SDSーfile
レライエ
第1話事例報告書(水葬)
3、6、3、4、6、6。
蛍のように仄かに光る端末の上を、壁に設置された白衣を着た青年の指が慣れた様子でリズミカルに踊る。
打ち込まれる六桁の暗証番号を視界の端に収めながら、僕はドアの覗き窓から室内の様子を確認する。
内側にワイヤが入った、至近距離からの銃撃を受けても耐えきれる分厚い防弾ガラスの向こうは、当然ながら消灯済みだ。
午後十時、電気を全て切られた暗闇だが――どうしてだろうか、僕は彼が起きていると直感した。
「開きます……患者を興奮状態にさせないよう、良いですね?」
「勿論だ」
僕は、なるべく気軽く見えるよう頷いた。「こう見えて、僕は博士号を持っている。人の、特に彼のような特殊な状態の者の心理なら任せてくれ」
僕の保証は、多くの場合と同様に、青年を笑わせる効果を発揮した。
いや、それだけではないか。
青年の不健康そうな顔に浮かんだのは、疲労の混じった嘲笑だ。
「……皆、最初はそう言うんですよ。けど、そう上手くは行かない――人は皆違う、人の狂気も人それぞれだ。何人分の狂気を読んできたか知りませんけど、彼の狂気がその枠に当てはまるとは限りません」
さあ、と青年がドアを開ける。
「彼の世界にようこそ」
室内は、僕が入ると同時に明るくなった。
読書には向かないぼんやりとした明かりではあるが、それでも暗闇よりは格段に良い。
「……起きているかな、収容番号1062号」
僕の言葉に、部屋にある唯一の家具、ベッドの上で毛布がもぞもぞと動いた。
「1062号」
「……スケジュールによれば」
声と共に、毛布がゆっくりと起き上がり、ベッドの上に腰かけた。「俺はもう、寝てる時間な筈だぜ? 俺のスケジュールを管理してんのは、さて、誰だったかな?」
幽霊が腰掛けているような彼の姿に、僕は笑みを浮かべた。「気を悪くしたのならすまない、何しろ自由の国だ。君の自由意思での協力を願いたくてね」
「はん」
「それは『イエス』を意味する君の生まれ故郷独特の表現か何かかな?」
「あんたらのお高い辞書には載ってないのかもしれないが、こいつは『黙れくそったれ』って意味だよ……あ?」
何やら驚いたように、毛布が身を乗り出した。
どうしたのだろう、と思って直ぐ、僕は成る程と気が付いた。
部屋の電灯は、瞳にダメージを与えないようゆっくりと時間をかけて明るくなる仕様らしい。彼との愉快な会話の間に明かりは平均並みに明るくなり、結果、彼は僕の姿を漸く直視することが出来たのだろう。
僕の、顔を。
「白衣連中じゃあ、ねえのか……?」
「僕のこれは恐らくスーツと皆呼ぶんじゃないかな。あ、上に着ているこれは羽織だが」
「っつうか、何だよその顔は。ふざけてんのか?」
「……他人の顔にケチを付ける程度には、品があるようだね。それとも、『初めまして、お会いできて光栄です』という意味だったかな? あいにくと、英語とアメリカ流マナーには詳しくなくてね」
「オーケー、ふざけてるんだな」
「僕はSDS会の者だ」
どすん、という小気味の良い音と共に、彼はベッドから落ちた。
彼の対応に、僕は充足感を抱いた――この肩書きの最も偉大な点は、見ず知らずの人間のリアクションを楽しめるということだ。
しかし、これまでに何度も他人を驚かせてきたが、彼のリアクションは実に見事だった。まさかベッドから転がり落ちるなんて。
彼の才能は留まるところを知らなかった。
背中を床に打ち付けながらも果敢に起き上がろうとした1062号は、毛布に足を取られて再度背中からダイブすることになった。
呻きながら芋虫のように転がる彼の様子は、僕の記憶する限りまさしくナンバー・ワンだ。
「あー、大丈夫かい、1062号」
「くそ、くそ、くそ……マジかよ……」
「その様子なら、僕は期待できるかな。君の自発的な協力ってやつを」
「……あんたがマジで例の、オカルト財団だってんなら。断ったってどうしようもないんだろ?」
毛布を剥ぎ取った男は、ぼさぼさの髪を更にかきむしりながらため息を吐いた。「けど、ひとつ条件がある」
「条件?」
1062号はベッドに腰掛け直すと、髭と髪の間からぎょろりとした目を僕に向けた。
思いの外綺麗な碧眼には、ここには不似合いな誠実さが泡のように浮かんで、弾けて消えた。
残ったのは、お似合いのもの。
狂気。
「水を、くれないか?」
「さて、ではインタビューを始めようか」
「おいおい、話が違うぜ?」
1062号の言葉に、僕は首を傾げる。
「どういう意味だい、1062号。僕は君に話を聞きたいと持ちかけ、君は代わりに水を頼んだ。だからこうして、一先ずは一杯、水を用意した」
僕はコップを指で弾いた。金属音と共に波紋が生まれる水面には、一切薬品を入れたりはしていない。「そもそも、君の収容生活において、水の使用を殊更制限したことはない筈だが」
「あー、そいつは確かに。俺の言葉足らずだったな、俺は、水道水を要求した訳じゃないんだ。そうじゃなくて、俺がいつも飲んでるミネラルウォーターがあるんだ。BB社の青いラベルのやつだ、それを差し入れて欲しい」
僕は頷いた。
僕自身も良く水を飲む方だが、こだわりを持つ気持ちは解る――まあ、僕は水なら何でも良い方ではあるが。
「確か、ここアメリカでは有名なメーカーだね。警備の問題もあるからボトルをそのまま、というわけにはいかないだろうが、善処するよ」
僕の言葉に、1062号は安心したように深々と座り直した。オレンジ色の作業衣が、白づくめの部屋で毒々しく輝いている。
「なるべく早く頼むぜ。ここの水と来たらそりゃあもうひどいもんだし、その水を使ってるせいかな、料理まで味気ないんだ」
「それで、話を聞かせてもらえるかな」
「あぁ、本当なら取引は品物見てからだが、アンタを信頼するよ」
「それは、どうも」
室内には、ベッドの他に家具はない。
床に座るわけにもいかず、僕はコップを手に持ったまま、ドアの脇の壁にもたれかかった。
「とはいえ、大した話じゃあないけどな。……ここんとこ、俺は夢を見てた。海の夢、だと思う、もしかしたら湖とかかもしれないけど、たぶん海だと思う」
手身近には済みそうにない。
僕はコップを見つめた。不味いと評される水をわざわざ飲みたいとは思えない。
彼は、僕の態度に気を使うことなく、話を始めた――実に、望むところだ。
「ほら、夢って味とかしないだろ? 大量の水に囲まれる場所っていうのは海か湖だろうけど、どっちかなんてわかんねぇ。だからまあ、何となく、俺はいつも海だと思ってたよ」
「夢は君の認識を中心に動く、君がそう思うのなら、きっとそこは海なんだろう」
「あぁ。いつも同じ夢なんだよ。どこまでも拡がる海で、俺はずっと泳いでる」
「どこかへ、向かっているのかな?」
「うーん、いや、あ、向かってたのか? 泳ぐのが楽しくて特に意識してなかったけど、確かにどっか行く途中だった気もするな。はは、流石は専門家だ、そんなこと俺、一回も考えたことなかったぜ」
1062号が過剰に喜ぶのを、僕は退屈に眺めた。些細なことで過剰反応するのは、彼ら独特の特性だ。
とにかく、僕は話を促す。
「目的としては、そう強いものではない?」
「まあな。元々は強く願っていたのかもしれないけど、海にでちまうとほとんど忘れてたよ」
「それほど、泳ぐのは楽しかったのか。君、泳ぐのは好きだったのかな?」
「うーん、そうでもない、かな。泳ぐ機会もあんま無かったし、どっちかと言えば、水は得意じゃなかったな」
「夢の中だけの感覚ということかな」
「そうだな――こっちの水は、違うから」
また水か。
彼の世界は、それがキーワードらしい。
「夢の世界の水はさ、なんつうか、柔らかいし温かいし。すげえ上等な布団にくるまった時みてぇな、気持ち良い感じ。沈み込みたくなる、例え眠くなくても、何か予定があったとしても、ずっとそこに居たくなるような感覚だよ」
「それは、余程気持ちが良いんだろうね」
「あんたみたいなイイコちゃんは寝坊してサボったりしねぇんだろうがな。俺みたいなやつは、ちょっと気分が乗らねぇってだけでサボったりしたもんだ。
あ、とはいえ、この夢は違うぜ? 『どこかに行きたくない』じゃない、『ここに居たい』って思いが強いんだ。
ずっとこの水に浸ってたい、ここに居られるんなら何だってする、そんな気分だよ」
何だって、か。
話の確信は、近いようだ。静かに身構える僕に気付く気配もなく、1062号は話を続ける。
「俺はその気持ち良い海を泳いでる。ずっと、ずっとな。けど、だんだん辛くなる」
「辛く?」
「海っていったら、そりゃ夏だろ? 日差しだよ、日差し。水に浸ってると涼しいんだけどさ、外に出てる部分、背中とか、頭とか……そういうところがどんどんどんどん暑くなってきてよ。だから――俺は潜った。
深く、深く、ずっとずっと深いところへ。とにかくあのくそったれの太陽から離れたくてな。
辺りはどんどん暗くなって、水は冷たくなっていったけどよ、俺は全然平気だった。なんとも思わないっていうか、これが自然なんだって感じてたな。息が吸えないこともなかったし、地上にいるのと変わんない感じだったよ。気持ち良かったのに、あぁ、くそっ!!」
「……興奮するな、あまり騒ぐと、警備を呼ぶことになる。そうすると、君の境遇には良くない変化が起きるだろう」
「解ってる、解ってるよ。あはは、俺があんたに何かするわけないだろ? 何せ、あんたは約束してくれた。そうだろ? ミネラルウォーター、解ってるだろ? だから大丈夫、大丈夫だ」
「……解っているのなら結構」
「けど、ムカつくんだよ。せっかく気持ち良く夢を見てたってのに、何度も何度も邪魔しやがって……スマホのアラーム、馬鹿みたいに鳴りまくってよ」
「だから、スマートフォンを壁に投げつけたのか?」
「あぁ、煩くてな」
「次は、ドアチャイムだったね。君はコードを引き抜いた」
「あぁ、煩くてな」
「当然、ドアが鳴った。仕事に来ない君を心配して、同僚が訪ねてきたわけだ」
「あぁ、煩くてな。最悪だったぜ、ドンドンドンドン! 耳元で叫んでるみたいに喧しかった。なあ、先生、俺はろくでなしさ、金もねえ、学もねえ俺の人生で、最も幸せな時間だったんだよ。それを邪魔されたらあんた、どうするよ?」
「君はどうしたんだ?」
「そうだな、俺の手元にはショットガンがあった。手入れはしてあったし、弾もバッチリ。おあつらえ向きさ」
「そうして、ここに来ることになったわけだ」
「俺はドアを黙らせたかっただけだ。……後悔してるかって、聞かないのか? 後悔してるぜ、すげえしてる。なにしろここじゃあ、夢を見ないんだ。水が悪いんだ、間違いない。
なあ、俺は夢を見たいんだ。誰にも迷惑をかけるつもりはない、あの夢を、あの海を、ただずっと泳いでいられたら、それだけで良いんだ。頼むよ、水を……」
すがるような彼の視線を受けながら、僕は決意していた。
彼には水を与えるべきではない――夢を見させるべきでも、ないだろう。プラゾシンか、レボメプロマジンか、服用を欠かさないようにする必要がある。
他の数人と同じように。
「……ありがとう、1062号。君の要望に関しては確かに申し伝えるよ。君の方も、大人しくしてくれよ?」
「あぁ。……アンタの顔を立てるつもりでな?」
僕は頬を撫でた。
瑞々しい肉の感触、ではなく、張り子のざらりとした手応えが返ってくる。
僕は仮面を被っている――一般的な人間の二面性に関する話じゃあない。
そのものずばり、白狐の仮面を。
「君が、この裏を覗きたがらなくて良かったよ」
「んだよ、聞いたら外してくれたのか?」
「そうしたら」
僕は、誰にも見られることの無い微笑みを浮かべた。「君は死ぬ」
彼の返事を待つことなく、僕は部屋を辞した。
彼は直ぐに、眠りに就くだろう。そして目覚めたとき、僕のことを夢だと思うことだろう。
それが彼のためだ。
彼には――夢が必要なのだから。
「そして僕には、指針が必要だが――ふむ」
手元に地図を広げ、僕は頷いた。
アメリカ。
中央の山、そこに程近い町、その隣町、そしてその隣町と続く赤い丸印。
新たに加えた一つを含めた、全ての円を繋ぎ、僕は、その予想される進路を呟いた。
「マサチューセッツ州、か……」
目的地は決まった。
僕の目的地、そして恐らく――1063号の発生地点となるであろうその町の名は。
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