ストーカーズストア

鯖井テトラポット

ストーカーズストア


 佐藤恵麻の休日は、朝起きてすぐに携帯を触り布団の中で三十分を浪費するところから始まる。窓から差し込む光とロック画面の時計が十一時を知らせていた。夏の日であった。

 くだらないまとめサイトに目を通し、ツイッターのおもしろ動画をリツイートし、「おはよう」とつぶやき、キャラクターのボットにハイテンションな自動返信を貰う。布団を抱いたり剥いだりしながら恵麻は文字通りの自堕落にふけっていた。

 アイコンの右上に現れる赤い数字を減らしていくのが快感になりつつある彼女は、ラインのメッセージも目を通しているところである。彼女の二十数年間の普段の夏ならばこれで良かった。

 彼女はある一つのメッセージに目を留めた。彼女には見覚えのない人間である。匿名性を示す灰色のアイコンとラインからの警告のポップアップが目新しい。「ストーカーズストア」と一言。下に仕事で見慣れたグーグルドキュメントのPDFファイルのリンクが貼られていた。

「んー?」

 寝ぼけ眼というにはブルーライトに当たりすぎた目で、彼女はリンクの前で指を周回させて、開けるかどうかを思案させた。新手のワンクリック詐欺だろうか。だがリンクの形式には見覚えがあった。この文字配列は確実に無害な文書である、と彼女の好奇心が語りかける。

 押してしまった。ネット世界に飛ばされて、予想通りの文章が開かれる。

「ストーカーズストア」が目の前に正体を現した。目を通していく。

 半分ほどまで読み切らずに恵麻は自堕落を脱ぎ捨て飛び起きた。一度大きく深呼吸する。

「嘘でしょ?」

 薄々嫌な予感はしていたのだ。ストーカーズ、という名前から。開けなきゃ良かった?でも開けて良かった?彼女は文書の先を見ずに目を閉じた。落ち着いて。どうにかしないと。


 インターホンのチャイムが鳴り、恵麻は大急ぎで駆けつける。

「ねえ小野寺遅い、死ぬかと思った。電話してから四十秒がルールだったじゃん」

「いつの話だよ。てかそれ学生寮時代の話じゃん。あっついから早よ入れて」

 走って来たのか、小野寺はタンクトップを体に貼りつけながら半ば強引に部屋に押し入った。

「冷房サイコー、あ、駅前の露店でラムネ売っててさ。買っちゃった。飲む?」

「絶対冷静に考えてないでしょ。こっちは大真面目なの。あと冷えたラムネが心地いいのは走って来た小野寺だけじゃん、今私いろんな意味で寒いんだもん」

「せやなー、すっぴんだもんな」

「お前に関してそんなことはどうでも良い。」

 小野寺は高校時代からの恵麻の良き友人であった。小野寺には彼氏がいたし、お互い別に過干渉することのないただの親友であった。少々ガサツで面倒臭がりで、けれど恵麻にとっては一番頼り甲斐のある人間、それが小野寺だった。

「で、本題。どうした?」

 小野寺はラムネを悠長に冷蔵庫にしまいながら声をかける。

「ストーカーよストーカー。」

「はは、恵麻に?」

「冗談じゃないわ本当に。心当たりもなんもないんだから。」

「んー」

 恵麻は自分のピンクのスマートフォンをそのまま小野寺に渡した。はやりのスマートフォン裏の滑り止めリングは小野寺の手には少し小さく見える。

「見てよこれ…」

 そこには恵麻の行動や言葉を逐一書き取った文字列が表示されていた。小さな一挙一動から何まで全てが描かれている。台所からグミを奪取して口に含んでいた小野寺はしばらく無言でグミを噛みつつ見つめていたが、一通り目を通すと椅子に大きく腰掛けてグミと息を飲み込んだ。

「趣味悪!こういう陰湿なやつ嫌いだわ」

「ね、気持ち悪いっていうか…なんかこう、なんで?みたいな」

「しかもこれ冷静に考えたら現在進行形で監視されてるってことだろ。しかも多分一つだけじゃないな、たくさんあってもおかしくない。」

「何が。」

 小野寺は呆れた顔をして、恵麻にちょっと小声で話すから耳貸してのジェスチャーをした。

「かーめーら…」

「え、やだ。」

 警察は?という小野寺の耳打ちに、恵麻はまだ、と答えた。

「だって最近警察って証拠が無いと動いてくれないんでしょ?カメラも何もないのに通報するの自意識過剰みたいで嫌だなーって。」

「証拠ここにあるじゃん!バカ!後せっかく警察って耳打ちしたのに大声で言うなよ!」

 ああもう、と小野寺が立ち上がりぐるぐるワンルームを周回した。恵麻のベットに焼けた肌を下ろしてもう一度文章を読み始めた。

「…増えてる?」

「そうなの。」

 文章は二人がスマートフォンを利用していない間にもかさを増していた。耳打ちした言葉も全て筒抜けだった。「増えてる?」という言葉すら反映される即時性に、小野寺は得体の知れない悪寒を感じた。

「なんか見透かされてるみたいで嫌な感じだな。」

 それすら即座に反映される。小野寺はしばらく黙って画面を見つめていた。何か喋ったり行動を起こさない限りは文字列はあまり更新されないようで、小野寺は画面の向こうと謎の我慢比べをしているような気分になった。その気分すら丁寧に書き込まれてしまう。小野寺は無言で負けを認めた。負けを認めたことも、どうやら文字に反映される。それがどうしようもなく悔しかった。

「これダメだ。埒が明かねえ。カメラとマイク探そう。」

 二人の話題はカメラ等の電子機器をどうやって探すかに変わっていった。

「ちょっとまって。文書ファイルは開けたままにしておきたい」

「どうして」

「カメラがどこかにあるなら、きっと文書ファイルを見ていれば近いとか遠いとか、わからないかな。ほら、マイクとかって近くで音立てると大きくなったりするじゃない。」

「なるほどね、天才。お前のことだから、意外とすぐ怖がって閉じちゃうと思ったけど。」

「んな…」

 恵麻は少し自分の行動を反芻して驚いた。普段の自分なら、気持ち悪い虫でも見たかのようにすぐスマートフォンを手放すだろう。まるで自分の命のように手に握られたソレのケースの桃色が、薄い血管が張り巡らされているように思えてならない。わずかな鼓動は、胸の前に抱え込んでいるせいだと思わなければ、やっていられなかった。

 画面を見つめると、それすら描写されていた。吟遊的で柄でもない思考を的確に汲み取られて行く様を見ると、むず痒くて仕方ない。

「なにじっと見てんだよ。探すぞ。」

「ん、ごめん。」

「延長コンセント、だいたいどこらへん?」

 テレビ付近、キッチン…。恵麻の口からコンセントの在りかを聞いた小野寺は大きな体を屈めてタップを探した。テレビ裏の延長コードは、その積もった埃が可能性のなさを提示していた。

「誰か家にあげたりした?まあ上げる相手もいないだろうけど」

「ねえ酷い、まあそうだけど」

 表示される文章にも可能性はなさそうだ。警察をクローズアップしている番組や弁護士の番組などを見るのが比較的好きな二人にとって、延長コンセントやタップに盗聴器が仕込まれているのは定例だった。二人の中で共有された常識に沿って、盗聴器探しは進んでいく。

「でも盗聴器だけじゃないよねえ。カメラあるもんねえ。というかカメラで盗聴もできるか。」

 更新されて行く文字列を見ながら恵麻は嘆息を漏らす。盗聴器探し、という文字が彼女に冷静さを与えたように見えた。

「でもいろんな画角からとってるんだから可動式か、たくさんあるかだな」

「うえっ、気持ち悪。」

 自然と二人の目線は上に向いた。白い天井に火災警報器と灯っていない電灯がくっついている。

「上にはなさそうだな。」

 小野寺が見渡して答える。恵麻の家には廊下がない。入り口の左右の風呂とトイレ、ダイニングキッチン、寝室。全てが扉一枚を隔てて繋がっていた。二つの部屋を渡って監視するのには数台のカメラが必要であった。ここまで細かい監視をするのであれば、上ではなくもっと至近距離の、たくさんのカメラが。

「何かの後ろとかにたくさん隠してあんのかな。」

 部屋の間取りまで完璧に把握され描写されていることは最早驚きに値するものではなかった。ここまで恵麻たちが監視カメラの存在を認知し、危機感を抱いても描写は続いて行く。監視側が何を意図しているのかは、計り知れなかった。

 一先ず彼らの計画は監視カメラを手当たり次第探すことに変更された。機器を探すという名目で大掃除をさせられているようだと小野寺は感じたが、胸の内に秘めておくことにした。しかしながら、スマートフォンで距離や様子をチェックする恵麻はこの文章を見逃さない。描かれながらの探索は、コミュニケーションの面で困難を極めた。本当のことを胸の内に秘めておける、嘘がつける世の中というのはとても便利なものだ。


 敵を知るにはまず情報から。しばらく捜索しても見つからない監視カメラを探す気が失せていた、とも言える。恵麻が熱心にタンスの中身を探していた。小野寺は今現在休憩という名目でキッチンに追い出されている。

 監視カメラについて一通り調べた小野寺は、ふと思い立って検索ウィンドウに手をかけた。少しの可能性だけが頭をよぎった。が、事態はその少しの範疇を超えていた。それを検索結果が示していた。

「……。」


 小説、ストーカーズストア。検索結果、約 13,700,000 件 (0.46 秒)。


「…ああ、なるほどね。」

 それは彼の口癖であった。あまり理解していない時に、自分を落ち着かせるために口を衝いて出る言葉。

「ん?なんかあった?…何、メール見てんの。」

 タンスの掃除もとい捜索を終えた恵麻がキッチンの小野寺に目を向ける。

「いや、ちょっと。」

 恵麻に知らせようとする言葉を今一度喉の奥に留めた。彼女は今不思議そうにこちらを眺めている。まだ確定したくない事実は、彼女が伝えるには重すぎる。

 が、一瞬でその考えは別の方向に舵を切った。今彼女が握っている、画面が着いたままのスマートフォン。…画面は見ていないが、一言一句更に深い深層心理が記録されている、スマートフォン。恵麻が今一度その画面を除いたら、自分が考えていること全てが晒されてしまう。

 普段ならこんなジレンマは詭弁一つで乗り切ってきた。小野寺は恵麻と見つめあったまま、慎重に言葉を選んだ。

「…スマートフォン、一旦貸してもらっていいか?」

「え、うん。いいけどなんで?なんかあった?」

「いや、そんな大したことじゃないんだが。少し文書自体について調べたくて。」

「…ほい」

 見られたら終わる。焦った腕が、心なしかスマホを「もらう」から「奪う」に変えていた。

 それに気づいて慌てて恵麻を見る。

「ごめん。」

「ん。別にいいけど。私トイレ行ってくるね。」

 その言葉を皮切りに、一先ず画面の確認をする。先ほどまでの思索の画面は確かに思った通りの現状になっていた。でも、今の問題はそこではない。

 手にしている無骨なケースなしのiPhoneの検索結果に目を落とす。

 一番上に、amazonのページ。開くと、1600円強のソフトカバーの表紙が現れる。

 作者の名前。女の名前のようだった。商品詳細を開く。恵麻が帰ってくる前に、とにかくこの文書についての情報を手にしないといけない。リアルタイムに更新されて行く文字が、小説だとしたら、この本は未来予知を記していることになる。自分と、恵麻だけの未来予知を。

 しかし、内容紹介が彼の目に入った時、それがもはや幻想であることを彼は悟った。

 ストーカーの文書と目があった。確実な誤差であった。内容紹介と目が合う前に、彼は文書が語る「内容紹介が彼の目に入る」という予知を目に入れていた。

 逆にその誤差が彼に恐怖を植え付けた。この未来予知仮説を覆す、何かがこの内容紹介の中に秘められている。幻想であることを悟るほどの何かが、内容紹介に。

 小野寺は、その言葉に抗えなかった。内容紹介を、恐る恐る覗く。


 ――

 蝸牛になった男、電柱の霊を見る少年、自身が小説の登場人物であることを悟る男女。

 デビュー作『それは今ではない』で文学記念賞を受賞した、今注目の若手作家が

 物語という枠をメタフィクション的に捉えた

 全く新しい10篇を載せた短篇集。

 ――


 自身が、小説の登場人物であることを悟る男女。

 手先が震え始める。ストーカーズストア。短篇小説。小説の登場人物。

 その考えすら、描写されていくファイル、ストーカーズストア。

「なにその本。」

 突然の右からの声に、小野寺はあたふたと後ずさった。未だ思考が整理できていない脳に軽いノックを与える。両手に持ったスマートフォンをがっちり握りながら、インフレしている情報をなんとか組み立てようと努めた。あと少しで何かのピースがはまりそうなのだ。

「いや、ちょっと待ってほしい」

「スマホ返してよね」

「おい!」

 彼の手に恵麻が手をかける。

「ねえちょっと、返してよ」

 さすがにここで粘ったら、変なところで勘のいい恵麻には勘付かれるに違いない。判断は手を離す方に軍配を上げさせた。が、その策はただ彼女に考えを巡らせることになってしまった。

「ねえ、なに考えてたの。なに?全然わからないんだけど。」

 こっちのセリフだよ、と言いたい気持ちを抑えて、小野寺は恵麻の鋭い視線から目を背けた。

「…鋭い視線から目を背けられても全部わかるんですけど。」

 スマートフォンを渡したことで、心は全て筒抜けになっていた。彼女を説得するにはもはや自分の口で語り始めるしかなかった。この諦めにも似た考え方が、また彼女の機嫌を悪くさせる。とにかく口を開くしかなかった。

 寝室に戻って、咄嗟に彼の口をついて出た言葉は、自分にも予想していなかった内容であった。

「世界五分前仮説って知ってるか。」

「…知らなかったら悪い?」

「ごめんって。全ての過去の記憶を植え付けられた状態で、俺たちは五分前に生まれたっていう有名な哲学者のソレだ。」

 小野寺は我ながら背筋に何か、冷たいものが差し込まれるような感覚を覚えた。真理のリフィルが背骨を冷やしている。深夜のホラーにも劣らない、何か直感的な畏怖。

「俺に彼氏がいることも、恵麻が寝起きにネットサーフィンする日課でさえも、全部の記憶や状態を保持したまま、俺たちは五分前に生まれたとしたら…。正確に言えば、『数行前』から…だと思う。」

 つかの間の静寂に、部屋の薄重たい夏の空気が飽和した。開け放たれたカーテンから見える外の景色とのコントラストが寒い部屋を余計に寒くした。

「…やっぱりそうだ。」

「何?何が言いたいの?ストーカーの何がわかったって言うの…よ。」

 小野寺のいつになく真剣な目に射抜かれた恵麻は若干語尾を濁らす。

「お前、いつカーテン開けた?」

「…朝じゃない?」

「今になるまで、自覚してなかったろ。」

「別に。朝起きたらカーテンを開けるのは、不思議じゃないでしょ。」

「正直俺は、今までカーテンが開けられている事実について気に留めてなかった。正直、知らないとさえ言ってもいい。」

 恵麻は黙り込んだ。正直、自分に関してもカーテンを開けた自覚は存在していなかった。自分自身の後の行動を、自分自身の脳みそが補完しているような、そんな感覚…。小野寺が冷房の効いた部屋で、汗を流す理由が、彼女にも伝わり始めていた。

 小野寺は、大きなため息をついて、言った。

「いや、本当にもしもの話なんだが。…恵麻、お前、なんで携帯の画面を閉じようとしないんだ?」

「だって、それは、文章ファイル見ていれば監視カメラの位置がわかる、から…。」

「俺に電話したのも固定電話から。文章ファイルは気持ち悪いといいつつ、閉じれない…。本当に馬鹿げた話なんだが、俺たちは文章ファイルを閉じたら死ぬんじゃないか…?描写されて動く、小説の登場人物のように。」

「つまりはどういうこと?」

 恵麻は訝しげに小野寺を見た。疑わなきゃいけないような気がする。何かに突き動かされて、疑っている事実すら自由意志だと思えなくなる。

「俺らは監視されていなければ動けないってことだよ。俺が見えないところで動いても誰も認識してはくれないだろ。でも、俺らは動いている。つまり、何者かにいつだって見られているということさ。例えば、携帯を通してとかね。」

 小野寺は手で窓を作り、窓に向けてそれを翳した。昼の太陽の光が、電気のついていない部屋に四角い影を作った。自分の心臓が確かに脈打って、鼓動が早くなるのを小野寺は感じていた。それは今まで、自分が動かしていると信じて疑わなかった、心臓。

「きっと、今のこの行為だって、誰かに見られてなけりゃ存在することさえできない…。つまり僕らは、描写されているんだ。何かによって。そうだろ?」

 小野寺は窓を携帯のカメラに向ける。

「そんな馬鹿げたこと…、私たちは今自由意志で動いているじゃない。心だってあるし、この事をバカだと思える頭だって持ち合わせてる。」

「お前は全くわかっていないなあ。」

 小野寺はラムネ瓶片手に、ベッド前の机に腰を乗せて不服そうな恵麻を見下す。

「この文章ファイルに描写されることで、俺たちは存在させられているってことだよ。数ページ前に恵麻が、その後に俺が生まれた。そうして出来た世界五分前仮説的世界で、描写されていない行動以外の記憶なんかは、つどつど都合のいいように補完されていく。」

 恵麻の背筋のリフィルにも、氷水のような感触がうっすらと流れ始める。

「なあ、恵麻。…文書ファイル、閉じてみろよ。」

 スマートフォンを眺める。少し割れたiPhone7。ピンクの、ありきたりなケースがついている。後ろのリングに通した指が、氷水の血液によってキンキンに冷やされて行く。それを描写している文章。電源ボタンに当てがった手が、よく見ると震えていた。それが震えていたのか、画面に出てきた文章によって震わせられていたのか、恵麻はわからなかった。即時性が、自分と自分じゃない何かの境界を溶かして行く。電源ボタンを、押せない。

「閉じてみろよ」

「嫌だ」

「なあ」

「嫌!」

 スマートフォンを強引に奪おうとする小野寺の手から、恵麻は無意識に転げるようにして遠ざかっていた。ハッとして小野寺の顔を見つめる。彼は目を丸くして恵麻を見つめていた。恵麻は、泣いていた。

「恵麻、お前……。俺、そんな悪いことした?」

「…小野寺が、強引にスマホ、取ろうとするから…。ごめん、違う。わかんない。私、なんで泣いてるの?私、そんなに電源切るの、嫌なの?わかんないよ、ごめん。」

 泣かされているのか、泣いているのか、自分はなんで泣いているのか。自分じゃない何かに突き動かされて出てしまった涙が、一番考えたくない非現実的現実を恵麻に突きつけた。

「そういやさ、お前、110番もしようとしなかったよな。」

 涙目で頷く。恵麻の手は震えていた。

「俺のスマホで、警察に電話していいか?」

 二人はしばらく見つめあっていた。恵麻は、その数十秒の間、数回口をぱくぱくと動かそうとしたが、その口は徐々に形が歪んで言った。最後の言葉が紡ぎ出される。

「わかんないよ、きめらんない、ごめん、おかしいよね、私」

 堰を切ったようにわあわあと声をあげて泣き出す恵麻に、小野寺はある種の恐怖にも似た感情を覚えた。だが、もうそうしてはいられなかった。彼女に分からなければ、自分がかけるまでである。

 汗ばんだ手で白いiPhoneを動かす。暗証番号はかけていない。スッと開いたその画面の通話ボタンを押すのには、さほど躊躇いはなかった。親指はいささか1に遠かったので、滑らないように左手の人差し指で丁寧に数字を押す。指先の照準は定まっていた。が、指があまりいうことを聞いてくれない。

 深呼吸をして恵麻を見る。恵麻は呆然とある一点を見つめながら、肩で息をしていた。

 番号を、押して行く。たった三桁を押すのに、こんなに躊躇いがあるのは、この番号のせいだけではあるまい。

「かけるよ」

 視線を合わせずに彼女に声をかけ、思い切り液晶を押した。

 その時だった。

 途端に黒い画面に締め出されてしまう。全身から焦りが吹き出した。ホームボタンを押しても反応しない白い物体。焦燥とともに電源ボタンを連打した。

 文明が進歩したこの世界においても、電池が切れただけで物は使い物にならなくなるのであった。

「…充電、切れた」

 苦虫を噛み潰したような表情で、小野寺が吐き捨てる。横では恵麻が自分を見つめていた。

 二人は何も得られぬ目で、お互いを見つめていた。無言だったが、お互いの言いたいことはなんとなくわかり合っているような気がした。

 充電が切れるほど、使っていたのだろうか。そんなはずはなかった、昨晩はちゃんと充電したし、機種だってまだ比較的新しい。小野寺は怖かった。何か絶対的な力によって、電話が妨げられていると感じていたからだ。謎が謎である間はまだよかった。まだ、自分自身の記憶があった。落ち着いて考える。黒い液晶に自分の、悲壮な顔が写っていた。まだ考えられる。俺たちは、警察に電話することが許されないのだ。きっとこれは、作者の……。

 途端に記憶が補完されて行く。スマートフォンで何かを検索しようとしたが、できなかったときのあの健忘が小野寺の頭を襲っていた。とてつもない憤りを覚える。

 液晶に写った顔は、恵麻の泣き顔と心なしか似ているような気がした。

「ごめん、たぶん、俺、行きに、音楽聴いてきたから」

「電話してから四十秒が、ルールだったくせに、」

 きっと恵麻は分かっていた。でもその事実も数秒後には補完されてしまうのだと、思わざるを得なかった。恵麻はハッと驚いた顔をして、近くのクッションをとって布団に倒れこんだ。

「ばか」

 小野寺は怒りにも悲しみにも取れる感情に苛まれていた。きっとこれを本当は悔しいと言うのだろう。どうにかして、この空間を脱出したいと言う思いが、彼の中で募りに募っていた。

 ここまでくると、自身の記憶すら信用ならないことはよく分かっていた。何故自分がここに生まれたかも、この際きっと間違いだろうと自覚していた。このアパートの一室が、唯一の彼と彼女の世界のように思われた。今他の人に話したら気狂いだと思われるのだろうが、きっと自分には彼氏も、ましてや親もいないのだと確信していた。記憶の補完が彼のその説をより強固にしていく。

 小野寺はぬるくなったラムネを一気に飲み干すと、倒れこんでいる恵麻に近づいた。決意は固かった。

「なあ恵麻」

「なに」

「スマホ貸して」

 できるだけ心を悟られないように、誰かはわからない、けど記憶の補完を起こさせないように、描写されないように。恵麻に向かって彼はなるべく穏やかに声をかけた。

「やだ、絶対電源切らない?」

「切らない切らない。俺がさっき通報できなかったの、見ただろ」

「警察に電話するの」

「…しないよ。なんか、する気失せた」

 恵麻が俯きながらピンク色を差し出した。前髪に隠れている赤く腫れた目。すっぴんでよかったな、と小野寺が軽口を叩くと、少し笑ってうるさい、と答える。

 開け放たれたカーテンから窓の外を眺めた。目の前のビルが、窓に青い空模様を誂えてこちらを見ていた。そこに映る青だけが今自分たちが認識できる空のように思われてならなかった。

 恵麻のもたれているベッドを乗り越えて、窓を開ける。騒がしい蝉の声が聞こえる。振り返って見たテーブルの上では、露店で買ったラムネ瓶が外からの光を受けてギラギラと光を返していた。露店で誰から手渡されたのかも、蝉がどれほどいたのかも、彼の記憶にはなかった。逆に記憶にないと言うことが彼を安心させる。記憶の補完だけが、今の彼の1番怯えるべきものであった。

 目を閉じて、蝉の音に溺れる。それは自然物なのか、オーダーメイドの背景音楽なのか知る由はない。ただ、その声が小野寺の決意をより強固にしたことだけは確かだった。

「恵麻、ごめん」

 小野寺が肩を上げ、スマートフォンを窓の向こうに投げる。顔を上げ、返事をする前に、それは夏の陽射しとともに恵麻の目に飛び込んできた。

「待って!」

 放物線を描いて、重いようで軽いそれは遠くに飛んで行く。内と外のカメラが、交互に二人を捉えていた。小野寺はこちらを見つめたまま微動だにしない。恵麻が小野寺の体を掴んで何か言っている。高速で飛んでいる機械のマイクは、離れゆく部屋の音は拾えない。声を失った恵麻が慌てて自分の喉に手を当てる姿が、軌道上最後の画角に写っていた。空を映し、地面を映す。質量を持った物体が、落下して行く。

 そして、彼らの目の前が真っ暗に割れた。




「ちょっと!もう行くよ。」

「わ、ちょっと待って」

 夕暮れ時、待ち合わせをしていた姉が私の腕を掴んだ。蛍光灯を反射して光るシルバーの腕輪たちが目に眩しかった。

「なになに。もう電車でちゃうよ。何読んでんの?」

「新刊の短編小説。オッケー、もう読み終わったからいいよ。行こう。」

 まったくあんたは、と姉がうんざりした様子で本に目をやった。

「立ち読みばっかしてないで気に入ったら買いなさいよね。経済回せっての。」

 茶髪にけばけばしいピンクのカバン。姉の見た目に反する行動や言動は、思春期の私を反抗させないくらいの力をもっていた。

「お小遣い入ったら、買う」

「堅実に貯めてるくせに、よく言うわ。最近の高校生はなんでも無料で手に入れようとするから、よくないよくない」

 姉のキツイ色のカバンから出てくるピンク色のケースのiPhoneが、私に先ほどまで読んでいた小説を彷彿とさせた。それは、現代において脈打つ心臓と描写されていた世界だった。

 私たちの行動も、誰かに描写されている本の世界なのだろうか。

 少しドキドキして、きつめに瞬きをして見た。

 描写されているかの確認もできないくせに。

「あ、やば。電車でちゃうよ、行こ」

「うん。お姉ちゃんも、時計買いなよ」

 本棚の空いた隙間に「ストーカーズストア」を差し込んで、私たちは本屋を出た。

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