記憶① 中学時代
あれは確か、中学生のときか−。
理佳は登校して愕然とした。何のきっかけか分からないが、どうやら学年全員から無視されているし、聞こえよがしに悪口を叩かれている。元々いがみ合っている相手がいることは自覚していたが、調子に乗っているワタナベやヒラタが更に調子に乗ったようで、面と向かってブス、キモいと罵倒してくる。だったら近寄るなよ。
心当たりがあるとすれば、仲の良かったイケメンと同じ部活のナナちゃんが、この仕打ちが始まったのと同時にやたらと接近していることくらいだろうか。また、幼稚園の頃から私に嫌がらせばかりしてきたタマイが、意味深にニヤニヤしている。私はどうやら、タマイの手によって生贄に捧げられ、クラスの権力者の逆鱗に触れたようだ。多分タマイにそのイケメン君のことが好きだとバレたのもマズかったのだろう。
理佳はうまく状況を飲み込めなかったが、感心するほど地元の中学1学年、120名の根回しは速い。確かに先週末から、クラスの中心で騒いでいる女子からの視線が痛かったが、まさかいつも一緒に行動している友達からも避けられる事になるとは思ってもいなかった。ややこしい陰口の応酬などを見て、人間関係の脆さは何となく知ってたつもりだったが、まさか自分に降りかかってくるとは。
嫌いならほっとけよ、と思うが、いじめというのは対象が破滅するまで徹底的にダメージを与え、己を卑屈にさせる。他者からの印象を気にしがちな10代前半、特に中学校はいじめが多いのは知っているが、通算2日目にして理佳の心は折れそうだった。確かにクラスの中心にいたさわやかイケメンと、何故か夏頃から爆発的に増えているニキビに侵食された私とは、釣り合わない。確かに私は彼のことが好きだったけど、それって罪なのか。勉強くらいしか取り柄がない、お前らより断然輝いてないモブキャラを、敢えて公開処刑する必要はあるのか。
普通に暮らしていたのに一気に地に突き落とされ、泣きそうな顔で廊下を歩いていても、誰も気にも留めないどころか、「あいつ、マジやばくない?」とか、「うわっ、キモッ」などという言葉の絨毯爆撃が浴びせられるだけである。言葉の力は恐ろしいもので、こんなの気にしちゃダメだと思っても、確実に心には刺さっている。もはや廊下を歩くことすら苦痛であるし、グループ作業なんか以ての外だ。
「おい川口、お前みたいなクソブスが、タケシのこと好きとかマジウケるんだけど」
タマイは実験の合間で、理佳に話しかけた。
「お前さ、自分のキモさとか認識してる?」
理佳が何か反論しようとすると、タマイはニヤニヤしながら、
「うわあー、キモッ。話しかけてくんなよキモッ」
「キモいキモいキモいキモい」
と連続で罵倒してきた。
「おいタマイ、流石に言い過ぎだろ」と言う男子も、グルだ。笑いながら言うセリフじゃない。
「ははっ、こいつプライド低いから」
周りがどっと笑った。
理佳は身体が熱くなった。最悪だ。プライドはある。いじめに身を堕として低俗なことばっかりやってるお前らよりよっぽどある。でも、反論できる立場にない。というか、怖い。恐らくいじめに拍車がかかっているのはタマイのせいだ。でもタマイは幼稚園の頃から理佳を泣かせ、小学校が同じでなくて安心していたような相手だ。タマイは残念ながら、普通の会話ができるようなタイプではなく、一家揃って近所で問題視されているという話を耳にしたこともある。理佳はタマイに、今更仲良くなったり、謝罪を認められるほどの価値もないと心の底から思っていた。
理佳は怒りに震えていたが、その時、たまたま机の上にあった試験管立てが目に入った。鉄製の試験管立ては、それなりに重いが振りかざせなくはない。自分が立って、このまま相手が座っていれば、この約10年ほどの恨みを晴らすのにちょうど良さそうだ。恐らく、これを振りかざせばこいつは死ぬか、少なくとも頭を打って保健室送りにはなる。そうすると幼稚園の頃から凄惨な嫌がらせを受けてきた中学1年生の女子が引き起こした災厄は、社会の目にとまる。裁判には「情状酌量」という言葉がある。授業中にこんな目に遭っている私を知ってか知らずか自分の授業に夢中になっている担任も、流石に責任を問われる。そして今笑っている奴らは全員後ろ指を指される。最高だ。これ以上ない反撃だ。特に相手が野球をしていて坊主なのがいい。タマイは、こいつは、こいつらは、私よりよほど馬鹿だから、今私が人を殺せる状態にあることを、知らない。
理佳は、誰も座っていない机に並べられた試験管立てに手を伸ばした。今、こいつを殺せば−、周りは味方してくれないだろうが、社会は成績優秀で品行方正な中学1年生の女子と、不良に片足突っ込んでいる男子のどちらの肩を持つだろう。今だ、奴は後ろを向いている!
−ちょっと待って。
【私の未来は、こいつの死をもって償えるほどの価値しかないの?】
【人生捨てて、こいつを殺す価値ある?】
「でも、こいつは人類の敵だよ?今殺しといた方がいいよ」
【いや、先輩がこないだ、3年生になったら立場逆転してクラスのリーダー格はたいてい都落ちするって】
【こんな奴、ほっといてもいずれ誰も相手にしなくなるよ】
【それでもなお、こいつのために人生捨てる価値、ある?】
理佳は試験管立てを置き、目をこすった。座って談笑しているタマイを背に、理佳は拳を握った。
実験は、班員が全くやらないため自分で行うことができ、逆に効率よく結果を出すことができた。
実験の一件の後、理佳はとりあえず一人でいることを選んだ。今自分は残念な立場にいるものの、恐らくいつも一緒にいるみわちゃんや、ゆうこが今週になってからいじめ側に行ってしまったのは、理由がある。そして、自分から絨毯爆撃を浴びる行為は愚かだし、親は自分の娘が不登校なんて認めないだろう。恐らく登校を拒否した瞬間にモンスターと化し学校を襲撃する。そんなことをされるとますます普通の生活が遠のいてしまう。担任の教師は嫌な奴だから信頼できない。ただ早くどうにかしないと、親をモンスターにしてしまいそうだ。
今週中にどうにかする!せめて、みわちゃん達とはどうにかする!−理佳は、教室から離れたトイレの中で深呼吸した。
しかし、反撃のチャンスはそうそう訪れない。辛い辛いと思いつつ堪えている内に、ひとり中学生生活も、4日目に入ってしまった。残念なことだが、人目を避けるのも、常に持ち物などに気を付け、スカートを折らないで黙々と授業を受けるだけ、部活も特に誰とも話さず黙々と練習するだけの生活も、大分板についてきた。面白いことに、教師も、親も、誰も自分のことを気に掛けないのだ。一体全体、常にいじめられ続けている子は何を考えているのだろう。私はこんな生活が続くくらいなら死んだ方がマシだ。勉強を頑張って、離れた場所の進学校に行って、とにかくこの地域からフェードアウトしたい。今すぐは、いじめの主犯格のグループが周りの中学の人とつるんでるから無理だ。流石に頭のいい高校へ行けば、こんな糞みたいな行為に身をやつす奴もいないだろう。
下を向いて歩いていると、みわちゃんがいた。理佳は知らない人のようにすれ違おうとしたが、みわちゃんは引き止めた。
「ねえ、ナナちゃんの靴を花壇に埋めたって、本当?」
「はあ?!何それ」
そっか、と言いながらみわちゃんは歩いて行こうとした。今度は理佳が引き止めた。
「それ、誰がばら撒いてるの?」
「アイちゃんたちだよ」
理佳は考えた。
これは直接、話すしかない。キモいとかはこの際どうでもいい。でも、冤罪でみわちゃん達から避けられるのは絶対すぐ終わらせたい。というか、この私が、いろんな人が通りかかる正門の花壇に?わざわざ?触りたくもない奴の靴を埋める?環境美化委員でもないし、シャベルもないなかで?
「私も舐められてるなあ」
理佳は悲しくなった。冷静になればそんなこと流石にしないということを、みわちゃん達は少し信じたのである。もしかすると脅されたのかもしれないが、大抵小説や漫画には、「●●ちゃんがそんなことするはずない!」と反旗を翻す人が出てくるのだ。彼女達とは、そういう友情が成り立っていると思ってた。天は見えたが、残念だ。
この4日間、予想通りではあるが親も、担任も、知ってか知らずかいつも通りだった。学年主任ですら陽気に話し掛けてくる始末だ。そんなに大きくない中学で、みんなに無視されて、みんなに陰口叩かれて、時には大声で喚き散らされて、これで気付かないなんてことは、ない。私のニキビは増え続けているし、制服の着崩し具合もかなり変わったのに、何故かみんな助けてくれない。こんな生活が年度末まで続いたら、私はそれより前に死ぬだろう。でも私は、やりたい事がある。
「ねえアイ、ちょっと話したい事があるから、昼休みに中庭来てくれる?」
昼休み、アイは指定した時間通りに来た。
「で?わざわざこんなとこに呼び出して何?」
「私がナナちゃんの靴を花壇に埋めたって話だけど、やってないから、もうこんなこと言うのやめて!」
理佳の声が震えた。泣きそうだ。でも泣きながら言っても仕方ないし、相手に付け込まれるだろう。
少しあって、アイは当然のように言った。
「あんたがやったのを見たって人がいるんだけど」
「だれ?」
「いや、それは言えないけど」
「誰か言って。私はやってないから、その人に話を聞きたい」
「いや、それは言えない」
「じゃあいいよ。でも私はやってないし、やるとしてもあんな目立つところで埋めたりしない。普通、もっと誰もいないところでやるでしょ。とにかく私はやってないから、もうこの噂を流さないで!」
理佳は軽く泣き叫んだように感じた。ちょっと見ると、何人かが、中庭の窓ごしにこちらをちらちら見ている。
アイ達はなにかコソコソ喋り出した。
理佳はやることはやったと思った。もうこれでどうにもならなければどうしようもない。天を待つのみである。
「わかった」
「とりあえずやめるよ。でも、そういう嫌がらせしないでよね」
どうやらアイも馬鹿ではなかったようだ。ひとまず、彼女達を信じるならば、女子からの陰口とかはなりを潜めるかもしれない。少なくとも、みわちゃんたちはその内私と一緒にいてくれるかな。
その時ちょうど、教務主任が中庭脇の廊下を通りかかった。
「なんだお前らわざわざ中庭なんかで」
「いえ、何もありませんよ?ね、理佳」
4人はなぜかニコニコしながら教室へ戻った。その後の授業は特に何もなかったし、その翌日の授業も特に何もなかった。週末になり、理佳は溜息をついた。
その一件は恐らく親も教師も知らないが、理佳にかなり大きな勇気を与えた。更に良かったことに、女子からの悪口や仲間はずれは収まった。アイ達は、血も涙もない人間ではなかったようだ。
しかし、タマイやワタナベやその辺の男子からの嫌がらせは、理佳が2年に上がった時、また不釣り合いにかっこいいクラスメイトを好きになった上、その相手が実はとんでもなく性格の悪い男だったことも相まって、結局その年度の修了式まで続いた。なぜ止んだかと言えば、修了式日の放課後だ。途中でメンタルダウンした2年次の担任に変わって荒れ果てた理佳のクラスを担当した学年主任がたまたま持っていた名簿を見ながら、
「こいつとこいつとこいつだけは、絶対に同じクラスにしないで下さい!」と泣き叫んだからである。
学年主任とのやり取りの後、靴に泥を仕込まれていた上、それを確信犯のようにからかって来た奴の顔は、今でも鮮明に思い出せるが、それがさまざまな不快な思い出の最後になった。
その頃理佳の兄弟の問題で散々両親からの被害を被っていた学年主任は、(恐怖を感じたのかは分からないが)、一生徒のしがない要望を完全に聞き入れたようで、理佳にとって完璧なクラスで快適な受験生生活を送る事ができた。更に2年次に塾に入ったが、その塾の講師との相性が良く、落ちかけた成績が飛躍的に伸びたことで、通っていた校舎どころか他の系列校でも有名になった。自分と因縁のあった色々な生徒が受験対策で入る頃には、その塾は理佳の城となっていたのである。
理佳は無事に第1志望の高校に合格した上、卒業する頃にはニキビが嘘のように消え去り、あの頃邪智暴虐の限りを尽くしていた人々は手のひらをひっくり返して賞賛した。愚かな奴らだとは感じていたが、いつのまにかタマイやワタナベが学校で干されていたのを見ていたので、理佳は堂々と笑うことができた。ただし、理佳は未だにクラスの中心にいそうなタイプの人間が苦手だ。唯一大学だけは大丈夫だったが、それはあまり近づかなかったからであって、トラウマが解消されたわけではない。やはりいじめは、確実に爪痕を残すのだ。
-理佳は、二杯目のお茶を飲んだ。
今日はいささか飲みすぎたようだ。
テレビやコラムなどで今時のいじめを観ていると、あの時アイ達が大人しく話を聞いてくれたのは奇跡だし、私も私で小学生の時に男子に怪我をさせたりしているので、同じ中学に進学したワタナベ達が散々嫌がらせをしてきたのも分かるのだ。高校に進学してからは同窓生とは、みわちゃん達としか会うことが無くなったため、彼らがその後どんな人生なのかは分からない。しかし理佳は、大半の奴らよりかは幸せな人生を送っている気がした。最近没交渉になっているみわちゃん達も、母親から話を聞く限りではそれなりに苦労しているようだ。
理佳は昼寝をしたせいか、目がかなり冴えている。もう少し他の思い出も振り返ることにした。
正隆は、相変わらず気持ちよさそうに眠っている。
天を待つ 千堂 澄直 @Sumi_sen
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