第27話

その夜、夢をみた。

強い日差しが、アスファルトに濃い影を作っていた。

俺はチビで、子供用の自転車に乗っている。

自転車の前かごには、プラスチック製の虫取り用のかごが入っている。

そして、俺の前を、白いシャツに黒い長ズボンの背中が、大人用の自転車で走っていた。

兄貴だ。

兄貴は、俺の虫取り網を俺の代わりに左手で持って、器用に自転車を運転している。

なんであんな長いものを持ったまま普通に自転車を漕げるんだろうと思いながら、俺は兄貴の後をついてゆく。

小さな雑木林の脇で、兄貴が自転車を停め、俺もそれを見て自転車を降りる。

大きさの違う二台の自転車が並ぶ。

兄貴は虫取り網を持って、雑木林の緩い斜面を登ってゆく。

運動靴の底が、下草や枯れ枝を踏んだ。懸命に足音を抑えながらそっと歩く。

一本の太い木の下で、兄貴が立ち止まる。真上を見上げる。

俺も兄貴の隣で、真上を見上げた。

俺の頭は、兄貴の肩よりも低い。成長期が人よりも遅れてやってきた俺は、小学生の頃はずっと、クラスで背の順で並ぶと前から数えたほうが早かった。

兄貴は静かに虫取り網を高く高く掲げ、それから、一気に木の幹を叩いた。

俺は息をのむ。

一瞬の後、遥か頭上で、網が激しく揺れた。

兄貴が、虫取り網の柄を傾けて地面に下ろす。俺は獲物を確認すべく駆け寄った。

――すっげえ! クマゼミだ! 兄ちゃん、すげえ!

興奮のあまり、網の中の蝉が耳をつんざくような鳴き声を上げているのも、全然気にならなかった。

――すげえ! こんなデカいの誰も採ってなかった!

――ラッキーだったな

――

――――……

夢はそこで、フェードアウトしている。

目が覚めると、俺は泣いていた。

涙が溢れて、大粒の滴が枕にどんどん落ちていた。

覚えている。

夏休みだった。

友達数人と虫取りに出かけたのに、俺だけ一匹も採れず、負けを宣告されて、意気消沈して家に帰った。

そうしたら、偶然玄関で鉢合わせした兄貴が、俺に『ついてこい』と言って自転車に跨ったのだ。

覚えている。

兄貴が大きなクマゼミを捕まえ、俺はそれを虫かごに入れて、大興奮で家に戻ったこと。

家の玄関を入ってもお構いなしに蝉は鳴き続け、慌てて母親が飛び出してきたこと。

ドヤ顔の俺と、俺が高々と掲げる虫かごを見た母親の、ひきつった顔。

鼓膜が破れそうな蝉の声。

『うるせー!』と言いながら、俺はケラケラ笑っていた。

虫かごの中の大きなクマゼミは、燦然と輝いて見えた。

覚えていた。

俺はいま、一人、和室に敷いた布団の中で、暗い天井を見上げている。両親は別の部屋で眠っている。外は雪が降っている。夜明けはまだ、遠い。

静かだ。

どこか遠くで、道路を走る車の音が小さく聞こえる。

涙が後から後から溢れてくる。

ふと視線をずらすと、タンスの上に兄貴の遺影があった。俺と父親がさっき空けたのと同じ缶ビールが、供えてある。

あの、葬式の時の、免許の写真みたいな遺影。イケてないにも程がある顔。

兄貴がずっと、会社や両親に対して装ってきた、優男の顔。

装っていた、だけど結局嘘が吐けない、真面目野郎だった。だから、どちらも兄貴だったのだろう。俺もきっと、知っていた。

あの、暑い夏の日。

友達との虫取りで味わった敗北感。帰宅した俺は、どれだけしょげ返って見えたのだろう。

そして、敗北感を一瞬にして押し流す、兄貴が俺に手渡した興奮。

俺はクマゼミの入った虫かごを意気揚々と掲げ、帰りは自転車で兄貴の前を走って家まで戻った。

――ごめん。

暗い和室の天井の木目が、涙でぼやける。

とめどなく溢れる涙を、寝間着代わりのスウェットの腕で拭いながら、俺は心の中で兄貴に謝っていた。

――あの時、俺、あんまりにもハイテンションで、お礼、言ってなかった。

瞼が熱い。

押さえても涙が止まらない。

――ごめん。ごめんな。ありがとう。

どれほど後悔しても、もう、伝える相手はいないのに。

――ありがとう。兄ちゃん。

俺は心の中で、何度も何度も繰り返していた。

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