第28話
引っ越し屋のトラックが、エンジンをかけて走り出した。
俺はその後姿を見送り、歩いて駅まで行く。
桜がすっかり散って、世間がゴールデンウィークに浮かれ始めるころ、俺は再び国分寺のシェアハウスに向かう電車へ乗り込んだ。
『ともさん、歓迎会ピザでいい?』
『いいんじゃない?』
『五十嵐さんに聞いてないよーー』
『いいっす、大賛成です』
『味なにがいいかなあ☆ ともさん嫌いなものとかないですか?』
『ピザなら大体なんでもいけるよ』
『おっけー!』
スマートフォンのアプリのトークルームで、シェアハウスの面々が昨日から断続的に盛り上がっている。主砲はざくろちゃんと五十嵐さんだ。
『プルコギ』
『だから五十嵐さんじゃなくてともさん主役だってば』
『照り焼きチキンマヨネーズ』
『るーちゃんまで(怒)』
『ピザの味はどれでもいいから、サイドメニューのポテト頼んで』
『りょーかい』
『おぬしナギちゃんには甘いんかい』
電車の窓から、晴れた空が見える。少し空いている休日昼間の車内に、うららかな陽の光が差し込んでいる。
スマートフォンの画面と窓の外をぼんやり交互に眺めていると、柳さんからの新着メッセージが届いた。あれ?と思い液晶画面をタップすると、ピザに沸いている五人のトークルームとは別に、個別のメッセージの画面が立ち上がる。
『駅から来る途中の児童公園の桜に毛虫が大発生してます。道路の反対側の歩道を通ることをお勧めします』
思わずくすりと笑い、俺は返信を打った。
『有益な情報ありがとうございます』
既読通知はついたが、柳さんからその後のメッセージはなかった。それでも構わない、と思った。
途中下車して、シェアハウスの管理会社のオフィスに寄る。
こざっぱりとしたモダンなデザインの受付で、用件を伝えると、事務服を着た若い女性が流れ作業的に書類と鍵を出してくれた。三月末から四月初旬の新生活スタートの時期を避けた甲斐あって、引っ越し代金はずいぶん安く抑えられたし、鍵の受け取り手続きはあっという間に終わる。
書類にハンコをつき終えると、不動産屋の女性は『メゾン・デュースリ』という名札がぶら下がった鍵を渡してくれた。
俺は、使い慣れたキーリングに、新しい二本の鍵を繋いだ。
新しい鍵だけど、見覚えがあった。
俺はスマートフォンをポケットから取り出し、トークルームの画面でメッセージを打ち込んだ。
『鍵受け取りました。これから向かいます』
すぐに既読の印が付き、返答が続々と届いた。
『おっけー』
『それにしてもどうしてこんな名前なんですかね、あの家』
『メゾンでデュースリ?』
『元々この家建てた地主さんが、甘利さんっていうらしいから、そこからだね』
『???』
『フランス語で、メゾンが家、デュースが甘い、最後のリは甘利のリ』
『まじですかーーーーーー笑笑笑』
電車の中で、俺は危うく噴き出すところだった。
『シャレオツ笑』
『スイートホームって言葉にも引っかけてあるとか何とか』
正直、スイートなホームとは言いにくい。あのシェアハウスは、ほろ苦いビターチョコレートのような味がする。
『いがらしさんフランス語分かるんだ!すっごい』
『拓海の入れ知恵』
『出た』
『舌噛みそうな名前ですよね』
『そういえばピザやさん前に頼んだ時、伝票にメゾン臼井って書かれてました』
『臼井(笑)』
『臼井笑笑』
電車を降りて、柳さんの忠告通り、公園の脇の歩道を避けて、俺はシェアハウスに向かった。桜の花はとうに散り、ほんのり桜餅の匂いがした。そうか、あれは餅の匂いじゃなくて桜の葉っぱの匂いなのか、と今更ながらに気付く。
シェアハウスが遠くに見えた。家の前の道は人も車も影一つない。不動産屋に寄り道した俺が、トラックより先に着いたのだ。都内の狭い道を走る車より、電車のほうが早い。
《メゾン・デュースリ》
何度も見たはずの看板の文字が、今日はやけにくっきり目に飛び込んできた。頭の中でスイートホーム、と読み替えると、心の中に意味不明の気恥ずかしさが広がる。意識するな意識するな俺。
先程受け取ったばかりの鍵で、俺はドアを開けた。
「こんちわー」
玄関を開けると、正面の壁に、厚紙でできた《WELCOME!》という文字が並んで糸にぶら下がっていた。初夏らしいパステルカラーである。頬が緩んだ。きっと、ざくろちゃんだ。
と、柱の陰からひょっこり顔を出したのは、柳さんである。
「――っ、ナギさん?」
「お疲れ様です」
相変わらず眉一つ動かさず、ぺこりと会釈する。久し振りに見た柳さんの姿だが、体形の変化はよく分からなかった。俺が鈍い男子だからだろうか。
「五十嵐さん達は」
「買い出しに出てます。昴君だけ、上に」
五十嵐さんもざくろちゃんも留守ということだ。だから柳さんが出迎えてくれたのだろう。これが仮に半年前ならこたつから出てきてくれなかったのでは。とすれば格段の進歩ではあるまいか。
無駄な考察で顔をニヤけさせないよう注意しつつ、俺は壁の《WELCOME!》飾りを指さして、訊いた。
「これ、ざくろちゃんですか?」
「そうです。百均で買ってきたのは黙っててって言われました」
「喋ってるじゃないですか」
「駅前の百均なので、どうせばれると思いまして」
仏頂面の柳さんに、いつの間にか俺は慣れている。思わずくすりと笑う。
「……ようこそ、友幸さん」
「……ようやっと、覚えてもらえましたか、名前」
「五十嵐さん達が連呼してたから」
添えられた言い訳は、無視すべし。
俺に春は来なかったけれど、去年より、少しばかり賢くなった。
網戸で開けっ放しになっている窓から、爽やかな風が入ってくる。パステルカラーの文字が、微かに揺れる。
遠くから、トラックが近付く音が聞こえたような気がした。
さよならようこそビタースイートホーム 森くうひ @mori_coohi
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