失母症は言葉を見るか
鈴川
第1話 なくしたモノ
麦秋の候。二年生の教室を出た深山春人(みやま はると)は保健室の戸を叩いた。
「失礼します」
「お、深山くん。来たか」
応対したのは根太(ねぶと)先生である。保健室の先生界隈の中でも比較的若いと自称している女性である。
春人はベッドを囲む白いカーテンを静かに開けた。そこには女子生徒が上半身を起こして座っていた。腰にまで届きそうな黒髪は絹のようにきらめき、頭頂部には光の輪を作っていた。
春人はまるで天使のような風貌の彼女の名を呼んだ。
「志織、帰るぞ」
赤葦志織(あかあし しおり)は虚空を見つめていたが、ゆっくり春人に視線を移した。しかしその目からは感情が伴っていない印象を受けた。
春人は黙って彼女がかけている白いシーツを丁寧に下げた。
足首に到達した時、思わず息を飲んだ。やはり今でも慣れない。
「深山くん、大丈夫?」
「お気遣いなく。いつものことですから」
様子を見にきた根太先生に笑って返した。
「しかしこれは本当に不思議だよ」
根太先生はシーツが剥がされて露わになった爪先を見て唸った。
丸いのである。
正確に言えば爪先が丁度じゃんけんのグーの形のように丸まっているのである。
「君はもう一年近く介助してるが、なんだかあっという間だ」
応対しながら春人は志織に肩を貸して車椅子に座らせた。
「では失礼します。また明日もよろしくお願いします」
頭を下げると志織を押して保健室を後にした。
帰り道は特に会話もなく、車輪がからから回る音が隙間を埋めるように鳴り続けていた。
「ずいぶんと日が伸びたな。おかげで暑い日が続いてるが、保健室は暑くないか?」
わずかに志織の首が縦に動いた。
「いい加減教室にクーラーを取り付けてほしいもんだ。扇風機だけじゃ耐えられん」
今度は動かなかった。
帰り道は春人が何か話しかけ、志織がそれに応じたり応じなかったりするのが彼らの日常であった。
「ほら、家が見えてきたぞ」
髪に反射した光がほんの少し動いて見える程度に頷いた。
志織のバッグから家の鍵を取り出し、彼女に開けさせる。
「……ただいま」
「おかえり」
やっと志織が口を開いた。か細い声だったが、春人は聞き逃さずに返事をした。
「じゃあ俺も帰るから。また明日」
志織は小さく頷くと車椅子から自分で降りて靴を脱いだ。
「……ありがとう」
家の中へ入っていく彼女を見送ると、春人は片眉を上げ、隣の自宅へと帰った。
赤葦志織には二つのハンディキャップがある。
一つは爪先が丸まっていることである。
これが起こったのは一年前、高校一年生の五月に彼女の母親が病気で亡くなったのである。まさに五月雨のような訃報だった。
葬儀を終え、新盆を迎えると異変は起きた。
いつものように家を出た志織は、近所へ買い物に行く途中で転んでしまった。
見れば爪先が不自然に丸まり、歩くことはおろか、立つことすら困難になってしまった。
だから外出する際は車椅子の使用を余儀なくされている。
しかし自宅に帰れば異変は元に戻るのである。医者に話しても原因不明だとお手上げだった。
だから今はこうして車椅子を乗り降りする奇妙な生活を送っている。無論、学校内の人間は彼女がこのような生活を送っていることは知らない。
もう一つは言葉がうまく話せないことである。
母親を亡くした直後から言葉数が減り、一年経った今ではクラス内で彼女の声を聞いた者はいないまである。
しかし彼女はそれを気にすることなく保健室登校を続けている。
「昨日の夜ね、久しぶりにハンバーグを作ったの。そしたらお父さんがすごく喜んでくれてね、私も嬉しくなっちゃった」
今朝、春人をメールで呼び出した志織は彼が着くやいなや、昨夜のことを披露し始めた。それはまるで普通の、どこにでもいる高校二年生の女の子のように。
「でも頑張ったら大きくなっちゃって、お父さん困ってたの」
今度はしゅんとした。ころころと表情が変わる姿は春人にとって慣れた奇妙だった。
「どうしたの?」
奇妙な彼女は春人の額に手を当てた。学校では深窓の令嬢とまことしやかにささやかれているアカアシさんではなく、春人のよく知る赤葦志織として。
「どうしてこんなに元気なのかと思ってな」
「私はもともとこうだよ?」
変なの。と志織は口を尖らせた。無論、春人はこれが本来の彼女だと知っている。小学生の時からの付き合いで、家も隣同士だ。むしろこれが自然といえる。
一度志織に、クラスメイトがとてもおとなしくて話しかけにくいと言っている。と伝えたのだが、そんなことは身に覚えがないと断言していた。
つまり、志織には高校に通っている記憶がないのである。だが定期試験では点数を取るし、授業の内容はあやふやな場合もあるが覚えている。
ただ感情と言葉が抜け落ちてしまっているのだ。実に不可思議である。
「あ、忘れてた」
やおら志織は立ち上がると軽やかな足取りで仏壇の前に行き、静かに手を合わせた。
「何を言ったんだ?」
顔を上げた志織の背中に問いかけた。
「今日は春人が来てくれたよって伝えたの」
いとけない声色に春人はいっそう疑念が増した。
「そうだ。さっき話してたハンバーグ、少し余ってるんだけど食べる?」
「もらおうかな」
台所へ向かいながら尋ねてきた彼女の気遣いを無下にはできず、頷くのであった。
それから数週間が経ち、夏休みを間近に控えたある日のことだった。
「みなさん『言霊』って知ってますか?」
国語科の大桑(おおくわ)先生が突如として問いを放った。
クラス内は、どこかで耳にしたことがある、という空気が漂った。春人もそれに漏れない。
「みなさんの母国語である日本の言葉には、古くから魂が込もると考えられています」
大桑先生は雑談を始めた。夏休みが近づく教室内の空気は弛緩し、真剣に聞こうとする者はほぼいなかった。先生自体もそれを察しているが話を続ける。
「つまり言葉を発すればそれだけ力が大きくなり、逆に発さなければどんどん小さくなっていくんです」
「言葉を発する、か。つまりそれは周囲に影響を与えることになるわけだな?」
春人の頭に言葉を発さない少女の姿が浮かんだ。
彼女も足が動く、歩くことができると言えれば少しは改善されるのではないかと思った。
変わらず語り続ける大桑先生の話を聞き流していたが、ふと耳に留まった箇所があった。
「言葉を失う。なんて表現がありますが、この論でいけば文字通り失った言葉が実生活に影響を与えることもあると思うんです。これはつまり、言葉と人間の縁ともいえますね」
「失った言葉が実生活に影響……」
瞬間、春人の中の思考と想像が繋がった。
「まさか……!」
つい席を立った。クラス中の視線を一斉に浴びる。大桑先生は春人を見ておそるおそる尋ねた。
「み、深山くん。ど、どうしました?」
「すみません、夢を見ていて……」
「まあこんな話をしても退屈ですよね、そろそろ授業が終わるかと思うんですが」
直後、終了を告げるチャイムが鳴った。日直の号令で大桑先生は退室した。入れ替わりで担任が入ってきて、そのまま帰りのホームルームが始まった。
春人は今しがた結びついた因果を早く証明したくてやきもきしていた。
ホームルームが終わり、春人はいつものように保健室に行った。
「お、やっと来たね」
根太先生は珍しく保健室の外の壁に寄りかかって立っていた。
「どうかしたんですか?」
「君の待たせ人が寝ているからね」
声をひそめ、唇に人差し指を近づけて静かにのジェスチャーした。
「あの、質問があるんですけど」
「何かな?」
「人が立つのに必要なものって母指球ですよね?」
「よく知ってるな。確かにヒトは親指の付け根にある母指球筋を中心に直立し、歩行する。それがどうした?」
春人の仮定した因果関係が確実なものへ進んだ。
「志織が立てない原因はそこなのかなと思いまして」
「なるほど。以前彼女の爪先を見せてもらったことがあるが、特に親指の付け根に力が入っていた。母指球がまるで球のよう丸くなっていたよ」
その言葉で春人の推測は真実にたどり着いた。だがそれは、あまりにも非現実的であり、超常現象めいていた。春人は心内で一笑した。
しかし行動はすべきだろうと春人は不信ながらも決意した。
八月上旬、とうとう実行に移す日となった。
日中をかけて念入りに準備をし、夕方になってから赤葦家のインターホンを押した。数秒すると志織が迎えに出てくれた。
「春人から来るなんて珍しいね」
相変わらず明るく、足に異常があるとは思えなかった。
「お父さん、日曜日なのにお仕事行っちゃってね。寂しかったから来てくれてよかったよ」
リビングのソファに座ると志織は麦茶を出してくれた。一旦心を落ち着かせるために一口飲んだが、潤った気はしなかった。
意を決して、台所に立つ幼馴染の名を呼んだ。
「これから花火を見に行かないか?」
返事はすぐになかった。ほんの数秒の静寂のあと絞り出すような声で志織が答えた。
「それは無理だよ。だって私の足、外に出たら動かないもん……」
春人は耳を疑った。よもや彼女がそれを理解しているとは思わなかった。
衝撃に固まっていると、志織はゆっくりと近づいてきた。
「外に出るとね、頭がぼーっとして何も考えられなくなるの。言いたいことはあるのに言えない。魂が抜けるってこういうことかなって思うの」
座り込む春人の前に志織は立ちふさがる。麦茶の容器が強く握られた。
「いつも春人が帰る時に話しかけてくれることだって知ってるよ? すごく嬉しい。私も返事がしたい。だけどできない……できないの!」
志織の目から一粒、また一粒と涙が落ちていく。
「自分のクラスにいたい、いろんな人と話したい……春人にありがとうって言いたい!」
「志織!」
春人は立ち上がって泣きじゃくる幼馴染を抱きしめた。
「ちゃんとわかっていたんだな、そんなに考えていたんだな……気づいてやれなくてごめん……」
「うう……春人ぉ……」
堰を切ったように、とうとう志織の目から大粒の涙が落ちていく。春人はその背中を優しくさすってやった。
「もう大丈夫か?」
「うん、平気……」
ひとしきり泣くと、志織は落ち着きを取り戻した。容器を代わりに戻し、ポケットからハンカチを取り出す。
「ほら、これで拭け」
手渡された桃色のハンカチで志織は目元を拭うとあることに気がついた。
「これ、お母さんのだ。どうして……」
「お前のお父さんに頼んで貸してもらったんだ。志織の縁のためにって言ってな」
「私の縁?」
「そうだ。さあ、涙を拭いたら花火を見に行くぞ。このままじゃ終わっちまう」
春人は志織の腕を掴んで引いた。
「待ってよ! 車椅子に乗らないと!」
玄関のあたりで志織は踏ん張った。
「んなもん関係ねぇ! 行くぞ!」
扉を開け、二人は裸足のまま勢いよく飛び出した。
「春人! 私たち裸足のままだよ!」
玄関を出て数メートル進んだところで志織が手を振り払った。そのまま春人を見据える。
「どうしてこんなことするの!」
春人は憤る彼女の名を不敵に呼んだ。
「……立ててるじゃねぇか」
「え?」
志織は自らの状況を見て驚愕した。手にハンカチを握りしめ、両足で地面を踏みしめていた。
「どうして……」
「言っただろ、そのハンカチが縁なんだよ」
春人はハンカチを指した。
「志織のお母さんが亡くなった時、お前は同時に『母』という言葉を失った。だから家の外に出ると母との縁が切れて『母』国語が話せなくなり『母』指球が機能しなくなった」
多感な時期だからこそ言霊という不可視の存在でさえ、その身に影響を与えてしまう。春人はそう推理していた。
「そんなこと……」
「信じられないか。だが現にこうして志織が立って言葉を話す以上信じるしかない」
志織は一歩進んだ。
「……また一緒に並んで帰れる?」
「帰れるさ」
「クラスにいられる?」
「もちろん、志織ならすぐに馴染める」
「春人に、ありがとうって言える?」
「……いつでも言ってくれ」
今度は志織の方から抱きついてきた。春人はそれを静かに受け止め、何度も何度も彼女のありがとうを聞いた。
失母症は言葉を見るか 鈴川 @lin210am
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