ある夜に
田川春樹
第1話
夜がこれほど長くなったのは――人の生きる夜がこれほど長くなったのはいつのことでしょうか。元来、夜は人のいるべき世界ではありませんでした。そこに住むのは夜行性の獣や盗人、不可思議な妖怪ばかりで、一般の人々は夜が来れば当然のごとくそそくさと床に就き、朝日を待ちわび夢を見ていたのです。ところが今、夜は人の世界となっています。
私は何も、あの猥雑なネオンの光を灯す、見るからにいかがわしい「夜の街」のことを言っているのではありません。いえ、確かにそういったことも含まれるのですが、私が言いたいのはもっと大きな意味での「夜の世界」です。つまり、大人は街へ繰り出し、少年は学びまた遊び、家族は団欒する――こういったことが当然である「夜の世界」です。こうした「夜の世界」は自然の摂理に反するだけでなく、人間の歴史から見ても生まれて間もない世界であり、大いに矛盾を孕んだ存在なのです。
人は電灯の光を太陽の光とほとんど同等のものであるとみなし、夜を昼に変ずることができたのだと思い込んでいますが、結局のところただ「夜」を長くすることに成功したにすぎないのです。いまだに夜は妖怪の世界であり、すなわち、人々の恐怖の根源であり続けているのです。
私がその夜の恐ろしさを実感したのはある春の日のことです。
その日は仕事が長引いてしまい、帰宅する頃にはもう日は沈んでいました。日没後の薄暗がりの中、私が住む小高い丘にある住宅地の外灯はすでに仕事を始めていました。私はアパートの自室に入るとスイッチを押し、室内に明かりを点けました。非常に疲れていたので早く眠ってしまいたかったのですが、シャワーを浴びたり服を着替えたりしているうちに、体の気怠さとは裏腹に神経が逆立ってきてしまい、ベッドに横たわってはみたものの、なかなか寝付くことができません。仕方なく、私は一旦ベッドから出て、とりあえず冷蔵庫に入っていた缶ビールを飲みながら眠くなるのを待つことにしました。缶を開ける音やビールをグラスに注ぐ音が薄コンクリート造りの部屋によく響きました。疲れていた私は一息に飲む気にもならず、小さく一口だけ飲むとグラスをテーブルに置きました。テーブルの上でグラスの泡がゆっくりとはじけていくのが見えました。時計の針が時を刻む音と連動するようにして白い小さな粒が一つ一つ壊れていく様を、私はじっと見つめていました。
不思議なことです。いつもはなんとも思われないたかだか一杯のビールが、強く私の興味を惹きつけていたのです。ほとんど音もなく消えていく泡の行方を私は想像しました。このような想像にふけることは子供じみたことに思われるかも知れませんが、私は大人ですから無邪気で無知な子供とは違い、かつてビールの泡であったものがはじけた後に科学的あるいは化学的にどうなるかくらいはちゃんと知っています。
私が考えていたのは、その泡という存在そのものははじけた後にどうなるのか、ということです。泡の構成要素は泡がはじけてしまった後も依然として残っており、それらは消えていない言うことができますが、その泡という存在自体は消えてしまったのではないでしょうか。いくら同じ構成要素をもとの泡に戻そうとしても、できるのはせいぜい同じような泡でしかありません。だから、その泡は紛れもなく唯一無二で、一度はじけてしまえば不可逆な存在であると私は考えたのです。
ふと、私もこの泡のような存在ではないのかという考えが浮かんできました。私、というより私たち人間は結局のところ、こうした泡の一つ一つのようなものなのではないでしょうか。現れては静かに消えて、二度ともとには戻らない。そういうはかない存在なのではないでしょうか。私にはゆっくりと消えていく泡が私自身の消失、つまりは死までの時を少しずつ刻んでいるように見え、恐ろしくなってグラスのビールを無理矢理飲みきってしまいました。飲み干したグラスはすぐに洗い、荒々しくソファに腰をかけました。心臓は動悸し、額からは粘質な汗がぷつぷつと噴き出し、いよいよ私の目は冴えてくるばかりです。
火照った体と頭を冷ますため、私は近所の公園まで散歩をすることにしました。夜の住宅街は案外に明るく、まだ明かりの点いている家も多く見られました。外灯は等間隔で並び、公園までの道は明瞭に浮かび上がっていました。遠くからは車の走る音や電車の通り過ぎる音が聞こえていましたが、私が歩く道には人の影すら見当たりません。こうした夜道を歩いていると私の内に優越感に近い感情が湧いてきました。まるで自分一人でこの夜を支配しているような気分です。意気揚々とした足取りで公園まで辿り着くとそこにあったベンチに座りました。涼しげな夜風が肌をなで、だんだんと私は心地よくなってきました。公園は住宅街でも比較的見晴らしの良い立地にありましたから、私は眼下に広がる大きな幹線道路や繁華街の明かりを見ながら、得意げに鼻歌などを歌っていました。明かりは夜に対して申し分のない勝利を収めているように見えました。
不意に私のうなじをかすめたものがありました。暖かい、というよりも生暖かい春の風です。それは獣の吐息のようで、私の背中はぞくぞくと粟立ちました。気味が悪くなって後ろを振り返りましたが、勿論何がいるわけでもありません。吹き抜ける風もすでにもとの涼風に戻っていました。
再び眼下の明かりを見て、私は恐ろしい事に気がつきました。住宅街の外灯も、繁華街のネオンも、幹線道路を走る車のヘッドライトも、実は夜には全く打ち勝つことができていなかったのです。どれだけ光量を増やそうとも、夜は世界を隅々まで覆い尽くし、人の心を侵してしまうのです。
明るい公園が今にも夜の重圧に押しつぶされそうな窮屈なものに感じられ、私は急いで公園を出ました。なるべくこの夜から逃れようと、足早に夜道を歩きました。どれだけ経っても夜は私の上に覆い被さってきます。早足が小走りになり、ついには全力で走り出しました。酒が回って縺れる足を引きずりながら、力の限り走りました。走っている間も夜は私の頭を侵します。先ほどのビールの泡のことやその他の様々な恐ろしい考えが頭を埋め尽くし、私は気がすっかり参ってしまいました。叫べば夜もどこかに消えてくれるような気がして、滅茶苦茶な体勢で走りながら喉がつぶれるくらい叫びました。裂けんばかりの叫び声も夜の虚空に消えてしまうだけでした。
叫びきると、体中の活力が底をついたのか、私はアスファルトの地面に汚らしく転んでしまいました。立ち上がる気力もありませんからただ地面に倒れていることしかできません。右を見ても左を見ても、上を見ても下を見ても、等しく夜があります。たった一人、この夜に囲まれていることが恐ろしく、不安でなりませんでした。何とも言い難く、どうすることもできない感情が湧いてきて、私は泣きました。声は出ません。アスファルトの地面に大粒で真っ黒な点をひたすら垂らしていくだけです。その一粒一粒がさらに夜の暗闇を深めていきました。車の音も電車の音も聞こえず、しんとした静寂がこぼれていく涙を包み込んでいました。
我に返ると辺りはほの明るくなっていました。
太陽が見えるまでにはまだ少し時間がありましたが、時折、家の戸を開ける音や車のエンジンのかかる音が聞こえてきました。地面に落ちた涙の跡はすっかり乾いて消えていました。私はしっかり休めず軋む体をゆっくりと起こして立ち上がりました。服に付いた汚れを手で軽く払い、アパートに帰るため、歩き出しました。
いろいろな音が聞こえてきます。どこからかおいしそうな朝食の匂いもします。朝露に濡れた道草が綺麗に輝き、ふわりと暖かい風が吹いて優しく私をなでました。
自室に戻り、窓を開けて換気をし、顔を洗いに洗面台に向かいました。そこで私は自分がまた涙を流していることに気がつきました。涙は暖かく頬を伝い、はらはらと床に落ちていました。洗面台横の窓から、今ちょうど昇ってきた朝日の光が差し込みました。鏡に映った涙が朝日に照らされてとても美しく輝いていました。
ある夜に 田川春樹 @haninoakaki
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