第24話

ざくろちゃんがおろおろと五十嵐さんをなだめようと試みる。だが五十嵐さんはまるで意に介さない。遠慮の全くない手つきでドアノブを捻る。がつん、という音がする。鍵がかかっている。

「どうせまた男でしょ? 違うの? 違うなら言い訳してみろよ。そうやって引きこもって、どんだけこの子らに心配かけたら気がすむわけ? バカじゃないの⁉」

「五十嵐さぁん……」

ざくろちゃんは、もはや半泣きである。俺も見るに見かねて言った。

「五十嵐さん、それ逆効果じゃないですか……? なんていうか、部屋から出てこいって説得するんなら、なんか他に、こう――」

「やかましい」

ぴしゃりと遮り、五十嵐さんは一瞬だけ振り返って俺を睨んだ。

「だって腹立つじゃん。とりあえず言ってやらないと僕の気が済まない」

「ええぇ……!」

俺はあっさり反論する言葉を失った。理屈ではないらしい。引き続き物音すら聞こえてこないドアに向かって、五十嵐さんは声を荒げる。

「ナギちゃん分かってる? あんた自分は意識飛んでたから覚えてないだろうけど、あんたがぶっ倒れてるの見つけた時にどんだけざくろが大泣きしてたと思ってんの? うち帰って来てからも、ざくろと昴と二人してどんだけ気にかけてあんたの生存確認してるか知ってる? それを自分の目で直視する勇気すらないくせに!」

あっ、と思った。さっきも五十嵐さんは、『この子ら』に心配をかけて、と言った。昴君がダイニング横の和室で本を読んでいたのは、柳さんが部屋から降りてきているか、静かに見張るためだったのか。

五十嵐さんは、返答がないのに構わずたたみかける。怒鳴ってこそいないものの、重たい憤りが詰まった声は、声量以上に響く。

「ナギちゃんあんたね、馬鹿な女になるなら、せめて恥晒すついでに全部直視しとけっつうの。見ててほんと腹立つんだよ。分かってる? なんっにも分かってないだろ。分かってないのがもうダダ漏れなんだよ。いい歳して恥ずかしいと思いやがれ! 歳と飯だけ無駄に食ってんじゃねえよ!」

かち、という音がした。俺とざくろちゃんが、同時にはっとする。五十嵐さんの握りしめたドアノブの向こう側で、鍵が開いたのだ。

「ナギさん――」

固唾を飲んで見つめるドアは、しかし暫く待っても開かなかった。

五十嵐さんが、静かにドアノブを捻る。

ドアが四、五十センチほど開くと、そこに青白い顔の柳さんが立っていた。

どんよりとした瞼の下で、光のない瞳が俯いていた。

久し振りに見た柳さんは、少し瘦せたように見えた。いや、やつれているという言葉が近かった。元々細めの体形だったが、今の柳さんは、そのやつれた雰囲気を、羽織っているフリースのふわふわした質感でも隠しきれていなかった。

「久し振り。ナギちゃんあんた、痩せたね」

俺と同じことを思ったのだろう、五十嵐さんも言った。

柳さんは何も言葉を返さず、俺達に背を向けると、のろのろと歩いて部屋の奥のベッドに潜り込んだ。たぶんさっきも、布団の中に籠城していたのだろう。

五十嵐さんが部屋に入る。妙齢の女性の私室へ踏み込むという状況に、五十嵐さんは相変わらず微塵の遠慮も見せない。どさくさ紛れに俺も後に続いた。ざくろちゃんと昴君も入ってきた。

柳さんの部屋は、驚くほど物が少なかった。

生成り色のカーテンも、ベッド周りのリネンも、柄のない無地だった。フローリングの床は何も敷かれずむき出しで、足の裏が冷たかった。

低いテーブルと、壁際に置かれた腰までの高さのチェストの上に、普段使いのバッグや化粧品が点々と散らばっている。それなのに、視界に映る色が少ない。部屋の左手にはクローゼットがあり、扉が開けっ放しで、コートやセーターが衣装ケースの上に投げ出されているのが見えた。しかし、クローゼットの中すらも、服の間から奥の壁が見えるくらい、隙間だらけだった。

ベッドに潜り込んだ柳さんは、毛布をかぶって完全籠城の構えである。壁のほうを向き、俺達と目を合わせる気配すらない。

枕元に仁王立ちになった五十嵐さんは、暫し腰に両手を当てたままそんな柳さんを見下ろし、それから深々とため息をついた。

「……やっぱ、男がらみの修羅場じゃん」

「なんで分かるんですか?」

俺が訊くと、五十嵐さんはテーブルの上を指さした。

「それ見なよ」

テーブルの上には、金色の細い鎖が投げ出されていた。ネックレスのように見える。花の形の飾りが付いている。ざくろちゃんがそっと持ち上げると、チェーンは途中で切れていた。

「そのネックレス、彼氏に貰って最近デートの時につけてたやつでしょ」

「――もう、いらないから」

柳さんが、毛布にくるまって俺たちに背をむけたまま、小さな声で言った。

再び五十嵐さんが、深い深い溜め息をつく。

「不倫してる奴に不倫はやめろっつっても、聞く耳持たないのは知ってたけどさ。ほんとこういうのって、自分で学習するしかないんだよね……。懲りろよマジで」

「余計な、お世話です」

毛布の下から、柳さんのくぐもった声がした。反論にも、いつもの勢いはない。

「それにしたって、仕事もいつまでも休んでるわけにいかないでしょ」

「………………切られた」

「……え?」

意味が分からず、五十嵐さんはきょとんとし、俺とざくろちゃんは顔を見合わせた。一瞬の沈黙の後、柳さんが毛布の下からもう一度言った。

「仕事。派遣の契約、切られた」

「はあ⁉」

「一月末で、もう来なくていいって」

「――どういうことっすか」

思わず俺が割り込むように口走ると、ざくろちゃんが茫然とした表情で呟いた。

「ナギさん――彼氏、マネージャーさんだったから――」

「マネージャー? 上司ってこと? 会社の?」

ざくろちゃんが頷く。

つまり、柳さんは派遣社員で勤めている職場の上司と不倫していて、破局と同時に契約を切られた、ということか。こういうのを職権乱用というのではなかろうか。

「うそだろ……」

「ナギちゃん……あんた、何したの」

五十嵐さんも、呆れ顔で言った。

「ほっといて。落とし前は自分でつけるから。――そのくらいの、貯金はある」

「……貯金?」

まさか、不倫の上に、金銭トラブルまで重なったのだろうか。そうなると俄然心配になってくるんだけど……と思いつつ見ると、五十嵐さんも先程までの呆れが消え、真顔になっている。

「ナギちゃん、本当にあんた、何したわけ?」

「……」

毛布の下の柳さんは暫く沈黙して、それから、ぽつりと言った。

「……分かってる。何もかも全部あいつのせいにするつもりなんて、ないから。自分でおろす」

「え――」

とっさに俺には、真意が分からなかった。

が、五十嵐さんが一足早く反応した。

「まさかナギちゃん妊娠してんの?」

「ええええええ⁉」

反射的に、素っ頓狂に叫んだのは俺である。さぞかし間抜けな顔をしていただろうが、どうしようもない。慌てて五十嵐さん、ざくろちゃん、昴君、柳さん(顔は毛布の向こう)を順に見比べた。間違いなく俺が一番おろおろしていて、昴君が一番冷静だった。ざくろちゃんは茫然としている。

「ナギさん――ほんとに?」

「……」

ざくろちゃんが訊ねる。柳さんから反論の言葉は来なかった。代わりに少し、重たい沈黙が流れた。

「ナギさん……」

「――……子供、できたって、言ったら、連絡、来なくなった。あいつ。――会社でも、全然デスクにいないで会議とか、外出とか、あからさまに、避けられてた」

ぽつりぽつりと、覇気のない声が言葉を繋ぐ。涙声ではない。

柔らかな毛布の向こうから聞こえる声は、感情を忘れたように乾いていた。

「……顔は見えてるのに、音信不通って。ほんと、バカみたい。そうされたら、こっちから行くしかないじゃない。なのにあいつ、私が家に来るのは予想してなかったみたい。もう、笑うしかない」

「家……? って――まさか乗り込んだんすか⁉ 不倫相手の家に⁉」

またもや頓狂な叫びを上げたのは、俺である。

裏返った俺の声とは対照的に、淡々とした口調で、毛布をかぶったまま柳さんは続ける。

「別に、慰謝料とかもらう気ない。これで最後、縁を切るつもりだっただけ。……なのに」

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