第2話最初の一文
この世に存在するありとあらゆる物語において最も重要なのは最初の一文であると、今世紀最大のベストセラー作家レウム・R・ドルナツははっきりと断言したが、果たしてそれが真実だとすれば、私、ツキ・G・ハーパーの人生には既に取り返しのつかない失点が刻まれてしまっているといって良いだろう。
アメリカはマサチューセッツ州。州都ボストンから車で六時間山の方へと向かった先。
『あなたの町に必ずあります』でお馴染みディックモールすら出店していない、もしかしてデロリアンにでも乗っただろうかと疑いたくなるほど時代遅れの田舎の村で、私は生まれた。
父はいない。
戸籍上、それから心情的にという意味だ。大天使の導きでそうなったわけではない。
ただ単に私が生まれた時点で、いや、母が私を身ごもった時点で、父は隣にいなかった。政治家の息子で、将来は父親の基盤を受け継ぐことが決まっていた男は、田舎のウェイトレスに手を出した挙げ句逃げ出したのだ。
母は一度も、父への恨み言を口にしなかった。私を育てるために仕事を増やしたときも、その結果ついに病気に倒れた時も、ただ一度も。
だから私も、父に対して恨みはない。
寧ろ私の憎しみは、居なかった父親よりも、母の周囲に存在していた他の人間に対して向けられた。
彼らは父の不在を嗤い、父親がいない私を嗤い父親がいないまま私を生んだ母を嘲笑った。ただいないだけの男なんかよりも、彼らはずっとずっと醜悪だったのだ。
母が安らかな世界へと旅だった時点で、私は村を出た。
少ない荷物と、父親に成らなかった男から送られた娘に成らなかった少女への手紙と金銭、それから、ある誓いだけを持って。
世にも最悪な書き出しで始まった物語の、主役の少女は、幼心にこう誓ったのだ。絶対に、誰にも。
私を、馬鹿になんかさせないと。
「……言いたいことは解ったがね」
「なら黙ってて」
「だからといって、ちいっとばかしあれは、やり過ぎってもんじゃろ」
助手席から聞こえる、どこか間の抜けた調子の声を無視するために、私は強くアクセルを踏み締めた。
法定速度ぎりぎりの加速に、右耳は同乗者のため息を聞き取った。
「別にあれは、お前さんを馬鹿にしとったわけじゃあないじゃろ」
「でも笑った!」
私は叫ぶと、助手席を睨み付けた。
小太りな老人、ノア・【古株の】クランは、自らのすっかり禿げ上がった頭を撫でている。
定年までの三年間を穏やかに過ごそうという意思がこもった小さな目を見詰めながら、私は一音一音区切るように言う。
「私の夢を、いつかニューヨーク市警になるって言った時のハリーのあの顔は、間違いなく馬鹿にしてた」
「じゃが、投げ飛ばされて腰を打つのが当然の報いと言われる程のことじゃあない。そうじゃろう?」
気まずさから、私はノアから視線を逸らす。
老いた相棒の言葉が正しいことくらいは、私にも解っていた。
彼の些細な嘲りは同僚内のコミュニケーションに過ぎず、気にせず受け流す方が、投げ飛ばすよりは社交的と言えるだろう。
「決意は立派だ、立身出世は悪い夢じゃない。だが、そのために同僚に暴力を振るってはならん。そいつは二度とお前に背を預けることはしないし、お前さんの背中を護ってもくれん」
「はいはい先生、解ったわよ」
「ハーパー」
「……悪かったとは、思ってるわよ。本当よ、反省してる。あいつのにやけ面はともかく、腰と腕の筋には悪いことしたわ」
「……ハーパー」
「だって無理なものは無理よ。あの、『俺っていけてるだろ?』っていう顔は。監視カメラとフェイスブックが無かったら、ぶっ飛ばしてるところよ」
「ハリーに悪気はないんじゃろうがなあ。それこそ、ニューヨークとツキに挟まれたんだな」
「そのまま潰れれば良い。悪いけど、興味ないわね」
バックミラーを軽く傾け、私は私と向かい合った。
目鼻立ちは整っている、と思う。
短めに切り揃えた金髪、男性物のレザージャケット、その下のスレンダーな体型と組み合わさって中性的な魅力を醸し出している。ティルダ・スウィントンとまでは言わないが、ちょっとしたモデルくらいは務められるのではなかろうか。
良い女だとは、我ながら思う――スカイブルーの瞳に、ナイフを思わせる鋭すぎる不機嫌さがギラギラと輝いていなければ、だが。
インタビューで『いいえぇ、特別な手入れなんて、なんにもしてませえん』なんて答える女性を嫌っている私は、そう答えなくて済むようには見た目に気を配っている。
だがそれは、隙を見せないためだ。
仕事ばかりと言い訳することも後ろ指差されることもないように、そう、誰にも文句を言わせないためだ。断じて、男なんかに見せるためじゃあ、ない。
「私は誰より優れた人間になるのよ、ノア。片田舎の『呪われた村』から始まって二十四年。このクラムボン市の、誰もが名前さえ聞いたこと無いような大学を出て、ようやくちょっとは栄えた都市の市警にまで成れた。憧れのニューヨークまであと少しよ」
「その心がけは立派だとは思うがの、ハーパー。あんまり野心を剥き出しにするのはどうかと思う」
「何でよ」
「昼飯を一人寂しく食うことになる」
私は眉を寄せながら、助手席の様子を窺った。
老人は窓枠に肘を突きながら、勢い良く流れていく景色を眺めているように見える――そうじゃないかも、しれない。
クラン巡査部長がかつて、クラムボン市警で最も苛烈な正義の執行者であったことは誰もが知っている。その捜査活動の末、ギャングの報復で自身の妻、息子夫婦と二歳の孫全てを殺されたことも。
今や天涯孤独の身となった彼が言う『昼飯を一人で食うことになる』という言葉は、冗談なのかどうか。
少なくとも、笑いづらい。
『……リッケルクロウ公園で事件発生』
先ほどとは毛色の違う気まずさに支配されかけた車内に、微かなノイズに続いて無線が入った。
『男性一名、興奮状態。付近の車は急行してください』
「こちらハーパー、了解しました」
「やれやれ。一人でなくとも、飯を食う時間は無さそうだのう」
「食べてても良いわよ、吐かないならね」
返事を待たず、私はハンドルを急激に切る。
盛大なクラクションを置き去りに。そんなものに構う暇はない。
目指すはリッケルクロウ公園、待ってて私の手柄ちゃん。
しかし待っていたのは面倒事だった。
「いやあ、なるほどなるほど。これはまたずいぶんだ」
リッケルクロウ公園には、クラムボン市全市民の憩いの場となるという野望がある。
その武器として、公園の中央には大きな池がある。ラドス山麓の湖から海へと流れ、その途中で市を潤すクラン川、その二者の関係を訪れる全ての人に知って貰うべく、人工的な池と水路を作っているのである。
水路があれば、当然橋もある。
年代物の石橋が、公園内の水路に点在している。
それぞれに通りの名前が付けられているのだが、誰も『古い橋』以外の呼び方をすることはない。
橋の脇にはこれまた年代を感じさせる苔むした階段がある。
滑らないよう注意することが欠かせないが、この階段は誰でも自由に降りることが出来て、水路の側に近付くことが出来る。
水へと親しみをもたせ、その結果として市自体にも親近感を抱かせようという市長の試みは、特に夏場には多くの市民の賛同を得たが、今回は真逆の評価を得ることになるだろう。
水路の畔で、一人の不審者が片膝をつき、もう一人の様子を窺っていた。
もう一人は地面に倒れ伏し、そして、顔面を水路の中へと突っ込んでいる。
「…………」
私は、ノアにそっと合図を送る。
老人は頷くと、橋の反対側に音もなく移動していく。
水路を挟んだ反対の岸、その階段上に相棒が到達したのを見て、私は頷いた。
それから、ゆっくりと石段に足を掛ける。
滑らないように、音を立てないように、慎重に慎重に、不審者へと近付いていく。
不審者は、私たちの接近に気付いていないようだ。腕を組み、悩むような仕草を見せる。
「さてどうするか……」
「市民の義務としては」
十分な距離に達してから、私は声をかけた。「死体を見付けたなら通報するべきよ。死体を作ったなら、尚更ね」
不審者は顔を上げた。
「
かちゃり、という音に、不審者は振り返った。水路の向こうでジグ・サグエルを構えるノアが、片手を軽く振っている。
「アンタがキアヌ・リーブスでも」
私は出来るだけ軽妙な口調で呼び掛けた。「ここは、手を挙げるシーンだと思うけど?」
「そしてアンタはガブリエルか」
不審者は意外な台詞を吐いた。「マトリックスより、僕はそっちが好きだけれどね」
「……趣味が合うわね」
「それは良いね。どう、僕のホテルでディナーでも?」
「誘うなら面と向かってするべきじゃない?」
笑い声、不審者は肩を震わせている。どうやら、笑ったらしい。「面と向かい合ってはいるだろう?」
「良いからさっさと手を挙げなさい
そう。
私が初対面で相手を不審者と断じたのには、理由がある。
それは、単に外見だ。
誤解を生む前に言っておくけれど、私は差別論者じゃない。肌の色は勿論、顔が厳ついから犯罪者だとか、そうした偏見をもって捜査をするつもりはけしてないのだ。
だから私がそいつを不審者だと判断した理由は、外見は外見でも各人の努力や主義主張でどうにかなる部分。服装だ。
スーツに革靴というのは、まあいい。
昼下がりの公園には似合わなくてもたまに見掛ける。あまり長いことうろうろしていたら怪しいが、ただ居合わせるだけなら散歩とかランチとか、常識的な理由は幾らでも見付けられる。
だが――その上に羽織を着込んでいるのはどう見てもおかしい。
確か
いずれにしろ、青い生地に馬や鳥、蝶などの動物が金の刺繍で描かれている、日本人さえ今では滅多に着ない伝統衣装をスーツの上からまるでトレンチコートのように羽織っている姿は、死体の傍らでなくとも、怪しい。
だがまあ、それも決め手とは言い難い、かもしれない。
服装は個人の自由だ。時と場合と場所にそぐう物でさえあれば、何を着ようと文句を言われる筋合いはない、かもしれないが。
その顔は、文句なくアウトだ。
しゃがみこんで私を見上げるその顔は――奇妙な仮面で覆われていたのだ。
白い狐、だろうか。
害獣の代表格みたいなふてぶてしい顔を、切れ長細目のアニメ調にデフォルメしている。
素材は、どうも紙に見える――目元や頬に描かれた、朱色の渦みたいな模様を見るに、どうも東洋の仮面らしい。
着物と合わせて考えるのなら、まあ、日本製ということだろう。
「英語は解るわね?」
「んー、今ここで『
「オーケー、おふざけがしたいなら専門の場所を用意してあげるから、そこで一晩頭を冷やしなさい」
「それは困るな」
「バカなことはしない方が身のためよ」
グリップに右手を掛けながら、私は仮面男を睨み付けた。「日本では、狐は賢いんでしょう? けど、こっちでは畑荒しだから」
男はそろそろと手を上げた。仮面を外す、様子はない。「理由があるんだ、勤勉な刑事さん。僕がそうしない理由が一つ。そして、君がそうできない理由が、もう一つ」
「動かないで」
私は銃を抜いた。男が、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。「聞こえたし、理解できたでしょう、動くな!」
「落ち着けお嬢さん。理由の一つを見せてやろうというだけさ」
両手を高く上げたまま男は立ち上がった。
しゃらん、という涼やかな音が響く。ベルトに、小さな鈴が縫い付けられているようだった。
男は視線で、ズボンのポケットを示した。
「
男が左手をゆらゆらと揺らした。「取り出しても、構わないかな?」
「……良いわ、ただし、ゆっくりとね」
私は銃を両手で構えた。右手の親指で、安全装置を外す。「私は臆病なの」
男の指が芋虫のようにゆっくりズボンに這い、分厚い黒革の財布を取り出した。
片手で器用に開くと、一枚のカードを取り出す。
男はそれを、マジシャンのように指だけで投げて来た。
ガンビットのように、とは行かなかった。カードはふらふらと不安定に飛び、私の足元に落ちた。「……ふざけないで、撃つところだったわ」私は銃口を男に向けたまま、そっとひざまずいた。
硬質な素材の、カードだった。
艶のある漆黒のそれに刻まれた特徴的なマークに、私は思わず息を飲んだ。
ピラミッドのような三角形に、アルファベットが三つ。S、D、そしてS。
世界一有名で、世界一手広く活動する、各国の政府機関にも顔が利くという神出鬼没の奇妙な財団。
私の驚きを見透かして、楽しむように、男は仮面の奥からくぐもった笑い声をこぼした。
「レン・ウスイ特級調査員。僕は――SDS会の者だ」
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