五 大事なもの
「久しぶり」という彼女の声。見た目は成長しているが、変わらぬ透き通ったこの声。思い出した、幼馴染だったこの人は、
「あいちゃん」
「やっと思い出したか。や、お久しぶり。大きくなったね、たっちゃん」
「?!」
そうだ、俺をたっちゃんと呼ぶのはあいちゃんだけじゃないか。でも――
「……あいちゃん、なんでこんなとこにいるんだよ。もう何年も前に死んだだろ」
彼女が亡くなったのはちょうど俺が引っ越した直後だったか。大雨の日によく遊んでいたこの川の方に行って、引っ越した筈の俺を探してそのまま川に流されて亡くなった。あれから12年。あいちゃんとは四歳差だったから、生きていれば21歳だろう。だから、制服を着ているのはおかしい。何より、こうして俺の目の前に立っているのがおかしいんだ。
「私もね、『言攫の雨』に打たれたんだよ。あの時死んだのは、私がたっちゃんを忘れたせい。雨でたっちゃんが流された。だから、私を流したたっちゃんをこっち側に来させない為に、無理矢理目の前に現れようと頑張ったの。もう少しでたっちゃん死んで戻れなくなってたんだよ」
え、どういうことだ? あいちゃんも雨に打たれていて、俺も打たれた。そしてあいちゃんは雨のせいで死んだ……何故?
「あのね、名前を忘れると、取り戻す為に探しに行こうとするんだ。決まってそれを霧が食べる。記憶を吸って大きくなった霧が、言攫の雨を降らす雲となる。私ももう霧なんだ。でもたっちゃんは吸いたくない。たっちゃんには生きて欲しい。だからこうして雨のスクリーンに私の気持ちを映しているんだよ」
よく分からないけれど、とにかくあいちゃんが俺を生かそうと止めてくれたということは分かった。
「せっかく会えて嬉しいけど、そろそろ帰らなきゃだよ。君はもう帰らなきゃいけない」
「なんで、もっと話したいことたくさんあるんだけど!」
「死ぬぞ!」
雨の勢いが彼女の声で増した。ポツポツと降っていた雨が一気にザァーッと俺に降りかかる。
「ここに長居しちゃダメなんだ。君のおじいさんは長居したが故に霧となった。君はまだ帰れる。ほら、大事なものは何?」
――だいじなもの――
「あいちゃん……
「うん。そしたらもう、名前も言えるでしょう?」
彼女は涙ぐんでいる。嗚呼、もうお別れなのか。
「俺は、
その瞬間、雨が止んで大きな虹がかかる。陽の光が俺たちを照らしている。
「たっちゃん、自分を愛することを忘れたからこうなったんだよ。自己犠牲もほどほどにしなさいな。これはあいちゃんとの約束」
「おう」
彼女の身体が透けていく。どんどん景色に同化していってしまう。待って、まだ……
「たっちゃん、その先は、死んでからこっちで聞いてあげるから、まだダメ。ほら、さっさと帰りなさいよ」
「いや、待って……」
彼女の目から一筋の光がこぼれる。美しい涙だ。
「私のこと、思い出してくれてありがとう。じゃあね――」
そして彼女は背景に溶けた。川沿いで一人立ち尽くす俺の目は、雨が止んでも尚大洪水を起こしていた。
「なんでだよ、雨は止んだだろ? おかしいな。ほら、前見て歩け!」
俺は生きなきゃいけないんだ。約束。そしてもう忘れない。忘れるものか。大きな虹の下で誓った。
愛を忘れずに生きていく。俺は、あいちゃんの分も生きなきゃいけないんだ。そして死んで貴女の隣に行けたら言おう、『好きだった』と。あいちゃんは俺の初恋相手だったんだ。だからまた会えるその時まで、幸せに生きていかなきゃいけない。だから、ちょっと待ってろよ。じゃあな、また会える日まで。
そして俺は思い出した。あの日山でした約束を。『おじいちゃんおばあちゃんになっても仲良くしてようね』という約束。来世で叶えようじゃないか。だから今はその予行練習。強く生きねば。
「ありがとうな、あいちゃん」
言攫ノ雨が俺から奪ったのは俺の名前で、与えてくれたのは愛だった。
完
言攫ノ雨 東雲 彼方 @Kanata-S317
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