第26話

新幹線の窓の外は、真っ白な雪に覆われていた。

仙台に到着を知らせる車内アナウンスが流れる頃になると、窓の外は市街地になって、景色に少しばかり色彩が増える。それでも人の生活の営みなんて小さなもので、冬は、くすんだ灰色を広げて分厚く街を覆っていた。

近年、正月に帰省したことはあれど、二月の仙台は何年振りか分からないぐらい久々だった。

端的に言って、クソ寒い。しかも時刻は夕方だ。

俺は寄り道を一切せずに最短ルートを辿って、実家方面へ向かうバスに乗った。

ごくありふれた古いマンションの一室に、俺の両親は住んでいる。

オートロックなんてものはない。玄関の鍵も、開いていた。

俺は精一杯のさり気なさを装って、ドアを開けた。

「ただいまー…」

後ろ手に玄関ドアを閉めると、外気と遮断された室内の温かい空気が、一気に俺の頬を包んだ。

廊下の奥の暖簾をめくって、母親が顔を出す。

「あら、……お帰り。言ってくれれば、駅まで車で迎えに行ったのに」

「うん、まあ……バスあったし」

俺は適当にお茶を濁した。車で迎えに来てもらって、父親もしくは母親と二人っきりで密室の空気感を味わうのが面倒くさかったから、とは言えない。

「お帰り」

台所に入ると、ダイニングテーブルに座っていた父親が、とても適当に俺に声を掛けたので、俺も適当に返事を返した。

「ただいま」

「元気か」

「……とりあえず」

「そうか」

これで毎回、最初の会話が終わってしまう。

俺は、東京駅の売店で適当に買った菓子折りを、紙袋ごと母親に渡した。

「これ、土産」

「あら、有難う」

テレビが点けっぱなしで、夕方の情報番組が流れている。テーブルの上にはミカンや食べかけのチョコや地元の新聞が無造作に放り出してあった。どこを切り取っても、実家っぽさが半端ない。しかも背景は昭和感丸出しの食器戸棚に、二十年物のダサい柄のカーテンだ。

「お父さん、ちょっとその辺、片付けてコンロ出して」

母親が指令を飛ばす。

「友幸が帰ってくるから、夕飯はお鍋にしたのよ」

「へー、鍋」

俺と父親は、のろのろと手際悪く食卓の上を片付けた。これまた二十年選手のカセットコンロが真ん中に据え置かれ、程なくしてその上に土鍋が鎮座した。今日の夕食のメニューが、俺と兄貴が十代の頃にばくばく食べていた鶏の唐揚げや豚丼じゃないことが、むしろ少しだけ妙に思えた。息子が帰ってくると、母親は滞在中必ず一度は唐揚げを(息子達の胃袋が歳を取っているのはガン無視で)山ほど揚げていたのだが。

「飲むか?」

父親が冷蔵庫をあさって、缶ビールを差し出す。母親が言い添える。

「日本酒もあるわよ」

「いや、まあこれで」

一本の缶ビールを、父親のグラスと俺のそれに注ぐ。

出汁の匂い。俺と父親と母親の真ん中で、白い湯気が立ち上っている。

鍋の具は、地元の牡蠣だった。

「旨いね」

「東京より安くて美味しいのが売ってるのよ」

「そりゃそうだ」

出汁がしみた白菜を、火傷しそうになりながら一緒に頬張る。スープが美味しい。俺の向かい側で、父親の眼鏡が、湯気で曇っている。テレビはずっとつきっぱなしで、今はバラエティ番組の異様に明るい音声が流れている。最後のうどんまでを、俺達は黙々と堪能した。シェアハウスで食べた鶏鍋は、具のリッチ度で測ればこの牡蠣鍋の半分ぐらいだったと思うけれど、騒々しさはあの鶏鍋のほうが十倍ぐらい上だった。

ぎこちなく後片付けを手伝って、洗い物を終えると、母親がほうじ茶を淹れた。俺と父親と母親の分、食卓の上に三つ並んだマグカップは、大きさも柄もばらばらだった。

「――話があるってメールしたの、これなんだけど」

俺は、昴君が本の間から発見した銀行の書類を、食卓の上に広げた。

父親がまず手に取り、上から下まで舐めるように見る。初めて俺が預金残高を知った時と同じように、父親の目はみるみるうちに丸くなっていった。

「……えええ? ものすごい金額じゃないか……」

「どれどれ?」

眺め終わった一枚目の書類を、父は母に手渡す。二十秒後には、二人並んで老眼鏡の奥の目を丸くしていた。俺と全く同じ反応だった。

「噓でしょ……」

「ていうか、兄貴の稼ぎだと、預金があれだけしかないのが異常だったんだよ」

「そりゃ、そうかもしれないけど――東京で暮らすにはお金掛かるでしょう」

「掛かるったって、母さんだってあのシェアハウス見ただろ」

「見たけど――」

どうやら父も母も、あの時は息子が突然他界した直後、しかも息子の彼氏と対面したとあって、頭が全く回っていなかったようだ。まあ、無理もない。

父は、眉間にしわを寄せて、銀行の報告書を穴が開くほど見つめながら、ぼそりと言った。

「こんな大金、どうするつもりだったんだ」

「それなんだけど――」

俺は、不器用に一つずつ話していった。

兄貴が、家を買いたいと思っていたこと。

その家は、自分が住むためだけではなく、何人もが住める大きさで、兄貴は大家として部屋を貸し出すつもりでいたこと。

どうして、そう思うに至ったのかの背景。

そこに、あのシェアハウスの存在があったということ。

同性愛者で、結婚を諦めた独身でありながら、シェアハウスの住人達と賑やかに家族同然の共同生活を送り、彼らに好かれて生きていたこと。――

「だから兄貴は、そういう場所を……安心して暮らしていける場所を、自分でも作りたかったんだよ。――それが、兄貴の夢だったんだ」

「夢……」

母も父も、眉間にしわを寄せて、俺の正面で黙りこくっている。

「それで、お願いがあるんだけど」

俺は意を決して、ずっと思っていたことを、口にした。

「全部じゃなくて半分でも、ちょっとでもいいから。この兄貴の遺産、――俺に、貸してくれないかな」

「え⁉」

無表情なのか怒りなのか、判別できない顔で、父親が俺に尋ねた。

「――何を、するつもりなんだ」

「俺が代わりに、兄貴の夢を叶える」

俺は目を逸らすなと自分に言い聞かせ、真正面を向いて、答えた。

母親が、顔面いっぱいの困惑を隠しもせずに言う。

「どういう意味。まさか家を買うっていうんじゃないでしょうね――しかも、他人に貸すために」

「そのまさかだよ」

「何言ってるの。そんな簡単な話じゃないでしょう」

「分かってる」

「もしあんたが自分で住むために家を買いたいって言ってるんなら、親が援助するのもやぶさかじゃないかもしれないけど――ねえ、お父さん」

「友幸、母さんの言う通りだ。……お前ももう大人だから、自分でマンションや家を持っても全然不自然じゃない年だけど」

「けど――もし仮に兄貴が死ななかったら、もうすぐ兄貴は家を買ってたはずだと思うんだよ。三十路半ばの男が自分の稼ぎで自分の夢を叶えるなら、人にどうこう言われる筋合いないじゃないか。兄貴の夢を応援してやりたいとは思わないのかよ」

「でも、あんたはあんたで、拓海とは……違うじゃないの」

母親が、歯切れの悪い口調で割り込んできた。

「そりゃ、もしも拓海がそうしたいって言ってきたら、可哀想だし応援してやりたかったけど」

「可哀想?」

かわいそう。

俺があのシェアハウスで見てきた兄貴の在りし日の姿には、あまりにも似つかわしくない単語だった。

「兄貴のどこが、可哀想なんだよ」

母親と父親が、顔を見合わせる。

「だって……ねえ。お父さん」

「うん……、何というか、親のほうから孫の顔を見せろと命令する気はなかったけどな――」

「そう。だって仕事もお金もあるのに。結婚できない家庭も持てないんじゃ、それは気の毒だったと思うわよ。普通の男の子に産んで育ててあげられなくて、悪かったと思ってるわよ」

腹の底に、静かな怒りが沸く。

「……何だよ、それ」

自分で気づくより先に、俺はその怒りを、ためらうことなく吐き出していた。

「可哀想? バカにすんなよ。兄貴がどんな風に生きてたか、見ようともしないで、なに言ってんだよ? あれのどこが可哀想なんだ。1ミリも可哀想なんかじゃねえよ」

「でも――」

「兄貴が可哀想なら、俺はどうなるんだよ? ワンルームのアパート暮らしで彼女もいない安月給のリーマンだぜ? 兄貴は高給取りの外資系勤務のコンサルタントで、一途な彼氏がいて、家に帰れば賑やかにお帰りって言ってくれる人が何人もいたんだぞ? 人生超充実してんじゃんか。――兄貴は、幸せだったんだよ。東京で、自分の力で、毎日すげえ普通に幸せに暮らしてたんだよ! それをちゃんと見てもいないのに――見る勇気すらなかったくせに、勝手にバカにしてんじゃねえよ!」

自分の声が、微かに震えているのが分かった。

俺はたぶん、ただ両親の愚かさに怒っているわけではない。

「――好きな人が、いるんだ。俺」

「え……」

両親が顔を見合わせた。慌てて俺が付け加える。

「って俺の場合は相手はもちろん女の人だからな⁉」

「ああ……そう」

母親がほっと胸をなで下ろす。俺は、その態度にまた小さな怒りを覚えながらも、声を抑えて、続けた。

「けど……その人が、その、生まれ育った家には問題があって、親とか頼れなくて、たった一人で必死になってるの見ても――俺には何も、できることがなかったんだ。俺に頼ってくれって胸を張って言えなかった。俺は、なんにもしてこなかったから……」

同性愛者じゃない野郎に生まれ。

両親が揃って、そこそこマトモにお金を出してくれる家で育ち。

何となく、事故にも大災害にも遭わずに生きてきた。

それは俺の行いが良いからじゃない。単なる、運だ。

人は、この世に生まれてきた時から、色々なタイミングでクジをひき続ける。

十本のクジのうち、一、二本だけ色が違うクジを。

俺はそのクジで、たまたま、色が違うクジを引かずにきただけなのだ。

それは、生きやすさという面で言えば、『当たり』なのかもしれない。

だけど、俺はそのことに気付かないまま、何となく自分の境遇に甘んじて、何も考えずにだらだらと生きてきた。なぜかやたらモテる野郎や金持ちの家に生まれたボンボンを羨んでみたり、イケメンに生まれなかったことをカジュアルに恨んでみたりしながら、自力で『普通の奴』の殻を破るのも面倒臭くて。

兄貴は、俺がそんな風に生きてきた間に、マニュアルのない人生を自分で描いて、自分を実現するための力を身に付けていたのだ。

「――だから、俺は、もう――行動しないで見送るのは嫌なんだよ。何でもかんでも目の前を通り過ぎるのを見てるだけじゃ、たぶん、駄目なんだって……気が付いたんだ。だから」

俯いて、自分の不甲斐なさを吐き出す。自分の膝の上で握った拳を見つめる。

がたり、と椅子の音がした。

はっとして顔を上げると、父親が席を立っていた。ダイニングキッチンから出ていこうとしている。

――逃げられる。

「――待てよ、父さん」

廊下の手前で、父親は立っていた。

「――……お前は、ちょっと頭を冷やせ」

「なん――」

駄目なのか。

やっぱり、『好きな人がいる』と話したのは失敗だった。片思いで勢いづいている中坊扱いされた、と思った。

だが、父親は俺に背中を向けたまま、続けた。

「……それでも――頭を冷やしながら一年経っても、お前の意志が変わらなかったら、考えよう――三人で」

そう言い残して、父親は、部屋を出て行った。

振り返って見ると、テーブルに座ったままの母親は、目を伏せて微かに唇を震わせていた。目尻に薄い、光るものが見えたような気がした。

「――……ありがとう」

聞こえたかどうかは分からないけれど、俺は父親の背中に向かって、言った。

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