雨の日は、あなたに

如月

雨の日は、あなたに

 私の家の隣に住む篠原さんは、私を見ると決まって気さくに挨拶をしてくれたけれど、いつも寂しそうな顔をしていた。

 あの人は最愛のお嫁さんを亡くしたのよ、と近所に住む田中さんは言っていた。

 田中さんの話によると、篠原さんは不幸な事故で奥さんを失くして、それ以来ずっと大きな家で一人で暮らしているらしい。田中さんは篠原さんに新しい恋人を作って再婚することもすすめたけれど、篠原さんは首を横に振ったそうだ。

「あいつのことが、忘れられませんから、とね。今時悲しいくらいに一途なのね」

 田中さんは気の毒そうな顔をしてそう言った。田中さんの話を聞いた私は、篠原さんに興味を抱いて、彼の家を訪れた。突然訪れた私に篠原さんは不思議そうな顔をしたけれど、快く私を家に招いてくれた。

「大きなお家ですね」

 篠原さんの家の広さに感嘆していると、篠原さんは目を伏せた。

「妻が、大きな家に住みたいと言っていたので。あいつがいないと、無駄に広く感じてしまいますよ」

 篠原さんの声は悲しみを帯びていて、私が押し黙ると、篠原さんは柔らかく笑った。

「だから、竹内さんが遊びに来てくれて嬉しいですよ」

 篠原さんの笑顔を見た私は、彼をじっと見つめた。篠原さんはおじさんと言える年齢だけれど、笑うと若々しく見えて、お兄さんって感じがする。

「田中さんから聞きました、篠原さんは再婚する気はないんですね」

 触れるか迷いながらもそう言うと、篠原さんは「はい」と頷いて、左手を見た。篠原さんの左手の薬指には、指輪がはめられている。銀のシンプルなそれは、彼が奥さんを忘れられない証に見えた。

「奥さんのことを、愛しているんですね」

「……はい」

 篠原さんは頷いて、左手の薬指にはまっている指輪に触れた。奥さんとの愛の証であるそれに触れる川崎さんの顔は、切なげで、寂しげだった。

 ドクン、と胸が疼いた。篠原さんを抱きしめたい衝動に駆られて、そんな自分に驚いた。

 篠原さんから視線を逸らすと、ある写真が視界に映った。その写真には篠原さんと思われる男性と、篠原さんの奥さんと思われる女性が写っていて、篠原さんは奥さんの肩を抱いていた。篠原さんも奥さんも柔らかく笑っていて、幸せそうだった。私は先程抱いた自分の欲求を恥じた。

 チラリと篠原さんを見ると、彼はまだ指輪に触れていた。篠原さんからまた視線を外して、部屋内を見回す。ここの部屋だけでもかなり広くて、一人で住んでいたら確かに無駄に広く感じそうだなと思って、篠原さんのことを考えた。

 篠原さんはきっと、こんな大きな家に一人で住んでいて、寂しい思いをしているのだろう。

「あの、また遊びに来てもいいですか?」

 篠原さんは指輪から手を離して私を見た。

「構いませんよ。いつでも歓迎します」

 拒否されなかったことが嬉しくて、口元を緩めた。

「あ、敬語じゃなくて良いですよ」

 私がそう言うと、篠原さんは苦笑した。

「すみません、敬語は癖みたいなものなんです。妻には……あいつには不思議と敬語じゃなかったんですが」

 その言葉に、篠原さんにとって奥さんがどれだけ特別だったのか伝わってきて、胸がまた疼いた。


 その日から、私は篠原さんの家に遊びに行くようになった。回数を重ねるうちに篠原さんの下の名前が聡だと分かって、心の中で彼を聡さんと呼ぶようになった。

 聡さんと、他愛のない話をするのは楽しかった。聡さんに会う度に、私は彼のことを知っていった。

 甘いものは苦手で、辛いものが好きなこと。猫よりも犬が好きなこと。雨の日は好きじゃないこと。仕事は塾の講師をしていること。弟と妹がいること──

 聡さんのことを知る度に、彼に抱く気持ちが大きくなっていることに、気が付いていた。気が付いていて、気が付いていないふりをしていた。


 その日は、雨が降っていた。雨の日は好きじゃないんです、と言っていた聡さんを思い出して、聡さんの家に遊びに行くか迷ったけれど、浮かれていた私は彼の家を訪れた。

 チャイムを鳴らすが、聡さんは出てこなかった。何度か鳴らしても反応がなかったから、都合が悪いのかなと思って背を向けようとした時、ガチャリと扉が開いた。

 聡さんの姿を見た私は目を見開いた。聡さんの髪も服も乱れていて、普段の彼とは違っていたから。

「すみません。今日は帰──」

 私が言い終わる前に、聡さんが私の腕を掴んで、私を家の中に入れた。聡さんにされるがままにソファーに座らされて、戸惑いながら篠原さん、と呼ぶと、彼は我に返ったような顔をして、……すみません。と私の腕から手を離した。

「…………」

 沈黙が、私達の間に流れた。少し離れた場所にいる聡さんの背中が何だか小さく見えて、何かを言おうとして口を開いた時、聡さんが話し始めた。

「妻が亡くなった日も、こんな雨の日だったんです」

 私ははっとする。聡さんは続けた。

「忘れもしません。あの日……仕事場に電話がかかってきて、妻が事故に遭ったと知って雨の中走って病院に向かったら、そこには変わり果てた姿の妻がいました」

 聡さんの声は静かだったけれど、深い悲しみに満ちていた。

「あんなに温かかった妻の体はとても冷たくて……僕は死を突き付けられました」

 ……あれから、雨の日はどうも駄目ですね。

 聡さんの声は弱々しくて、彼の肩は震えていた。

 初めて聡さんの家を訪れた日に生まれた欲求が再び生まれて、私はソファーから立ち上がって聡さんに手を伸ばした。

 後ろから聡さんを抱きしめると、彼が息を呑む音がした。

「……私を、奥さんだと思ってくれていいですから」

 聡さんは何か言いたげだったけれど、何も言わなかった。


 その日、私は聡さんに抱かれた。

 聡さんは無言で私を大きなベッドに連れて行って、後ろから私を抱きしめて、私の体に触れた。

 聡さんに胸や腰を愛撫されながら、私は喜びを感じていた。たとえ奥さんの代わりであっても、聡さんに触れられていることが嬉しかった。

 聡さんは、甘えるように後ろから私を抱きしめていた。やっぱりこの人は寂しかったんだな、と思って、彼の孤独に胸が潰れた。

 

 その日から、雨の日は聡さんは私を抱くようになった。聡さんは決まって私を後ろから抱きしめて、後ろから私の体に触れた。

 行為中は終始無言だった。彼は私の名前も、奥さんの名前も呼ぶことはしなかった。

 ザーザーザーザー、雨の音だけが耳に響いた。

「……あっ……聡さん……!」

 聡さんに後ろから突き上げられて、気持ちが昂ぶって、思わず彼の名前を呼んでしまった。まずい、と思っていると、聡さんは私の中を責める動きを止めた。

「……竹内さん」

 聡さんは、私の名前を呼んだ。奥さんではなく、私の名前を。涙が溢れそうになって耐えていると、聡さんは私の中から自身を引き抜いた。

「竹内さん……ごめんなさい」

 振り返って聡さんを見ると、彼は苦しそうな顔をしていた。ふと、彼の左手が目に入った。その手には銀色の指輪がはめられていて、昂ぶっていた気持ちが冷えるのを感じた。

 もう一度、名前を呼ぼうとしてやめて、私は聡さんの腕の中から体を出して、聡さんから離れた。

「…………さようなら」

 それだけ告げて、服を身に着けて、聡さんの家を後にした。



 雨の中自宅に戻って、私は玄関で座り込んだ。

 聡さんは、やっぱり奥さんのことを愛しているのだ。彼は私を奥さんだと思って、私を抱いていたのだ。

 自分から言い出したことなのに、虚しさと悲しさから、涙が溢れ出した。

 ぽつぽつ落ちる雫を見ながら、実感する。

 私は──あの人が、聡さんが好きだったんだ。甘いものは苦手で、辛いものが好きな、猫よりも犬が好きな、雨の日は好きじゃない、仕事は塾の講師をしてて、弟と妹がいるあの人のことが────

「……さとる、さん」

 彼の名前を呼びながら泣いていると、突然扉が開かれる音がした。

「……っ、竹内さん!」

 名前を呼ばれて、抱きしめられる。後ろからじゃなくて、前から。聡さんに。聡さんの、シャンプーの匂いがする。混乱して目を白黒させていると、聡さんは振り絞るように告げた。

「……あいつの、代わりなんかじゃない。僕は……君が、好きだ」

 突然の告白に、頭が真っ白になる。

「始めは、代わりだったのかもしれない。でも……君に関わっていくうちに、僕は、君が……」

「…………さ、さとる、さ」

 上手く名前を呼ぶことが出来なくて焦っていると、聡さんが笑う気配がした。

「僕は……僕と違って雨の日が好きな君が好きだ」

 聡さんの言葉に、目を見開く。

 雨の日は、好きだった。雨の音を聞くと落ち着くから。聡さんと関わるようになってからは、もっと好きになった。不謹慎だけれど、雨の日は聡さんが私に触れてくれたから。

「君のお陰で、雨の日も寂しくなかった」

 聡さんはそう言って、私の頬にキスをした。

 胸がドキドキして、これは夢なんじゃないかと思った。

「さとるさん」

 伝えなきゃ。私も、自分の想いを。この人に、伝えなきゃ。

「私も……あなたが好きです」

 聡さんは黙って、また私にキスをしてきた。

 恥ずかしくて目を閉じると、……良かった。と安堵の息の音が聞こえた。


 聡さんと想いが通じた私は、後ろからじゃなくて、前から彼に抱かれた。前から彼に触れられることが、この上なく嬉しくて幸せで、私はまた涙を流した。



「さつきさん」

 あれから一ヶ月。聡さんは私をそう呼ぶ。彼の左手の薬指には変わらず銀の指輪がはめられていて、彼は変わらず敬語で話すけれど、構わなかった。

「さつきさん。好きですよ」

 聡さんが私を抱きしめる。勿論、前から。彼のシャンプーの清潔な匂いがして、彼を抱きしめ返しながら、目を閉じた。

 きっと、この人は奥さんのことを想い続けるのだろう。それでも、構わなかった。彼は、私を見てくれるから。

「私も、あなたが好きです」

 想いを返して、私は顔を綻ばせた。



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