第22話

何が起きたのか、俺には見当も付かなかった。

詳しい話を訊いていいのだろうか、と躊躇した。結局、訊けなかった。つくづく情けない。

週末にシェアハウスに行くのだからいずれ分かることだ、と俺は自分を納得させて、数日を悶々と過ごした。『大したことないから明日か明後日には退院』という五十嵐さんの言葉が、唯一の希望だった。

土曜日、いつもなら昼まで寝ているところだが、目が覚めたらまだ朝九時だった。二度寝しようと布団をかぶったままぼんやりしていたものの、結局、小一時間ほどで諦めてベッドから出た。

最寄り駅の前で、朝昼兼用の食事を胃に収める。丼もの屋の安い定食メニューは、塩味が強かった。外に出ると風が冷たい。電車の乗客も、皆一様にダウンジャケットやマフラーで装備を固めている。俺ももっと厚着してくれば良かったかもしれない。

もう俺は、シェアハウスの玄関の鍵を持っていない。

灰色に広がる冬空の下で、俺はもともと部外者だったんだよなと、まざまざと思う。

玄関のインターホンを押すと、昴君がすぐにドアを開けてくれた。この寒さだから有難かった。

玄関を上がると、ちょうど和室から五十嵐さんも顔を出した。

「いらっしゃい、おつかれー」

「ども。なんか大変だったみたいで」

「うん、まあね……。お茶淹れよっか。寒かったでしょ」

「ありがとうございます」

五十嵐さんがキッチンに立ち、程なくして電気ケトルでお湯が沸く音がし始めた。俺はコートを脱ぐなり、こたつに両手両足を突っ込んだ。生き返る。

こたつの反対側には、昴君も座っていた。また小難しそうな本を読んでいる。地味な表紙には黒い太字で『ファインマン物理学』という題名があり、裏表紙には図書館のバーコードが貼られている。

「今日はざくろちゃんは仕事?」

「買い物行ってる」

俺の質問に、昴君は本から顔も上げないまま答えた。

五十嵐さんが、マグカップを二つ持って戻って来た。そのうち一つを俺に差し出す。俺は会釈してマグカップを受け取った。湯気が温かい。カップの縁からは、紅茶のティーバッグの紐がぶら下がっている。

「ナギさん、もう退院してきたんですか?」

「うん。部屋に引きこもってる」

「一体、何があったんです?」

俺が訊くと、五十嵐さんは呆れ顔でため息を吐いた。

「原因は知らないけど、まあ間違いなく男がらみでしょ、あれは」

「はあ……?」

「こないだのともくんからメッセ貰った日ね、僕、銀座の高崎屋のイベントの設営で夜間作業だったのよ」

五十嵐さんによると、あの連絡が一旦途絶えた日の夜、午後九時ごろからずっと仕事だったのだが、深夜を回ったころ、携帯に鬼のように何度も着信が入ったのだという。

「誰だよと思ったら全部ざくろなの。最初は仕事中だから無視せざるを得なかったんだけど、あんまりにも何回もかけてくるから、どうにかタイミングみて電話に出てみたら、ざくろがぼろぼろに泣きじゃくっててさ。ナギさんが死んじゃう、って」

「――死ん……⁉ えと、生きてますよね⁉」

「生きてる生きてる。実際、大したことなかったから」

五十嵐さんが泣きじゃくるざくろちゃんから話を聞きだすと、深夜にバイトから帰って来たところ、柳さんが服を着たまま風呂場で倒れていて、揺さぶっても話し掛けても殆ど反応がなかったらしい。しかもバスタブには給湯器からお湯が張られようとしている最中で、もしそこに頭でも突っ込んでいたら溺死していたかもしれない状況だったそうだ。

「ざくろがめっちゃ泣いてて、とにかく落ち着けよと思うじゃん? とりあえず救急車呼べって言ったら、もう呼んだと。お風呂のお湯は止めたかって訊いたら、もう止めてる。じゃあナギちゃんのバッグとか上着とか靴とか準備しとけって言ったら、それももう持ってるって言うわけ。なら後は救急隊に任すしかないでしょ」

「まあ、そうですけど……」

「そう言ったら、ざくろがすごいしゃくりあげながら『ナギさんまで死んじゃったらどうしよう』『拓海さんだけじゃなくてナギさんまで死んじゃったらどうしよう』って繰り返すの。思わず僕、縁起でもないこと言うなって罵倒しちゃったよね。拓海の名前出すならナギちゃんを守ってくれると思えって言ったら、ようやっと我に返ったみたいだった」

昴君は、仕方がないので戸締りを徹底してざくろちゃんの部屋で五十嵐さんの帰宅を待ってもらうことにし、柳さんにはざくろちゃんが付き添って、救急車で少し離れた総合病院へ搬送されたのだという。だが、そこから先、詳細や面会については、病院側の規定でほぼシャットアウトされてしまったそうだ。

「どうして――」

「ざくろも僕も家族じゃないからね。ゲイカップルにもよくある話だよ。パートナーが大病患っても、面会できないとか、手術の同意書にサインさせてもらえないとか。結婚できなきゃ、どんだけ長年連れ添っても他人同士なわけよ」

「なるほど……。あのう、ナギさんの、ご家族は」

「長年絶縁状態らしいよ。お母さんはやたらお金の無心ばっかりしてくる人で、お父さんは渡したお金をちょろまかしてパチンコに使っちゃうらしい。今回も一応ざくろが聞いてみたけど、連絡取りたくないって」

無理もない。そんな状況では、親御さんに連絡を取ったところで、入院費を払ってくれるどころか、新たな面倒が発生しかねない。

「だからナギちゃんは孤独に入院してたの。僕らも、胃洗浄と点滴受けてたってあたりまでは知ってるんだけど」

「胃洗浄?」

「状況証拠によると、どうやら結構な量の焼酎と睡眠薬を同時に飲んだらしい」

「はあ⁉」

「市販の睡眠薬の空箱があったんだよね。でもざくろによると、トイレのドアが開けっ放しで、どうも吐いてたみたい。だから飲んだ薬が全部吸収されたわけじゃないんじゃないかな」

「そんな――本当に死んじゃうじゃないですか。ナギさん、死ぬつもりで――」

「ただの自暴自棄だよ」

再び呆れかえった顔で、五十嵐さんが深いため息をつく。

「本当に確実に死にたいと思ってる奴は、洗剤とか飲むよ。あんなのただのヤケっぱちの衝動的自爆だよ。結果として自殺未遂になっただけ。痴話喧嘩だか何だか知らないけど、ほんっと、いい歳して馬鹿じゃないの」

非難の言葉を散々出しておきながら、五十嵐さんの口調は決して冷徹ではなかった。柳さんを見捨てるつもりは全くないらしい。どことなく感じられる『やれやれ、しょうがないな』という響きが、まるで父親もしくは母親のようだった。

「ま、大人だから自分のケツは自分で拭う能力はあったみたいで、ナギちゃんは入院費用も事務的なアレコレも自分で片付けて病院から出てきて、今は三階の自分の部屋で引きこもってるよ」

五十嵐さんが、天井を指さして言った。

「仕事も休んで、いつまでああしてるつもりなのやら」

よっぽどショックなことがあったのだろうか。だとしても、俺にできることなど何も思い当たらなかった。当たり前だ。

「ただいまー」

玄関のドアが開く音が聞こえ、ざくろちゃんの声がした。

「おかえりー」

「お帰りなさい」

俺と五十嵐さんが、廊下に向かって声をかける。

「あれ? ともさん! 来てたんですね。どうしたんですか?」

ざくろちゃんはダウンコートを着て、スーパーの袋を片手に下げていた。食料品などの買い出しに行っていたようだ。首元に、ピンクのポンポンのついたマフラーを巻いている。ざくろちゃんの言葉で、五十嵐さんがハッとする。

「あ、そうそう。ともくんを呼んだ本来の目的を忘れてた。拓海の忘れ形見が出て来たのよ」

「渡すものがあるって言ってましたよね」

「うん。書類がね」

それだけ聞いて、ざくろちゃんはスーパーの袋を持ってキッチンへ消えていった。ざくろちゃんを目だけで見送ってから、一枚の紙を俺に差し出したのは、昴君だった。

「鈴木さん、これなんだけど」

三つ折りにされた、A4サイズの書類。『お取引残高報告書』と書かれている。左上にはこのシェアハウスの住所と『鈴木拓海様』という名前。反対側には大手銀行のロゴが印字されていた。書類の日付は昨年の六月頭ごろ、差し出し人は『さがらSJ信託銀行』。

最近どこかで聞いた名前だった。

田辺さんの勤務先だ。

「これは――」

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