第23話
昴君が、読んでいた本を閉じて、言った。
「オレが貰った拓海さんの本に、挟まってた。他にもなんか色々出て来たけど。レシートとか。でもこれはちょっと、捨てちゃやばそうだなと思って。そしたら年越し蕎麦の時の話を思い出して、これがその埋蔵金ってやつなんじゃないかなって」
「で、僕が昴に相談されて、ともくんに渡したほうがいいと思って連絡したわけ」
「なるほど……」
書類には、数行に渡って『定期 〇年』という文字と日付、そして右端に金額らしい数字が並んでいる。兄貴は、定期預金を幾つも作っていたのだ。書類の上から順に視線を走らせていくにつれ、だんだん己の目が見開かれていくのが分かった。
「総額………………よん、せん、まん……⁉」
「ね。尋常じゃない額でしょ」
顔を上げると、五十嵐さんが真面目くさった表情でこちらを見ていた。昴君も真顔だ。二人のリアクションから推測するに、どうやら、俺が数字の桁を読み間違えているわけではないらしい。
現実が呑み込めず、俺は暫く金魚のように口をぱくぱくさせていた。
「……え⁉ なにこれ⁉ えええ⁉ うちの兄貴どんだけ稼いでたの⁉」
「税抜き年収で軽く一千万オーバーでしょ」
「これ焼肉どころじゃないすよ‼ てか、これマジで家買えるんじゃね⁉」
「そうなんだよ。つまりさ、――拓海は、本気だったんだね」
「本気――」
残高報告の中には、定期預金の他に外貨らしい金融商品の名前もあった。しっかり資産運用されている。俺は資産を運用した経験、もとい運用する資産もないので憶測だが、ネットバンクを駆使すれば、通帳無しでこれだけの財産を扱うことも可能なのだろう。そして、前時代のアナログ人間の両親は、兄貴の荷物の中から普通の都市銀行や郵便局の通帳と印鑑だけを確認して、それが兄貴の全財産だと信じ込んだのだ。加えて、田辺さんは田辺さんで、プロの銀行員ゆえに、聞かれてもいない顧客の個人情報をぺらぺら喋ることはなかったのかもしれない。
「そうか、そうだったのか……」
「……なんか、心当たりでも?」
こうなれば、もう全て洗いざらいクリアにしよう。
そう思い、俺は五十嵐さん(と昴君)に、田辺さんのことを話した。
五十嵐さんは、田辺さんの存在を知らなかった。最初こそ、
「誰その女! どういうこと? 拓海、僕の知らない所でなにしてたの?」
と亡き彼氏を詰っていたが、話が進むにつれ、兄貴の思い描いていた未来の夢の中に五十嵐さん自身が含まれていたことに気付いたらしく、だんだんと泣きそうな顔になっていった。
「もしかしたら兄貴は、この埋蔵金の金額からして、近い将来その計画を実行に移すつもりだったのかもしれませんね」
「拓海――」
外で微かに、風の音が聞こえる。
五十嵐さんの目尻に、僅かに光るものが見えた。
そして、こたつの反対側に座っている俺は、腹の底に重く沈むような何かを感じていた。
兄貴は、実家や俺とは距離を置いていた。
電車や新幹線で近づけるような種類の距離じゃ、なかった。
兄貴も両親も――そしてたぶん、俺も、互いにぶつかり合うほどの強さを持っていなかった。
みんな器用さが足りなくて、しかも、それを補うための覚悟もなかった。
どうしてもっと力強く生きてゆけないんだろう、と自分自身に問いかける熱すら足りず、低体温で中途半端な俺達が不器用にうろうろ彷徨っているうちに、ただ何となく、年月ばかりが過ぎていく。
けれど、実は兄貴は、俺や両親の知らない遠いところで、自分の夢を叶えようとしていた。
今この社会の中で、自分に嘘をつかずに幸せに生きてゆく方法を、自分の力で叶えようとしていたのだ。
「――俺はいっこも、兄貴に勝ててないですね」
俺はぽつりと呟いた。唇の端で、自分を嘲笑っている自分がいた。なぜかそれが赤の他人のように遠かった。
「ともくん、勝ってるよ」
俺が顔を上げると、五十嵐さんがこたつ布団に深々と手足を突っ込んだまま、天井を仰いでいた。
「生きてるじゃん。勝ってるよ。少なくとも、ひとつ」
「……そか」
ストーブの上に、今日はやかんは載っていない。冬のかさついた空気と部屋中を満たす暖房の温かさは、たぶんあっという間に涙を乾かしてくれる。
五十嵐さんが、さっき薄く浮かんだ涙を消した顔で俺を見て、舵を切り替えるように、笑顔でからりと言った。
「そうだよ、遺産は生きてる遺族のもんでしょ? てことはともくん棚ぼたじゃん⁉ ほらぁ、やっぱ死んだら生きてる人には勝てないっしょ」
「えええええ、てかこれ俺貰えるんすかね⁉」
「えっ……、貰え、ない、の?」
「どうなんでしょう」
「……ごめん僕、遺産相続したことないから分かんない」
「俺もねえすよ⁉」
「は――い」
昴君が軽く片手を上げて、会話に割り込んだ。俺と五十嵐さんが、同時に昴君を見る。
「こないだ、この紙見つけてからオレ、ちょっとググったんだけど、亡くなったのが兄弟でご両親が生きてれば、遺産はご両親が相続することになるみたいです。父親と母親が二分の一ずつ」
「……そうなんすか……」
「昴、さすがデキる男……」
恐らく現在このシェアハウスで最もデキる男を前にして、駄目な大人二人は、ただただ『へー』と感嘆した。昴君が本当に大人になったら、どんな人間になるのだろう。
「ねえ、るーちゃん」
ふいに背後から、ざくろちゃんの声がした。
振り返ると、いつの間にか二階から降りて来たざくろちゃんが立っている。不安げな声で、ざくろちゃんが昴君に問いかける。
「ナギさん、降りてきてた?」
「ううん」
昴君が首を振った。
「そっか……」
いつになく沈んだ面持ちだった。今度は五十嵐さんが、ざくろちゃんに訊いた。
「まだ引きこもってんでしょ? ナギちゃん」
「うん……。部屋、ドア開けてくれなかったです。昨日もおにぎりとか冷蔵庫に入れて声かけといたんだけど、食べてないみたいだったし――」
「はあ? 何それ?」
五十嵐さんが呆れ果てた声を上げた。気付けばざくろちゃんは、片手にスーパーの袋を提げている。半透明の袋の中身は、おにぎりとプリンだ。
「ざくろ、そこまで面倒みてんの?」
「だって、その、やっぱ、心配だから……」
「あんた過保護だよ。どーせナギちゃんが超ド級に沈むネタって、また男がらみでしょ⁉ そのうち浮上してくるんじゃないの? 暫くほっときなよ! もう良い歳の大人なんだから!」
「で、でも、昨日も一昨日も殆ど何も食べてないみたいだし――」
「あ~~~~もう‼ ほんっと腹立つな‼」
五十嵐さんが勢いよく立ち上がった。そのままどすどすと歩いて階段へ向かう。大股で苛立ちが思いっきり滲み出ている足取りに、ざくろちゃんが慌てふためいた。
「い、いいい、いがらしさん⁉」
「ちょっと一言言ってやる」
「えー‼ ちょ、で、でも!」
ただ事ではない気配に、俺も思わず立ち上がった。が、ざくろちゃんのあわあわと助けを求める視線に、何の助け舟も出せない。どうすれば良いのか分からないまま、五十嵐さんは階段を上がってゆくので、仕方なくざくろちゃんも俺も五十嵐さんの後を追いかける。
三階まで登るやいなや、五十嵐さんはドアの一つを雑にノックして、大きな声で言った。
「ナギちゃん? 起きてんでしょ⁉」
「いいいいいいいがらしさん」
「いつまでそうやって引きこもってるつもり? いい加減にしなよ!」
「ちょ、いがらしさん!」
部屋の中から応答はなかった。
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