三津凛

第1話

環と名付けたのは鶴子である。


中庭の池の淵に、まるで溺死人のように佇む女を早朝に見つけた。鳥の影にしてはいやに大きく膨らんだものだと怪しく思って、庭に降りてみると女がいたのだ。

この土地のものではない。見たこともない、女であった。

鶴子は恐る恐る女に近づいて声をかけた。

「そんなところで、何をしているの」

女はゆっくり振り返って、鶴子を見つめた。

「池の鯉が、あまりにも美しいので……」

女はただそれだけ言って、池の面を眺めた。横顔の青白さが亡霊めいて見える。動かない細面と、よく肥えた鯉の回遊が奇妙なほど艶かしく写る。鶴子も普段見馴れた池と鯉たちが、なんだか全く別物になってしまったような気がした。

「あなたはどこから来たの」

「それが、全く分からないのです。気がつくと道に出ていて、あてもなく歩いているうちに大きなお屋敷が見えて来ました。それで……何かお聞きしようと生垣の破れた隙間から……」

女は疲れたように呟く。椿の枝の折れたところから入って来たのだと、鶴子は合点した。女の着物の袖には椿の葉が二、三枚ついていた。

「そこで、たまたまこのお池が目に入ったのです。それで、鯉があまりにも美してつい見入っているうちにあなたが降りて来てくださったのです」

鶴子は初め、この女のことを異様だと思った。気でも触れているのか、新手の物盗りか何かかもしれないと身構えた。だが女の瞳には無気力なものが宿るばかりで、小狡い色は微塵もない。カネやモノに色目を使う人間はいやあな笑みを浮かべる。鶴子はその笑みに慣れっこであった。女の瞳には、疲れこそ滲んでいるものの、笑みは浮かんでいなかった。ただ子どものように、鯉の回遊を目で追っている。

「いつまでもここにいると、そのうちお父さまに追い出されるわよ」

女は困ったように眉を八の字に下げる。鶴子はそこでまともに女の顔を眺めた。冴えるような美人である。肌の色は不健康な青白さを湛えているのに、それが却って色っぽかった。そして女はよく見るとそれほど歳をとっていないようにも思われた。

「私はなんにも分かりません。親の顔はおろか、自分の名前も住んでいた場所も」

「本当にそんなこと、あるのかしら」

鶴子はかなり疑って女を見上げた。背丈は女にしては少し高い方であった。父と並んでも、そう差はないように思える。手足が細長く、どこか蜘蛛を思わせた。

「えぇ、そんなこと、あったのですよ」

女は奇妙な明るさで笑った。鶴子は微かに怖さを感じながらも、この不思議な女のことが気になって仕方なかった。

「ここの鯉はみんな美しいのですね。模様がまるで上等な着物を着ているようで、うふふ」

「お父さまがみんな購ったのよ、お父さまはうるさいの」

「あら、面白いお父さまね……」

女はまだ見たこともない男の面を思い描こうとするように、ちょっとだけ虚空に目を彷徨わせた。その様がなんとも憂え気で、どこか泣き出す前のように鶴子には思われた。

「鯉がお好きなの」

「いいえ、そんなには。お魚って、目が死んでいるようで怖いじゃない。でも、ここのお屋敷の鯉は好きよ、大好き」

女は高い声で言った。家のものが起き出して来そうで、鶴子は少し慌てた。

「あなたは行くあてはないんでしょう」

「たぶん、そうでしょうね。誰も探しに、後を追っては来ないんですもの」

鶴子は女の姿態を改めて眺めた。履物はなく、裸足で泥に塗れていた。よく見ると親指の爪が剥がれて、血が固まっていた。

「いやだ、怪我をしてるじゃあないの」

鶴子はこれで、女を屋敷にあげる理由ができたと内心笑った。

「気づかなかったわ」

女は呑気に欠伸をした。幾つであろうか。少なくとも母よりは若いように思える。それでいて、今年十になる鶴子よりは幾分上に思えるのだ。

だが、女は不思議と歪な幼さを引きずっていた。鶴子はそこにいたく惹かれるのだ。

「足も汚れているじゃない、それじゃあいけないわ。こっちに来て」

鶴子は女の返答を待たずに、細い手を引いた。関節が蛸の足のように柔らかく、骨の硬さを感じなかった。

「ねぇ、また鯉を見に来てもいいのかしら」

「えぇ、いいわ。いくらでも」

女はその言葉を聞くと、素直に鶴子について来た。



女は冴えるように美しい。池の鯉も霞むほどに。

美人はよく、玉になぞらえられる。だから鶴子は女を屋敷へ戻る間に環と名付けた。家のものを呼びつけて足を洗わせる時も、父に引き合わせる時も、女のことは環と言って通した。

環は勝手に名付けられた名を、文句を言うわけでもなく無邪気に受け入れていた。

父はこの不思議な環のことは、薄気味悪く思いながらも家にしばらく置くことにはしたようだ。それは鶴子がしつこく頼み込んだこともあるだろうだろうが、環の顔を見た途端に父は目の色を変えた。傍の母は露骨に嫌な顔をしていたが、何も言うことはしなかった。父は空いたままになっていた、陽当たりは悪いが、よく池の見える角部屋を環に与えた。こうして環は鶴子の家に留めおかれることになったのだ。



環が成熟しているのは、その美貌だけであった。あとは十の鶴子にも劣る幼さであった。ろくに箸も使えず、母を怒らせた。いつも飯やおかずをこぼしては、着物を汚した。そんな環を、母は陰で虐めているようだった。鶴子が偶然環を叩いている母を見つけて父に告げ口してからは、それはさらに陰湿に人目につかないようになったらしい。

「環、お前その傷はどうしたの」

「さぁ、お母さまが……」

「いつ虐められたのよ、お父さまに言いつけてやらなきゃ」

環はあまり興味なさそうに、鼻唄を歌う。それは暗い「通りゃんせ」であった。

「このお池の鯉は、みんな可愛いわ」

環は飽かずに池ばかり眺めている。文字の一つでも書ける歳だろうに、半紙と筆を試しに置いてやってもまるで興味を示さずに、池の淵にばかり行きたがる。母の陰湿な虐めも、あまり堪えていないようだった。

外見だけは大人になりかけの女で、中身はまるで幼児であった。この頃になると、鶴子も薄々環が知恵遅れであることに勘づいていた。恐らく母も、それをいいことに環をていの良い捌け口にしている。日がな一日、環は池の鯉ばかりを眺めてだけだった。他にはなんにもしなかった。家の手伝いも、勉強も、なんにもしなかった。



はじめ環の奇妙さを面白がっていた鶴子も、池の鯉ばかり眺めている環に飽きだした。そればかりか、母と同じように環を疎んじて虐めるようにもなった。環は知恵遅れのくせに、妙に男を惹きつける術を知っていて、庭師の男や調理場の下男が言い寄っているのを何度か目にした。環の方はまるで知らないことのように、その度鶴子に縋ってきた。初めは可愛いと思い、勝手に幻想を抱く男どもを憎く思っていた鶴子も、疎んじるようになってからはどことなく自分が馬鹿にされているように感じだした。それは鶴子が想いを寄せていたある下男が環に強引に言い寄って、あやうく手篭めにしそうなった事件があってから頂点に達した。

鶴子は環をいないものとして扱いだした。

「お姉さん、近頃あまりいらっしゃらないのね」

環はまるで気づいていなかった。ただ無邪気に寂しがっただけである。それから環はいよいよ独りきりになってしまった。下男どもは環を狙っていたが、ここにきて父がにわかに環にすり寄るようになった。そのせいで環は束の間男どもの目からは外れるようになっていった。

鶴子は父の環への奇妙な執心を、気味悪く思いながらも、下男の件を主人として気にしているのかしらんと都合よく考えていた。母は相変わらず環を虐めているようだった。



ある夕方のことである。その日は激しい雨の降る夕方であった。鶴子は父に言いつけられて、池の鯉に麩菓子をやっていた。なにもこんな雨降る夕方に、麩菓子をやらなくてもよいのに、と鶴子は不満であった。池の鯉はよく肥えている。我も我もと麩菓子を呑み込む。鶴子はなんとなく、その様に見入った。生き物は可愛い。

なんとなく、環が飽きないのも分かるような気がしてくる。

雨はいよいよ激しくなった。鶴子は残りの麩菓子をみんなやって、屋敷へ入ろうとした。

そこで鶴子は奇妙なものを見た。ふと視線をやった先が、偶然環の部屋になっているあの角部屋であった。廊下にはいつか鶴子がやった半紙と筆が散らばっていた。墨だけで器用に泳ぐ魚が描かれている。近寄って手に取ってみると、それは池の鯉に違いなかった。微妙な濃淡で鯉の美しい縞や模様を描き分けてある。そして透明な水面の揺らめきまでもが写し取ってあった。

人間一つは芸があるものだ。

環の不思議な才能に鶴子は、ふうんと頷いた。だが乱暴に墨やすずりが投げ出してあって、墨色の手形や足跡が廊下や障子に残されていた。鶴子は不思議に思って、わずかに開いた障子にそっと顔をつけて、薄暗い中を覗いた。

まず環の真っ白なふくらはぎが目についた。股の間に男が挟まって、環を必死に押さえつけている。

鶴子は思わず大声をあげそうになって、口を噤んだ。

父であった。

鶴子はそっとその場を離れると、知らない顔をして屋敷へ入った。



夜に父はいつもより上気した顔をして、飯を食べていた。母はなにも気づいていないようだった。

鶴子もなにも聞かなかった。

環はその夜、飯を食べには来なかった。



それから父は何度か環を犯していたようだった。詳しくは鶴子も知らない。あれ以来、環と父の現場は見ていない。だが、なんとなく分かるのだ。父はほんの少しだけ、上機嫌になる。若くなる。

環は反対に老けて痩せていった。そして前にも増して、池の鯉ばかり眺めるようになった。次第に衰えていく環に父も興をなくしたのか、あからさまに疎んじるようになっていった。環はいないものとして扱われ飯だけが部屋の前に突き出されるようになっていた。

鶴子も母も父も、罪悪感はなかった。

むしろ自分たちを出自の分からない、知恵遅れの厄介者を世話してやっている慈悲深い人間であると本気で信じていた。



ある日の朝に、池の鯉がみんな殺されて浮いていた。白い腹をこちらに向けて、浮いている。だがよく目を凝らすと、みんなよく膨らんだ腹を食いちぎられて、臓物がとぐろを解いてそこら中に漂っていた。白や灰色や肌色の臓物が浮いたり沈んだり、吹く風に淡く流されたりしている様は異様だった。

池の淵に捨てられた鯉の腹には歯型がついていた。屈んでよく見ると、熊にしては小さく、犬にしてもまだ小さいように思えた。ちょうど人間の口と同じほどの噛み口に、鶴子はぞっとした。父や母がそれに気がついたのかは分からない。鯉の臓物はなかった。

環だ、環がやったのだ。

鶴子は破れたままの椿の生垣に目をやった。

環は二度と帰っては来なかった。



環が消えてから半年ほど経ってから、父が不思議なことを言い出した。

「隣町の坂という家に、娘がいたそうなんだがね……これが」

父はそこで少し言葉を区切った。

「酷い知恵遅れで、坂はずっと開かずの間に娘を閉じ込めていたそうなんだがな。だがその娘が一年くらい前に、ふっつりといなくなってしまったそうなのだ。その娘は大変な変わりもので、日がな一日鯉の絵ばかり描いて過ごしていたそうだよ……なんでも、襖に鯉の絵が描いてあるのを見てからずっとそんな調子だったそうだよ……」

父は自分のしたことに、少しも呵責は感じていないようだった。母も知らぬ顔して聞いている。

父はまるで死んだ人を思い起こすような遠い目をして、ふっつりと呟いた。

「その娘の名は、そねといったそうだ。環は……あるいは」

だが父はその先は二度と続けなかった。母も鶴子も、聞くことはなかった。


ともかくも、環は二度と帰っては来なかった。

ただ、それだけである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

三津凛 @mitsurin12

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る