第25話

急に、柳さんの声が詰まり、涙に濁った。

「――嫁と別居してるって、嘘だった。別居も、別れるつもりだっていうのも、全部、嘘だった。私が貰ったネックレスは、嫁にプレゼントしたのと同じのだった。最低。でも全部私のせいなんだって。なんで私が嫁に罵倒されないといけないわけ? 若い腰掛OLが男をひっかけるために派遣社員やってるんだろうって。品がないって。たとえ別居してるって言われても既婚者には変わりないんだから、既婚者を誘惑したあんたが悪いって」

「なんつう――」

俺はただただ、絶句した。

その横で、五十嵐さんが猛然と突っ込んだ。

「~~っていうかナギちゃん‼ あんたほんっと馬鹿じゃないの⁉ 嫁と別れる、別居してるなんて口の上手い不倫男の常套句じゃん! そんなの本気で信じてたわけ⁉」

「……うるさい」

「毎回毎回、手近なところにいる口の上手い男にホイホイ引っ掛かって、学習しないにも程があるだろ! なんでいつも見え透いた口説き文句に引っ掛かってんの⁉ 本気で恋愛する気のない男なんか、見れば分かるじゃん!」

「ほっといてって、言ってるでしょ」

「てか自分でも分かってんでしょナギちゃん、近付いて来てる男がヤりたいだけだってことぐらい⁉ そんな男にいちいち縋りつくから修羅場になるんだろーが! そもそも今回だって、ほんとに縁切りたいなら家まで会いに行く必要とかねえし! むしろ会うなよ! 縋るなよ!」

「うるさい。五十嵐さんには分かんないわよ。分かるはずないでしょ? 拓海さんみたいにマトモで一途な人と両想いになれるような五十嵐さんには!」

「子供かアンタは! こっちは高収入高身長高学歴の彼氏に死なれてんだよ! うちのホトケを不倫ゲス男と比べんな、このバカ女!」

その瞬間、ばふっと柔らかい音がした。

何かが勢いよく五十嵐さんの肩に当たって、落ちた。床に目をやると、転がっているのは色紙大のクッションである。毛布をかぶったまま柳さんが投げたものだった。

「――知ってるわよ、私がバカなのは! でも、子供なんて勝手にさっさと堕ろせ、こっちは一円も払うつもりないって言うあいつと嫁には品があるわけ? こっちははっきり別れ話だけさせてもらえれば、強請る気なんてさらさらなかったのに。頼まれなくたって、自分でけりは付けますから。――だから、ほっといて」

柳さんの叫びは、絞り出すように弱々しく覇気のない声だった。

そんな柳さんの言葉を聞いているうちに、いつの間にか俺の腹の底には、得体の知れない感情が沸いてきていた。

「……それで、一人で罵倒されて帰って来て。自殺しようと、したんですか」

自分でも分からないまま、俺は、毛布の下で丸くなっている柳さんのシルエットに向かって、いつしか言葉をぶつけていた。

「なに、考えてたんですか。今更ほっといてとか、言える立場なんですか? 一人で子供堕ろして、終わりにするつもりだったんですか?」

「……」

毛布の下の柳さんからは、答えはなかった。俺は構わず、畳みかけた。

「いい加減にしてくださいよ! バカだって五十嵐さんが言ってんのは、そういう意味だけじゃないですよ‼」

「……関係、ないでしょ、弟さんは」

「友幸です! いい加減覚えてください、人の気も知らないで!」

「知るわけないじゃない」

「ああそうですよ、俺も知るわけないです。でもお互い様じゃないですか‼ 不倫でボロボロになって子供が出来ても堕ろして、はいお終いって、おかしいですよ!」

「じゃあ育てろって言うわけ」

「不可能じゃないでしょう⁉」

「簡単に言わないで」

「こっちだって、そんな簡単に自分だけ傷付いて独りで何でも片付けて、無かったことにしろなんて思ってませんよ‼ 何なら俺が結婚して養いますよ、ナギさんも子供も!」

「なっ――」

「はあ⁉」

「ええええぇえ⁉」

ざくろちゃんと五十嵐さんが裏返った叫びを上げ、柳さんが毛布の下から跳ね起きた。涙の跡だらけの目を見開いて、頬を真っ赤にし、柳さんも叫ぶ。

「ばっ――ばかじゃないの⁉ ていうかバカにしてるの⁉」

「違います‼」

微塵も怯まずに、俺は言い返した。柳さんも負けじと反論する。

「勢いでそんなこと言わないでよ!」

「勢いじゃありませんよ‼ 本気ですよ‼ 俺はナギさんの子供なら全然問題ないですから‼」

「そんなこと聞いてないわよ!」

「聞かれなくても言いますよ! どうせ聞いてくれないじゃないですか!」

「聞きたくないからよ! あんたに同情される筋合いなんてありませんから!」

「同情とか勢いとか、そうやってレッテル貼って他人をシャットアウトして、独りで生きてるつもりですか⁉ 調子に乗るのもいい加減にしてくださいよ! ナギさんはそうやって一人でどうにか出来るつもりかもしれませんけどね⁉ 俺にも五十嵐さんにも分かるはずないって言うなら――」

――そう言った瞬間、何かが俺の胸に引っ掛かった。

何だ?

小さな、だが素通りして飲み込むことのできない、何か。

柳さんの言ったことと、俺や五十嵐さんの言ったことは、似たような言葉だが、どこかが違うのではなかろうか?

――『分かるはずないでしょ? 拓海さんみたいにマトモで一途な人と両想いになれるような五十嵐さんには』……

「もしかして――」

あの、先ほどの柳さんの言葉。

あの中で肝心なのは、相手が『マトモで一途な人』という部分よりも、むしろその後の部分だったんじゃないか?

『両想いになれる』。

そう思い至った途端、俺の記憶が蘇って、繋がった。

あの日、ダイニングで、ざくろちゃんとドーナツの話をしていた、柳さんの声。

軽やかにころころと転がるような、笑い声。見たことのない笑顔は俺には想像できないのに、その場の空気は目に浮かぶように分かる声。

「……もしかして、ナギさんの好きな人って、本当は――」

――ざくろちゃんだ。

と口走る暇は、しかし、俺には無かった。

柳さんが、心の奥底では上辺だけだと理解っていながら軽い男に縋りつき、不毛な恋愛関係を繰り返してきた、そのわけを。

俺が理解した、まさにその刹那。

ばふっ!

「って‼」

俺の顔面に、何かが勢いよくぶつかった。

咄嗟に、だが無駄に反射神経を発揮して、俺はその何かを両手でキャッチした。おそるおそる目を開けてみれば、色紙大のクッションである。五十嵐さんがぶつけられたのと同じクッションだ。二個あったのかよ!

俺が顔を上げると、柳さんが鬼の形相で俺を睨みつけていた。

「いい気にならないでよ! 見透かしてるつもり⁉ 拓海さんじゃあるまいし、そんなとこだけ――全っ然似てないくせに、そんなとこだけ拓海さんに似ないでよ!」

――兄貴も、気付いていたのか。

が、今は、そんなことはどうでもいい。

柳さんは、つい先ほどクッションを投げた腕の向こうから、涙の浮かんだ真っ赤な顔で、真っ正面から俺を睨んでいた。

今度ばかりは、俺も怯んだ。

言えん。

柳さんが、叶わない想いを背後に無理やり押しやって、アプローチしてくる男に次々と自分を投げ出してきた、その根底の理由が。

今まさに俺の背後にいる、ざくろちゃんだったなんて。

ざくろちゃんも柳さんのことが大好きだろう。

けれど、ざくろちゃんの『好き』とは違う想いを、柳さんは抱え続けていたなんて。

今この場で、とても言えない。と思った。

目を逸らしたら承知しない、とばかりに正面から俺をキッと睨みつけている柳さんの気迫に負け、俺は二の句が継げなくなった。

――こんなにも、あっさりと陥落するとは。

先程自分が柳さんにプロポーズした事実すら、どこか遠くに吹き飛ばされて塵と化していくようだった。脱力を感じる。

何だかとても、あっけなかった。

初めてこのシェアハウスに来た日から今日まで、柳さんの顔と声が脳裏にチラつかない日は無かったけれど、これは完全に、俺の敗北だ。

俺は、ざくろちゃんには、勝てない。

そして情けなくも、俺は柳さんに睨まれたまま、棒立ちになっていたのである。

「――これは、私の、問題だから」

柳さんが、絞り出すように、言った。

「私が自分で、片づける」

何も、言い返せなかった。

頭の中の引き出しを片っ端から開けて言葉を探しても、何も出てこない。

だから駄目なんだ、俺は。

兄貴ぐらい頭のキレが良ければ、きっと違ったのに――

その時、

「ねえ、ざくろ」

背後でずっと沈黙を守って来た昴君が、小さな、しかしはっきりとした声で、言った。

「オレ、ガキだけど、子守りとか、できるかな」

「……るーちゃん?」

ざくろちゃんが昴君を振り返る。

昴君は、いつも通りの涼やかな無表情でありながら、よく見ると、その目元にほんの微かに、涙を溜めていた。

「子供、育てるって――難しいことしかないのは、分かってるけど。子持ちで働くのとか、お金とか保育園とか……めんどくさいことばっかり、満載なの、知ってるけど」

薄く微かに浮かんでいた涙が、みるみるうちにはっきりと、大粒の滴になってゆく。

「オレ、暇だから。オレやざくろでも、なんか色々、手伝えること、探して、――それで、どうにかして――殺さない、方法、探せないかな」

一粒の涙が、昴君の頬に落ちた。

気付けば、ざくろちゃんの大きな瞳にも涙が溜まっている。潤んだ目で、ざくろちゃんが小さく、でも何度も何度も、頷いた。

「……うん、そうだね。そうだよね――」

ベッドの上で、柳さんは茫然としていた。

おそらく、ざくろちゃんはまだ、柳さんの想いに気付いていない。

気付かないまま。

「私も、何でもする。るーちゃんと一緒に。……だから――」

ざくろちゃんは昴君と二人で、真っ直ぐ柳さんに向き直って、言った。

「ナギさん、お願い。一緒に、やらせてください」

柳さんの、困惑と悲しみとが滲んだ瞳に、大きな得体の知れない感情が混ざっている。

外から冬の風の音が聞こえる。

物の少ない部屋には、知らず知らずのうちに下の階から伝わる温かな空気が、常に満ちている。

乾いた唇が、少しだけ、動いた。

「……んなの……反則じゃない」

柳さんの唇は、微かに震えていた。

「……本当、ずるい。そんなの、――拒否、したら、私――」

冷たく固く凍り付いていた柳さんの目元が、少し溶けたように見えた。

俺はそれを眺めながら、こういうタイミングで気の利いた台詞を吐けない己を呪っていた。

すると、俺の代わりに五十嵐さんが口を開いた。

「とりあえず、子供には生きる権利は与えましょうよ。僕ら、大人なんだから。可能か不可能かは、まず生きてからですよ」

五十嵐さんは、少し笑っていた。

「ほんで、もし男の子だったら、拓海の名前を付けてもいいよ」

「ええっ⁉」

俺は思わず叫んだ。意味もなく慌てる。

一瞬の間合いを経て、

「――それだけは、絶っっ対に、嫌‼」

兄貴の弟である俺には一瞥もくれず、柳さんは即座に拒否権を発動した。同時に

ばふっ‼

という音がして、三個目のクッションが、今度は五十嵐さんの顔面に直撃した。

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