幸せを、あなたに

 ディナーを終えて、聡さんは私の前で左手の薬指から銀色の指輪をはずして、新たな指輪をはめて、その指輪と同じ指輪を私に差し出した。

「──さつきさん。僕と結婚してくれませんか」


 夢を見ているんだろうか、と思った。

 聡さんが、亡き奥さんとの愛の証である指輪を外すなんて思わなかったし、私にプロポーズするとも思わなかった。

 試しに頬をつねってみたが、確かに痛みを感じて、これは夢ではなく現実なのだと分かったけれど、それでも目の前の光景が信じられなかった。

「あ……ええと、考えさせてください」

 思わずそんな返事になってしまう。

 聡さんと結婚したい気持ちはあるけれど、やっぱり不安があったし、亡き奥さんへの後ろめたさのようなものがあったからだ。

 プロポーズを保留にされた聡さんは、少し眉を上げた。しかしそれは一瞬で、彼は眉を下げて微笑んだ。

「返事は、すぐにじゃなくていいですから」

 私は頷いて、聡さんの左手を見た。彼の左手の薬指には銀ではない指輪がはめられていたけれど、私は手放しで喜ぶことが出来なかった。


 聡さんは心から亡き奥さんのことを愛していて、その想いは、彼の大切な一部なのだ。

 聡さんが奥さんとの愛の証である指輪を外すというのは、その想いを捨てるということだ。

 私は、聡さんに大切な想いを捨ててほしくなかった。聡さんがその想いを捨てるくらいなら、永遠に二番目でも良いとすら思っていた。だって、私は奥さんのことを想う聡さんを含めて彼を好きになったのだから。

 プロポーズは断ろう、と思った。断ることで聡さんを不快にさせるかもしれない、と危惧したが、複雑な気持ちを抱えたまま前に進むのは嫌だった。


「聡さん。プロポーズの件ですけれど、お断りさせていただきます」

 聡さんの家に訪れてそう言うと、聡さんの眉が上がった。

「……何故ですか。僕の妻に遠慮しているのなら、その必要はないですよ」

 確かに、聡さんの奥さんには遠慮していた。しかし、それ以上に。

「私は、聡さんに奥さんへの想いを捨ててほしくないんです」

 聡さんが目を見開いた。

「聡さんの奥さんへの想いはとても大切なものだし、聡さんの一部だから」

 聡さんは私を見つめて、困ったような顔をして、自分の左手を見た。

「…………妻と決別することが、君のためになると思っていました」

 聡さんの左手の薬指には何もはまっていない。それが何だか寂しかった。

「しかし、逆効果だったようですね……ごめんなさい」

 頭を下げる聡さんに、ううん、と首を横に振って、彼に手を伸ばして包み込むように彼の左手に触れた。

 聡さんは私の両手に包まれる左手を見て目を細めて、空いた手で私の肩を抱いた。

「……妻とは、決別しません……しかしやはり僕は君と結婚したい」

「…………」

「君との結婚指輪をつけたいし、君にもそれをつけてほしい」

 聡さんの真っ直ぐな言葉に、心が揺れた。

 聡さんは私に顔を近付けて、唇にキスをした。未だにキスには慣れないなと思っていると、聡さんは私の肩を抱きながら微かに震える声で告げた。

「君を、愛している。だから、応えてほしい」

 ……そんな風に言われたら、断ることなんて出来ない。

 聡さんの左手をぎゅっと握りしめて、左手から手を離して、彼の体を抱きしめた。

「……後悔、しませんか」

「しないよ」

 聡さんは、はっきり答えた。

「君を、必ず幸せにすると約束するよ」

 私を抱きしめ返しながら、聡さんは告げた。敬語じゃない。そんなことを思って、そのことが嬉しかった。

「……さつきさん」

 名前を呼ばれて、遂に根負けした私は、頷いた。

「…………はい。私を、あなたのお嫁さんにしてください」




 聡さんと結婚した私は、彼の妻になった。今住んでいる家を売って新居に変わろうと言い出した聡さんを止めて、私は彼と二人で大きな家に住んでいる。

 聡さんを止めたのは、勿論亡き奥さんとの思い出が詰まったこの家を捨ててほしくなかったからというのもあるけれど、私との思い出も捨ててほしくなかったからだ。

 奥さんに比べたら小さなものだけれど、聡さんにはこの家で私と談笑していた日々を忘れてほしくなかった。


「二人で住んでいると、無駄に広くは感じなくなりますね」

 聡さんはそう言って、隣に座る私を抱き寄せた。

 私と恋人になって、私と結婚してから、聡さんはよく笑うようになったし、寂しげな表情をすることが減った。最愛の奥さんを亡くした心の傷はずっと消えないんだろうけれど、聡さんはそれを抱えながら前に進んでいくんだろう。

「三人いたら、もっと広く感じなくなるかも」

 私の言葉に聡さんはくすりと笑って、左手で私の頬に触れた。聡さんの左手の薬指には、私とお揃いの指輪がはまっている。それが擽ったくて笑うと、唇にキスが落とされた。彼のキスに応えながら、幸せを感じて、私はまた笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨の日は、あなたに 如月 @kisaragi97

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ