手紙

胤田一成

手紙


 Kが死んだという話を知らされたのは随分と後になってからであった。無論、葬儀には参加していない。もっとも、Kの身の上を鑑みるに、別段私に喪に服して欲しいとも、彼自身思ってはいなかっただろう。

私のKに対する述懐を聞いて、私を薄情だと蔑む者もあるかもしれないが、私とKとの間に結ばれた友情はひどく微妙なところがあるのは確かである。付かず離れずの関係。それが私とKとの間に結ばれた縁であり、無責任に「友人」と名乗って良いものであるか、今をもってしても、甚だ疑問でもある。それでも、Kが車に轢かれたと聞かされたとき、私は私なりに思うところがあった。

誠に勝手ながらこれをもってして、私の数少ない友人―もし、世間がそれを公然と認めてくれるなら―への追悼にしたいと思う。


神奈川県川崎市某所にその古書店はあった。大手古本マーケットがあちらこちらに点在する中、その店は神田や神保町にあるようないかにも古めかしい雰囲気を纏った佇まいで、当時の私にとってちょっとしたお気に入りの店であった。

恥ずかしながら、その時の私は些細な事件を境に精神を病んでしまい、定職にも就かず、終始ぶらぶらと町を浮浪して一日の大半を過ごすような怠惰な生活を送っていた。

両親は五十を過ぎても健在。父は営業の仕事を週に六日はこなし、母は六十に近くあっても大手スーパーマーケットの要職に就くような働き者の一家にあって、私は卑屈な心持ちで無為に毎日をやり過ごしていた。医師は自宅での療養を強く勧めてはいたが、堪らず家を飛び出しては当てどなく町を徘徊してしまう…そんな生活を送っていた。

その頃の私は妙に退廃的なもの心を惹かれた。公園に足を運ぶにしても、目に入るのは打ち捨てられたゴムボールであったり、誰か子どもが忘れ去っていったものであろう古びた縄跳びだとか、蝋を塗りたくったような白いサルスベリの木だとか―そういう平生なら気にならないものばかりが、いちいち私の目を驚かすのである。

一度、あのサルスベリの木の下で一人のホームレスが横たわっているのを見たことがある。美しい景色であった。私はその時、涅槃に入った釈迦とホームレスを重ね合わせて見ていた。「あのように息を引き取れたらどんなに幸福であろうか」。そう思うぐらいには、私の心は病に蝕まれていたことも確かである。

古書店は私の最後の砦であった。人の雑踏に揉まれ、とめどなく流れ行く駅の改札口の前を眺めているだけで私の心は深い海の底に沈んでいった。そういう時、私はその古書店に頻繁に足を運んだ。

あの古書店は実によくできていた。表には値打ちのない古本がずらりと並べてある。勿論、防犯カメラのなど野暮なものは置いてない。その気になればいくらでも盗みを働くこともできるのに、店主は何も物言わず、むっつりとカウンターに居座って新聞や古びた文庫を広げている。客が入店しても「いらっしゃいませ」の一言も言われた例がない。客達は影のように入っていき、影のように去っていく。

人の恐ろしさを知ったばかりの私にとってはそれくらいの店主と仕組みがちょうどよかった。余計な詮索をされないというだけで、私にとってその店は充分過ぎるほど、天国のように思えたものだ。そのような商人としては失格といってもよい店と主の元で、私は小一時間の憩いを味わっては、また、人混みと喧騒の中に姿を隠すようにしてふらりふらりとした足取りで家路を歩んだものだ。

数年ぶりにKと再会したのは、奇しくもその古書店であった。正直に告白するとそれは私にとってあまり心地の良い再会の仕方ではなかった。最後の砦が数年来の詳しくもない知人に壊された、そう感じたのを覚えている。

私は古本を物色する振りをしてKとの再来をなるたけ避けようとした。しかし、事はうまく進まないものである。Kは目ざとく私を確認すると、二三度、狭い店内を周回したと思いきや私に歩み寄ってきた。私は観念することにした。

「やあ、お久しぶり」

「ああ、久しぶり」

 短い会話であった。私はKの服装を古本の列を前にして、傍目でちらりと観察した。仕事帰りなのであろう、Kはスーツを着ていた。それだけで私はKが次に口にするであろう言葉を察して先手を打つことにした。

「実は病気を患ってね。今はその療養中だ」。嘘はつかなかった。

 Kは興味があるのかよくわからない反応で、ふうむ、とだけ相槌を打っただけであった。

 学生時代、私はKの常に先を行っていた。学問にしても運動にしても私は周囲の先を一歩先を進んでいたといってもよい。それだけに逆転した立場と自信が私の心を勝手に傷つけた。私の脳裏は破れかぶれになり、言い訳ばかりを思いついてはそれを打ち消して、また新しく言い訳を生み出すという作業に取り掛かっていた。

「実は仕事帰りでな。普段は本なんて読みはしないんだが、リフレッシュでもしようと思ってね。お前、こういうの詳しいんだろう。一冊見繕ってくれ」

 Kの言葉の端々に心を抉られるような思いであった。しかし、Kに非はない。普通の社会人としての会話をしているまでである。私は仕様がなく、一冊のティーン向けの文庫を手に取った。

「ありがとう。このくらいの厚さならなんとか読み切れそうだ」。Kはそんなことを呟いたていた。

 私は一目散にその場を離れたかったが、頭の片隅には、ここで逃げてしまったらそれこそ怪しまれるのではないか。気が狂っていると露見するのではないかと気を揉んでいた。Kはしばらく私の薦めた古本を弄んでいるようであったが、「お前がよければお礼にお茶でも奢らせてくれよ」と本の表紙に目を落としながら、さりげなく私を誘ってきた。

 私はその申し出を断ることができなかった。

 Kに導かれた店は何の変哲もないファミリーレストランであった。Kは椅子に腰を掛けると、社交辞令的な問答をし始めた。そして早くも私は疲れ始めてもいた。古びたコートのポケットに忍び込ませていた錠剤を確認すると、一気にここで飲み干したい衝動に駆られた。言葉の端々に棘を見出しては密かに傷つく。そんな時間がこれから延々と続くと考えると耐えられなかった。自白するときが来た―漠然とそう感じた時にはもう遅かった。

「実は俺…精神疾患なんだ」

 Kは驚かなかった。それは意外なことでもあった。私は私が思っている以上に自分を包み隠せていないのだろうか…。

「そうか」

 Kは小さく呟いた。そして先刻から組んでいた腕を卓上に乗り出すようにして、私に近づき、耳元でこう囁いた。

「誰にだってすねに傷くらい持っているもんさ。あんまり気にするな」

 薬の効用が切れたのもその時だった。私はKに噛み付くようにして反駁した。

「誰にだってすねに傷くらいある…知ったような口を訊くな」

 Kは落ち着いていた。まるでこのような場面は見飽きたとでもいったようにゆっくりと体を引くと、「俺にだって傷くらいあるさ」と鷹揚に答えた。その態度が私には気に食わなかった。私は彼の揚げ足を取ることに躍起になっていた。

「じゃあ、お前の傷とやらを見せてくれ。お前に俺の気持ちの何がわかる」

 Kは腕を組んだまましばらく考え込んでいると同時に、私の瞳を見つめながら何かを勘定しているようでもあった。気まずい沈黙が流れたが、私にとってそれはどうでもよいことであった。結果からいうと、Kは私の予期しないタイミングでカミングアウトをやってのけた。Kはしばし目を瞑ったかと思うと、私の詰問にこう答えてみせた。

「実は俺、詐欺師なんだよ」

 今度は私が驚く番であった。Kのナリを見て、私はてっきりサラリーマンだとばかり思い込んでいたのだから。

「今は物件詐欺を専門にやってる。年寄りや金持ちに高額の物件を押し付けて、破産しそうなところを見定めて、小金を稼ぐチンケなヤクザもんだ」

 私は開いた口が塞がらなかった。数年来の知人が私の知らない世界で、そのような稼業に従事していることもそうだが、私の知っていたKとはあまりにかけ離れたことに手を染めて糊口を忍んでいたとは。私は彼の想定外の「すねの傷」に驚きを隠せずにいた。

「嫌な商売さ。中には…特に若いもんだが大金に目がくらんで客を馬鹿にする奴がいる。そういう奴は心が麻痺してんだ。客は客だ。アコギな商売をしていることは分かっている。それでも越えちゃいけねえ一線ってのがあるんだよ。兄貴たちはよく分かってる。そういう生意気な新米には焼きを入れるようにしてるからな。前に婆さんから金を巻き上げたとき、弟分がバカにしてさ…。俺はそいつをボコボコに殴って焼きを入れたよ。亭主に死なれて首が回らなくなった婆さんをさ、笑いやがったんだよ。でも焼きを入れながら俺は思ったね。俺とこいつのやっている事のなにが違うんだってさ。所詮、同じ泥の舟に乗っている輩じゃないかってさ…。俺たちはヤクザ稼業に勤しんで喜びを感じたことなんてただの一度もないよ。ただの一度もだ。毎日罪を犯して生きている。人生の足を洗えるなら足を洗いたいさ。いつもそう願って生きている…。お前が最悪なら俺らはその底を歩んでる。善人や何も知らない一般人から金をむしり取って生きてるのさ。それが俺のすねの傷さ」

 Kはそこまで語ると、居心地が悪くなったのかタバコに手を伸ばし、火をつけた。今度こそ気まずい沈黙が流れた。

「薬、持ってるんだろ。俺にもくれよ」

 Kは自嘲するかのように、私を一度からかってみせた。Kの顔は疲弊していた。人生を誤って、日々、罪と罰に恐れながら歩んでいる人間がそこにいた。私は急にさもしい人間に思えてきて、目を下にやるばかりであった。Kは語るべきことを語り終えた疲労からか、手持ち無沙汰に私が古書店で見繕ってやったティーン向けの本をパラパラと捲っていった。その時、古本の隙間から、栞にしてはやや大きめの一葉の紙切れがハラハラと卓上に落ちた。

「あっ」

 今度はKが驚いた。しかし、それはどことなく嬉しそうな顔つきであった。彼は私に無言でその紙切れを手渡した。そこには短く拙い文章でこう書かれていた。


  すみませんでした。本に目がくらみ万引きをしてしまいました。許されるとは思っていません。この本はお返しします。


 Kは感慨深そうに私の手に握られた手紙を眺めていた。そうして、「俺は赦すよ」と小さ

く呟き、次いで「この手紙はお前宛だよ」と笑顔で囁いた。

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