第3話狐面の男
「改めまして、自己紹介。レン・ウスイ、日本人男性だ。趣味はSDS会のことを伝えた相手がビックリするのを見ること。よろしく」
「……ツキ・ハーパー巡査です」
差し出された右手を、私は複雑な気持ちで握り返した。
動いて良い、とはまだ言っていない。そんなことを言えば権威に負けたことになるからだ――より正確には、負けたと認めることになるからだ。
動くなと言えない時点で、私は負けている。
「ノア・クラン巡査部長です、ウスイ調査員」
定年間近の相棒は、寧ろ朗らかな表情を浮かべていた。「ご無礼をお許しください、どうも」
「構わないよ、クラン巡査部長。君たちの勤勉さを称賛したいくらいさ、昨今まれに見る」
声からして、恐らく相手は私と変わらないくらいの年齢だろう。そんな若造相手に老練な警官がへり下る様は、見ていて気持ちの良いものではなかった。
だが、仕方がない。
掴まれたままの右手から、相手の右手に視線を移す。
その細い手首に手錠をかけることは、世界各国どの国の警察にも出来ないことだ――無理に彼らを逮捕すれば、十分以内に私は荷物をまとめる羽目になるだろう。
何故なら、それこそがSDS会だからだ。
鬼才スティーブ・D・スミス氏が一代で築き上げた富は、彼の妄想を具現化するのに充分だった。
世界征服。
幼い頃の夢を、各国政府との金銭的交流をもって具体化した彼は、国境を超越する組織を造り上げた。
SDS会と彼が名付けたその組織は、その名前の質素さを裏切って成長した。各国政府への献金額で常にトップを独走し、ある程度の横暴を、許可されないまでも否定し難い状況を構築した彼らは、様々な特権を有するに至る。
その一例が、漆黒の身分証だ。
それを持つ者は、あらゆる国境を無視できる。
それを持つ者は、あらゆる法を超越できる。
それを持つ者は、あらゆる人権を鼻で笑うことができる。
現代社会における神の権能に近い、
あくまでも噂だが、カードを見せるだけでアジアの独裁国家でバカンスできるらしい――国家元首に酌をさせることも。
空港はフリーパス、銀行は無制限融資。
単なる事務員の月収でさえ、通常の三倍はあるという。特級調査員とやらの収入がどの程度なのか、空恐ろしくて想像さえしたくない。
あと、手を離してほしい。
「これは失礼、美しい巡査さん。あまりに心地好くて、ついつい長居してしまった」
「…………」
そういうことを言うなら、せめてそれらしくして欲しいものだ。
男の声は、これまで同じことを言ってきた男の誰よりも無感情だった。
下心が見えないのは好印象だが、しかし、人間らしさが一切見えないのは、単純に不気味だった。
仮面の奥から覗く黒い瞳が、やけに無機質に思えてくる。顔を覆う仮面のように、人でないような――。
瞬きが、忍び寄る妄想を断ち切った。
「いやいや、重ね重ね失礼したねお嬢さん」
何か、脳天を殴られたような衝撃によろける私を、狐面はそっと支えた。「こう見えて、危険な男なんだ」
さりげなく腰に回された手を振り払うと、私は呻いた。「今のは……なに?」
「僕たちの組織について知っているのなら、その噂についてもご存知だろうね」
私は頷いた。
世界中で好き勝手出来るパスポートを持った集団だ、多かれ少なかれ噂は出てくる。
その中に、一つ。
彼らの目的についての話があった――誰もが知っていて、馬鹿馬鹿しいと笑いながらも、もしかしたらと期待する、そんな与太話。
曰く――SDS会は、世界中のオカルトを集めている。
「君が日本人なら、こう言うところだね――『信じる信じないは、貴女次第です』と」
「超能力ってわけ?」
「流石はアメリカ。イギリスなら魔術と言われるところだよ」
狐面はさも嬉しそうに両手を打ち鳴らした。「まあ、どちらでも構わないがね。君の理解しやすい方を選んでくれ」
心臓が、まだ五月蝿く騒いでいる。
夢の途中で、崖から落ちて目が覚めた時のような、現実への急激な帰還に目眩がして、頭がくらくらする。
だが、さあどうだ、とばかりに両手を広げる狐面の態度が。
面の奥の暗い瞳が、私の何かに火を点けた。
馬鹿にさせるものか、誰にも、こいつにも。
息を吸う。
熱が全身を焼き、絡み付く目障りな何かを追い払う。
息を、吐く。
何もかもが元通り、現実が帰ってくる。
「そうね、じゃあ……
面の奥で、男が驚いたような気がして、私は思わずニヤリと笑った。
私も自己紹介をするべきだった。
ツキ・ハーパー、二十四歳、アメリカ人。
勝ち誇る相手の鼻っ柱を叩き折るのが趣味です、と。
短い金髪の巡査の言葉に、僕は少なからず驚かされた。
軽い暗示だったとはいえ、まさか、力ずくで破られるとは思わなかった。
先天的に暗示の効きづらい人間がいることは知っているし、SDS会がどういうところか知っている人間ならば対策を施すのも解る。
だが――力ずくだと?
僕、雨水蓮は魔術師である。
今は亡き父によると呪術師であり、西洋的な魔術とは異なるらしいが、大枠では変わらない。どちらも現在では、カジノでトランプを飛ばす存在だ。
幸い僕は、世界一有名な企業に就職することができた――才能を生かして。
世の中には、そうならなかった魔術師も多く居る。
彼らは身を立てることができず、さりとて、先祖伝来の才能を捨て去ることもできず、ヒトのように家族を持ち一生を終える。
結果として、何が残るか。
知識を与えられず、才能だけを持ち合わせた魔術師擬きだ。
「……君、えっと、ハーパーだっけ」
「その通りよ、ミスター・フォックス」
「ご両親の名前は――」
最後まで、言えなかった。
彼女の瞳が怒りに染まった、と思った次の瞬間、彼女の手が胸ぐらを掴み、僕の額には銃口が突き付けられていた。
僕は、軽く手を上げた。
「少々踏み込んだ話題だった、撤回するよ」
「自分の間違いを認められる男は嫌いじゃないわ、ミスター・エージェント」
ハーパー巡査は静かに手を離し、ずいぶん大きな拳銃をホルスターに収めた。「今後も注意することね」
僕はため息を吐きながら、心のメモ帳にそっと彼女の名前を書き留めた。
ツキ・G・ハーパー。
調査する必要があるかもしれない。
僕は、傍らの死体に目を向けた。
自覚の無い異常者がもたらすものは、大体が悲劇なのだから。
「……死因は、溺死じゃろうな」
死体を搬送するためワゴン車を待つ間、ノアがポツリと呟いた。
「まあ、そうでしょうね」
見たままだ。水路に顔を突っ込んでいる死体の死因は、大体がそれだ。「誰かが水に顔を突っ込ませたのかしら」
「もしかして僕を疑っているのかもしれないが、残念ながら見当違いだ」
「どうかしらね」
「……解った、僕も君らのような絶滅危惧種の将来を閉ざしたくないから情報を開示しよう。彼は――自殺だ」
「自殺?」私は目を見開いた。
「どういうことですかね、特級調査員殿?」
ノアは不思議そうに狐面を見た。
その手が油断なくジグ・サグエルを握っていることに、私は内心舌を巻いた。権威に従順な警官の振りは、彼の得意技らしい。
伏せた姿勢は服従に見える。だが、飛びかかる準備でもあるのだ。
老警官の欺瞞に気付いているのかどうなのか、仮面は何も語らない。
「簡単なことだ。君らは一つ、見落としているよ巡査部長。君らは、どうしてここに来た?」
「どうって、それは、通報があって……」
「どのような?」
「それは……」
私は記憶を探り、そして気付いた。「男性が一人、興奮状態だって」
ノアが死体を見下ろす。「彼は、大人しく見えるな」
「水を差されたのかもしれないね」
狐面は肩を震わせ、それから、私たち二人を見て、滑ったことに気付いたようだった。
「……僕が着いた時点で、彼は錯乱状態だったよ。周囲に怒鳴り散らしながら、この水路を目指して走っていた。その様子を、誰かが通報したんだろうね」
「アンタは、後を追ったわけね」
「まあ、探し物があってね。彼はそれに近づいていると思ったんだが……近付きすぎたらしい」
狐面は、気だるげに肩を竦めた。「僕が追い付いたとき、彼は水を飲んでいた。死ぬまでね」
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