エシャルファ

*本文*

実に冷えた夜のことだった。

私は狭い部屋で一人、体を震わせ縮こまっている。

風の音すらも響かない、静寂というのもがこの上なく相応しい夜だった。

眠ろうと努めるが眠れない。

睡魔が隣へやってきて、この首筋をちくりを刺してくれたなら、どんなに楽だっただろうか。

ところが、どれだけ待とうとその声は聞こえてこない。

私はいつになったら眠ることができるのだろう。

そう思いながら薄目を開けたときだった。

暗がりの中に何かがある。

周囲よりもずっと暗い何かが、タイル張りの床に居座っているのだ。

これは何かと私は顔を近づけた。

なるほどこれは穴だ。

真っ黒でぽっかりとした穴だ。

それは手を入れるには小さすぎ、鉛筆を入れるには大きすぎるほどのサイズだった。

はて、こんなところに穴はあったか。

辿れるだけ辿ってみても、他の夜にこれを見た記憶はない。

ならこれは今日にできたものだろうか。

いや、さっきまではなかった。

ならこれは、たった今できたものだろう。

不可解。

それから私は深さが気になった。

指を何本か入れてみるが、底にはとても届かない。

なら、何か落としてみよう。

そう思い、手元の果物ナイフを穴へと入れた。

音もなく、一瞬でそれは闇へと消える。

けれど、どれだけ待っても音は響かない。

それほどまでに深い穴が、こんなところにあるだろうか。

疑問は募る。

ナイフが底へと着いた音を聞き逃すまい。

そう穴に近ずけていた私の耳に、何やらぼそぼそとした声が入った。

声。

人の声のようだ。

より深く耳を澄まそうと、目を閉じじっと意識を集中する。

そうして改めて声を聞いて驚いた。

この声は、おっかあのものではないか!

「おっかあ?」

「おっかあはそこにいるの?」

私は問うて、また耳を澄ます。

声の主が分かると、さっきよりもはっきりと聞こえるようになった。

「ワタシハ……ノドガ……カワキマシタ」

枯れた声。

辛さを堪えて、なんとか伝えようとしているのがわかった。

「おっかあは喉が渇いたんだね!私が水を持っていくから、少しのあいだ待っていてね!」

言って、私はあたりを見回した。

水道はあるけれど、水を溜める入れ物がない。

これでは水をあげられない。

少し頭を捻って考えて、水を口に含むことにした。

私は蛇口に駆け寄り、バルブを捻る。

水道管は唸るような音をたて、しばらくして蛇口から液体が流れた。

それは水ではなかった。

石油のような真っ黒で濁った、ベタつきのある液体だった。

あぁ、これではいけない。

母に水をあげられない。

私はバルブを閉め、また穴へと駆け寄った。

「おっかあ、水道はだめだったよ」

申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、私はそれを報告した。

「ノドガカワイタ。ノドガ……」

母の乾きを満たさねば。

何か方法はないかと立ち上がり、足に何かがあたったことに気がついた。

さっきまでは何も無かったなずなのに。

なんだろうとそれを手に取り、指にするどい痛みが走った。

それは果物ナイフだった。

私が落としたはずのそれが、手元にあった。

切れた指から血が滲み、私は母を潤す方法を思いついた。

そうだ。

水ならあるではないか。

私がたくさん持っている。

私は手首を穴の上に持っていき、筋へ向けて思い切り刃を突き刺した。

抉るように引き裂き、血管をズタズタにしたことを確認する。

血がこぼれた。

止めどなく流れ出て、母の待つ穴の中へと消えていった。

悶えるような痛みと激しい悪寒に耐えていると、そのうち血は流れなくなった。

ぼーっとする頭で、聞いておかなければならないことを聞こうと、私は穴へと顔を寄せる。

必死に声を絞り私は言った。

「満足できましたか?」

返事を聞き逃すまいと耳を澄ますも、それは一向に帰ってこない。

怖々と私は目を開ける。

すると、得体の知れない何かが勢いよく私の首を掴んだ。

骨が折れるような音がして、私の視界は明後日への方向へと飛翔する。

意識までが飛ぶのを必死に耐えていると、私は不思議な感覚に気がついた。

それは安心感だった。

例えるのなら、四方の壁が自分の体へと詰め寄り、全身が潰されるその寸前。

その一瞬に満たされるような心地良さだ。

それは確かに閉塞的であり、一切の身動きを封じられた恐ろしい時間だろう。

しかし、体をたじろがせるための隙間すらもないのだ。

そこに他者が入り込む余裕などどこにもない。

つまりその瞬間、私は完全な一人を得られたのだ。

完全な一人というのは孤独とも思われるだろうが、それは違う。

孤独や孤立というものは、幾人もの人が行き交える中で、それでも一人だから生まれるもの。

孤独は他者を認めなければ成り立たない。

故にただ完全に一人でしかいられない空間では、孤独は有り得ないのだ。

完全であるというのは満たされないものや求めるものがなくなったということに他ならない。

だからこそ、私は安心に至った。

首を掴まれた一瞬で安心感にたどり着いた私は、自分が完全なのだと気がついたというわけだった。

薄れゆく意識の中で、横たわる私の目に蛇口が映る。

先程流れ出たのは、もしかしたら私の血だったのではなかろうか。

そう思うと、なんだか可笑しくて、笑いがこみ上げてくる。

満たされ、愉快な思いで、私はようやく眠りについた。

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エシャルファ @tokura0makura

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