとと本題であるスタメンを発表しようと思う。だからお前ら、心して聞くように」
部員たちに、突如として緊張が走り出す。
各自、固唾を飲んで発表にと臨んだ。
「じゃあまずは遊撃手から順に発表していく。1番
名前を呼ばれた部員が、躊躇いがちに声をうわずらせつつも応じる。
「は、はい!」
「続いて2番
続々と上がるポジジョンとそれに就く各選手の名前。
及び、名前を呼ばれた選手の口から寄越される返答。
「最後に、9番先発
最後に畑が投手の選手紹介をし、締めくくろうとしたまさにその時。
突然、待ったと言わんばかりに副主将の高橋から声が上がった。
「か、監督!」
「何だ、いったい」
「なぜ主将が先発なんですか?」
「まず第一に言わせてもらうと、やはり織田は試合を作る能力に非常に長けているからだ。スタミナも申し分なく、いざという時に備えてローテーションが組みやすかったんだ」
「そんなことはどうだっていいんですよ……いや、それも大事でしょうけど。でも、主将も俺も今年6年生でもう後がないんです! 特に主将の織田は、ずっと前から夏の事を意識してて口々に自分の主将としての責任の重大さについて話しかけてきてたんです。それだけ、意気込みが違うんですよアイツは! それなのに、こんな扱い」
もう、居ても立っても居られない所まで彼は来ていた。
そんな仲間に熱い高橋にクールダウンをさせようと、畑は宥めて呼びかける。
「まあ、高橋お前の言いたいことも分からなくはない。だけどな」
「大体さっきの発表も何なんですか? 少年野球において背番号で10を付けられるのは、チームのエースつまり主将只一人だけだというのに。菅野の背番号とそっくりそのまま入れ替えられているじゃないですか! ……念のため聞いておきますが、単に間違えただけなんですよね? そうなんですよね?」
「間違いなどではない、念のため言っておくがこの背番号の配置は本決定である。よって今度の強化試合は、これで行く」
「そ、そんな……」
無情な宣告のあまり、高橋は落胆した。
すると、どこからともなくそんな彼を窘める声が上がる。
「高橋、もう決まったことなんだからグチグチと抜かすのは止めようや」
先に声の主を発見したのは高橋でなく、控えの選手だった。そして、一人が発見したの機にその他の出張っていた控えの選手たちが発見した後、気を遣って道を開けた。
ありがとう、と労いの言葉を掛けまっすぐに呆気に取られた様子の高橋の元へと歩み寄る。
たどり着き、目と鼻の先で立ち止まった織田の変わり果てた姿を見、あんぐりと口を開けていた。
「お、織田お前……」
帽子のつばを後頭部に向けて被り、キャッチャーマスクとおびただしい全身のプロテクターと右手に嵌められたミットの装いは、誰がどう見ても一端の捕手そのものだった。
「発表前に監督が、俺に『これでいいか』と尋ねられて俺は『はい、そうです』と了承した。そうなった以上、いくら副主将の立場であるとはいえ素直に応じるのが道理なんじゃないのか?」
「て、て言うかお前そのカッコは」
「これか? 結構、サマになっているだろう。もっとも、久しぶりに装着したから少々手こずった」
「なんで投手のお前が、わざわざ捕手の恰好で俺らの前に出てきやがる必要があるんだ⁈ 捕手なら捕手で、阿部がいるじゃんか」
「……阿部じゃ、菅野の剛速球は受け止めらんないってよ」
「どういうことだよ、それ。なあ、阿部っち説明してくれよ」
ふたりの会話を手を組みながら聞いて俯いていた阿部が、突如として要求される。
なし崩しで、阿部は事の真相を明らかにした。
「実は夕べ、織田から電話がかかってきたんだ。それで、僕に菅野くんの110㎞/hの球を受け止められるかって。……そんな速いの、受け止めた事もないからできないよって断ったんだ」
それならば、と織田がそんな彼の話に割って入って来た。
「俺がやろうってね。ほら俺、デブだからキャッチャーにはもってこいだろ。包容力っての?」
柄でもなく軽口を飛ばす様子に、高橋はますます声を荒げた。
「なんでだよ!? 納得いくかよ、そんなんじゃ!」
「……昔、先輩からこのユニを託された時なんで俺なんですかって聞いたんだ。そしたら、先輩なんて言ったと思う? お前が一番定陵への情熱が大きかったからだってさ」
「どう言う意味だよ、それ?」
「単純に想いとか、愛とかじゃないか? それはそれとして、昨日の菅野との戦いで気付かされたんだ。俺が菅野に負けたのは、俺の野球への情熱が菅野のと比べたら取るに足らないからなんだと」
違うだろ、と高橋は彼の解説を一蹴する。
「あの試合の後、お前マウンドの上で滅茶苦茶ガッカリしてたじゃんか。それだけ、野球に思い入れが強かったってことだろう。お前だって、十分負けてないよ」
「高橋は優しいな。でも正直、菅野の豪速球は間違いなくプラスになると思う。あれは絶対に抑えにしといたほうがいい。今まで抑えをやってきた俺が言うんだから、間違いない」
胸のプロテクターを叩いて、鈍い音を発する織田に高橋が詰め寄って来た。
食い入るように見つめる彼に、織田は一切動じなかった。
「その確信、信じてもいいのか?」
「もちろん」
「信じるぞ」
「ああ」
お互いの良し悪しを知り尽くした間柄のやりとりは、至って簡素に終結した。
さて、と今度は菅野へむけて織田が切り替える。
「さて、菅野。今度はお前だ……やってくれるな?」
傍観者のつもりで静観していたとうの本人は、突然の呼び掛けに吃驚させられる。
戸惑いを滲ませつつ、それでも自分を抑えに任命するのかと確認を乞う。
「で、でもいいんですか? 今まで抑えをやってきたのは主将なのに。それに、僕はここへ来てまだまだ日の浅い新参者で」
「時間なんて関係ない。大事なのは、その間にどれだけ心血を注いできたかだ。だから、お前は俺に勝てたんだ。そうじゃなけりゃ俺が6年間脇目も振らず練習してたのに負けちまった説明がつかないだろう?」
「そ、それは……」
煮え切らない答えばかりを覗かせる彼に、誠意を見せようと頭も下げる。
「これからのフェネクスを守ってやれるのは、俺らOBなんかじゃなくお前たち次世代たちだ。少し早いが、お前にこのユニもろともお前に抑えの座を譲り渡そうと思う。頼むこの通りだ」
強い懇願に、ますます困惑させられる雄馬。
「き、主将」
「お前しかいないんだ。どうかひとつ」
頭を一向に上げる気配のない主将に、それをしかと見届ける副部長及びスタメンと控えの選手一同。
不気味な静寂のはびこる辺りをキョロキョロ見まわしてから、雄馬は織田の背中を見下ろした。
「こ、心の準備をさせてもらっていいですか? ちょ、ちょっと、テンパっちゃって」
「いいんだいいんだ、ゆっくり飲み込んでくれ。気が済んだら、俺のユニの背中に手を置いてくれ。それだけでいい」
緊張で高鳴る心臓に手をやり、幾ばくか深呼吸を続けた。
いくらかマシになった後、織田の10と書かれた背番号の真ん中らへんに手をかざす。
「お、置きますね」
そっと、手をおく。
背番号を通して織田の脈拍が微かに感じられた。この時、主将も今の自分と同じくらい緊張していたのかと、初めて雄馬は実感できた。
脈を共にした彼らは、すでに気持ちも通い合っていた。
「ああ……やってくれるな?」
「は、はい」
「次のエースは、お前だぞ」
「はいっ!」
☆☆☆☆☆☆
家に帰ると、玄関開けてすぐの所で母・晴海が待ち構えていた。
「ただいま」
「おかえり雄馬。帰って来て早々、悪いんだけどリビングに来て。みんなもう集まってるから」
「み、みんなって?」
「……お父さんが帰って来たの」
深刻な面持ちを浮かべる様子に、雄馬は幾らか察した様子だった。
「えっ、じゃまさか」
「こんなところで話し合っても埒が開かないわ。とにかく、ランドセルを部屋に置いたらすぐ椅子について」
かくして、春海の言われるがまま家に上がることになった。
春海共々リビング兼ダイニングの部屋に入ると、滅多に帰ることのないはずの父・徹次が先に席へとついていた。ランドセルを寝室においてから同じく先に席へついていた亜季の隣へと座る。父と母、自分と妹が文字通りテーブル一枚を隔てて向かい合う形を取っていた。
一家の大黒柱である父親が、口を開く。
「さて、家族勢揃いしたところで、早速だが辞令が下りた。別の支社に移るから、明日から引っ越しの作業に取り掛かってくれ」
取り留めも無く、まずはため息を吐いた。
玄関先での母親のやり取りで、見当はついていたからだ。
いつもの事だと、飲み込む。
淡々と、事務的に質問を飛ばす春海。
「それはいつまでに済ませればいいの?」
「来月の頭には出社する予定だから、今月いっぱいまでに荷造りを済ませてくれればそれでいい」
「今度はどこなの?」
「大阪」
「また、急な……」
目元をしかめた春海に、涼し気な面持ちで徹次が応えた。
「いくら転勤といえど、本社の命令なら仕方あるまい」
すると、この場に置いてひとりだけ状況を把握できていない妹の亜季が、父の発したフレーズの意味を至って無邪気な様子で聞いてきた。
「ねーねー、てんきんってなあに?」
見かねた春海が、雄馬にと促してやる。
「雄馬、亜季にもわかるように説明してあげて」
「ねーねー、おにいちゃん。てんきんってなんなの?」
半袖をくいくいと摘まみ上げながら、さらに問い詰められる。
「それは……」
「お願い雄馬」
母に懇願され、渋々と言った様子で後頭部を掻きながらざっくりと説明をする。
「要するに、もうここにはいられないってことだよ」
「いつ帰ってくるの?」
「行ったら行きっぱなしだがら、ここには二度と帰ってこない。旅行とは違うんだ」
「じゃ、じゃあ、お友達は? ちえちゃんと、まーちゃんと、えりかちゃんとそれにほいくえんの先生やみんなとはもう会えないの?」
「当たり前だろ、そんなの」
そして、ばっさりと切り捨てた。
亜季は雄馬の服の胸元へとすり寄り、裾を握り緊めて訴えてきた。
「やだよ、やだやだっ。お別れなんてしたくないもん」
「なあに、心配すんなって亜季。お前なら、大阪でも関西弁を話すお友達を作るくらい楽勝だ。まあ、次の引っ越しの機会までのお友達なんだけどな」
とうに慰める気力も無く、夢も希望も感じさせない言葉ばかりを亜季に浴びせる。
とうとう、そのつぶらな瞳に溜まっていた涙がこぼれ落ち、雄馬の胸元を涙で滲ませる亜季。
「そんな、そんなのって……いやあっ!」
悲しみの咆哮をあげる娘に反応し、そんなふうにさせた雄馬を春海が叱り出す。
「雄馬! もうちょっとオブラートに包んで伝えてあげなさいよ」
「はぁ? オブラートも何も、本当のことでしょ!?」
突然の絶叫で、室内は一気に緊張した。
思いもよらぬ息子の迫真ぶりに、春海は顔を引き攣らせた。
「ゆ、雄馬あんた……」
一変した空気で我に返った雄馬が、自らの感情の昂りを謝罪する。
「ご、ごめんなさい。つい、こうなっちゃって」
まあ、いい。
そう徹次が吐き捨てる様に言い、徐に椅子から立ち上がった。
「それを伝えるためだけに、一旦帰宅したまでだ。まだ会社に仕事が残ってるから、もうこの辺で」
あくまで仕事一徹な姿勢の夫を、慌てて春海が引き留めた。
「もう行くの? 今夜の晩御飯くらい一緒に取りましょうよ」
「生憎今夜も徹夜の見込みだ。今のところ、家族揃って晩飯というわけにはいかないんだ」
日頃の多忙による運動不足と出来合いのものばかり口にしてきたのが祟った、贅肉まみれの身体をよたよたと揺らしながら立ち去ろうとする。
そんな煤けた背脂を背負った父を、咄嗟に雄馬が呼び止めた。
「ま、待って!」
「……なんだ雄馬」
「実は今日」
「要件なら早くしてくれ、お父さんは忙しいんだから」
「う、うん。それでね、今日野球の練習に行ってて、そしたら僕次の強化試合で抑えの投手に選ばれたんだ」
「そうか、それはよかった。試合はいつやるんだ」
「……来月の夏休み始まる前だったんだけど」
「なんだ。とっくに引っ越してるじゃないか。残念だったな」
すると悪びれもしないような徹次の態度に、とうとう堪忍袋の緒が切れた様子の春海が突如として立ち上がった。
「残念、ですって? 実の息子の晴れ舞台を踏みにじっといてそれしか言えないの?!」
「お、おい。なんだよ急に」
急変した様子の我が妻に、ただ困惑しきった表情で迎えるだけの徹次。
たじろいでいる彼の元へ、春海がつかつかと歩み寄った。
「それはこっちのセリフ! あんたのせいで雄馬がこんなことになってるってのに。ちっとも可哀想だとは思わないわけ?」
「だから、残念だったなって」
「なにそれ。まるで他人事みたいじゃない。そんなに仕事が大事だっての?」
「現に忙しい仕事の合間を縫って、わざわざ帰ってきたじゃないか」
「仕事のついでみたいな言い方やめてくんない? 癪に触る! そんなに仕事が好きなら仕事と結婚すればいいじゃない」
「またそんなことを言う。君はなにかあるとすぐ、自分を天秤にかけてゆさぶろうとするんだから。家族が好きだから仕事をしていることの何がいけないってんだ?」
「なによ。そう言うあんただって自分の事を棚に上げといて、すぐに都合の悪いことはうやむやにする癖に」
「だいたいなあ……」「そっちこそ……」
いつも通り、ぐだぐだの言い合いを続けるふたりを雄馬は辟易しつつも静観する。
ふと、下に目を向けると、胸元にて頭を預けた妹が未だ涙で濡れそぼっていた。
そうっと、茶髪である妹の頭に手を置くと、雄馬はそれをゆっくりとした手つきで撫で始める。
「亜季。お前は、もう寝室に行ってな」
「お、おにいちゃんは?」
「できるかわからないけどふたりを、止めてくる」
「わたしからもお願い。ふたりがなかよししないところ、見たくないから……」
「さあ、行きな」
しゃくり上げながら、ひとり寝室へと入るのを見届けた後。
何かを決意した様子で、腰を勢いよく持ち上げて目下のテーブルを強く叩いた。
「ふたりとも、もう止めてよ! 大人の癖に、大人げないったらありゃしない」
いつになく憤る息子に、夫婦共々釘付けにさせられた。
「雄馬」
「雄馬……」
徹次と春海、双方を交互に見遣りそんな彼らを前にして自らの思いの丈を明らかにする。
「いっつもいっつも、ケンカばっかり! 何がそんなに気に食わないのか分かんないけど、せめて僕らの目の前でくらい大人しくしててよ。大人なんだから!」
「………………。」
「気付いてないと思った? 悪いけど、丸聞こえだよ。聞かされてるこっちはとっくにうんざりしてるってのに……。亜季は今泣いているんだ! かわいそうに、寝室で電気も付けないでひとりでブランケットに包まって、がたがた震えている。一番の可愛い盛りの亜季が、ふたりの喧嘩を聞き続けて将来歪んだ大人にでもなったりしたら責任取ってくれるの?」
「別にそこまでは」
「返す言葉もないわ」
弁解する父親。
降伏する母親。
改めてそんな両親をはっきり捉え、再び口を開く。
「でも、それがふたりのストレス発散法ならしょうがないよ。お互いに言いたい事言い合えばすっきりするってんなら、僕もそうさせてもらうよ。今までお父さんに対して、言いたくても言えなかったことでイライラが堪ってんだ!」
すると、そんな息子の声に駆り立てられたかのように春海が応え、すすっと徹次の背中に周り込むと息子へ向け押し出し始める。
「な、何を」
「ちょ、ちょっとお母さん!?」
妻の奇行にたじろいだ夫と、思わず吃驚させられる息子であった。
「もっと、近づきなさい! せっかく私たちの息子が家族水いらずで話ししたいっていってるの。特に仕事で家庭を顧みないアンタは、しかと聞いてやるってのが筋ってもんでしょ? さあ、雄馬! 出し惜しみなんかせず、洗いざらい全てぶちまけなさい。私が許す」
自ら夫を羽交い絞めあまつさえ、自ら息子に発破を呼びかける。
「お、おい。やめろって、わかったわかったから」
「ねえ、お父さん。僕、同級生の友達が何人できたか知ってる?」
「……三人、くらいか?」
「いないよ、友達なんか。普段教室で誰かに話しかけられても、ひたすら無視決めこんでるんだもの」
「挨拶ぐらい返してやっても、いいんじゃないか?」
「だめだよ。下手に挨拶を返してやって、それで相手が図に乗って気軽に話しかけてきて適当にやってたらいつの間にか友達になっちゃう。だから、無視するんだよ」
「な、なんで」
「なんで? どうせすぐいなくなるのに、仲良くする意味なんかないじゃん。友達ができたかと思えば、すぐ引っ越ししてまた作り直してって今までずっとそうしてきたんだ。いや、させられてきたんだ――――お父さんのせいで!」
「ち、違う。誤解だ、お父さんは」
「違くない。全然違くないよ! お父さんの転勤のせいで、もう僕の交友関係は滅茶苦茶だよ。外で遊ぼうにも誰も知り合いはいない。かと言って、家にいたらいたでふたりの喧嘩の声で耳はジンジンするし……家にも外にも落ち着ける場所がないんだよ!」
「違う。お父さんはな、本社の命令で仕方なく、転勤させられているんだ。そんなんでも毎日額に汗水流して働いているのは、お前たちのため……」
「本当に家族を大事に思っているなら、少しは僕の悲しみを分かれよ。でも、お父さん。いっつもいっつも仕事だから、こんなことでないと聞けないし分からないから……!」
「ゆ、雄馬。その、済まないお前の気持ちに全然寄り添えなくて。どうかもう、泣き止んでくれないか? そんなんじゃ、野球で引き締まったせっかくの男前の顔も形無しだ」
「別に、いいもん。もう野球もやめるつもりだから」
「そんなこと言うなよ。せっかく、好きになれたものを見つけられたじゃないか」
「好きになれたものを取り上げようとしてるのは、どこの誰さ」
痛恨の一言に、思わず謝罪しそれ以上何もいえなくなった。
「す、すまん」
「もういいよ。……お陰でちょっとは気が晴れたつもりだし、お父さんは会社に行って仕事でもしてきなよ。僕は、寝室にいって亜季を慰めてくるからさ」
「ま、待ってくれ雄馬! 今までのこと、本当に済まないと思ってる。お父さんが悪かった! だから……」
寝室へ向かおうとするのを慌てて引き留める。
一方、雄馬は気にも留めなかった。
「いいから放してよ。もう、ほっといてってば」
「つれない事言うな。もっとちゃんと話し合おう、どうすればお互い幸せになれるかみっちり」
「しつこいよ!」
鬱陶しいあまり腕づくで払いのけようとした。
思わず力が籠ってしまい、油断し切っていた父の身体を転ばせてしまう。
「ゆ、雄馬……うわっ」
背中から倒れ込んで、そのまま食器棚にぶつかってしまう。
すると、徹次の巨体に当てられた衝撃で、棚の上にて置かれていた大きなスチール缶が落ちてきて彼の頭に直撃した。
「あ」
あらぬハプニングに間の抜けきった声を雄馬が上げたと同時に、スチール缶と徹次の頭がぶつかり合い鈍い音が響いた。
缶は、頭から堅い床上に落ちるととうとう蓋が外れその中身を周囲にぶちまけさせた。
外れた蓋には、『家族のたからばこ』と銘打たれていた。
「あ、あなた大丈夫!?」
あらぬ惨事に、慌てて春海が徹次に駆け寄る。
「あ、ああ。なあ、眼鏡、俺の眼鏡知らないか……おや、何だろうこれは。嫌に生暖かいぞ」
生返事でかえしつつ、極度の近視のせいで世界全体がかすみがかったように見える中手探りを始める。
先ほど頭上から降りかかったスチール缶の当たったところが割れて、血が滲んだ。
床上に血の雫を滴らせ、物で溢れかえった周囲をまさぐる。
その時、床上にて転がったままの家族の写真が、徹次の血の雨にさらされた。
血の池地獄と化した我が家。
声を震わせ、春海が呼び掛けた。
「雄馬、自分が何したかわかってる……?」
こんな、つもりじゃなかったのに。
「あ、ああ……」
「謝って」
まさか、自分が家族を傷つけて壊してしまうなんて。
「あ……あ……」
「早く謝って‼」
ひたすら謝罪するよう絶叫する。
しかし、どんなに耳をつんざくような声を上げても肝心の雄馬には届かなかった。
「ち、違う。ぼ、僕は悪くないだってそんなつもりは全くなかったんだから」
「何言ってるの⁉」
「悪くない、僕は悪くなんかない! もう、こんな家出てってやるっ!」
「ま、待ちなさい!」
罪悪感と、自責の念と、逃避したい気持ちがぐちゃぐちゃに入り混じった結果。
雄馬は、ひとりマンションの一室から飛び出した。
そんな中でも、春海のあげた悲痛な叫び声はやはり雄馬には届かなかった。
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