4.自分勝手

 ヴィーヨヴィヴィっと、また正体不明の鳥が鳴いている。そしてセミたちがとても静かだ。

あれから私は水樹に手を引かれたまま、案の定というかなんというか、ここ、秘密のベンチに連れてこられた。内心、彼がここに訪れてしまわないかどうかひやひやしている。でも水樹はそんな私とは対照的になんだかとてもうきうきしてしまっているし、今更彼女の気持ちを盛り下げてしまうわけにもいかない。それにいま水樹に彼のことを話す気は全くなかった。このことは、しっかりと自分一人だけで考えていかなければならないことような気がしていた。

「あっついなあ!晴れすぎだよ!」

水樹が理不尽な文句を空に向かって叫び、小さなてのひらでパタパタと顔を扇ぎ始める。私は彼女のその手に無意識に蝶を探すけれど、その健康的で艶のある小麦色に焼けた手に、蝶なんているはずもなかった。

「はあ~あ、暑いし破局するしで散々だわ。もう、食べまくっちゃお。とことん」

水樹が大量にお菓子の入ったビニール袋から通常よりでかいサイズのポテチを取り出してバリっと開け、お昼ごはんを持ってきていない私に気付いたのかハムときゅうりのサンドウィッチを飼育員が動物に餌をあげるときみたいにぽいっと手渡してきた。ありがとうとお礼を言ってさっそく食べはじめようとするけれど、なんだか手が動かない。水樹の前だからだろうか。また彼女のことをつらい思いにさせてしまうのがいやだなあと思っているからかもしれない。

そんな風にサンドウィッチを手に持ちながら固まっていると、水樹がきょとんと不思議そうな顔をして「食べれば?」と言ってきた。たぶん彼女は前に自分が言ったことを忘れてしまったのだろう。私はなんだかすっかり気が抜けて、彼女の薦める通り、サンドウィッチをもそりと口に入れた。もぐもぐと咀嚼して飲み込むと、いつも通り涙が私の目からぼろりぼろりとこぼれ始めた。いや、彼から言わせてみれば、泣きはじめた、ということなんだろうか。

「ねえ水樹、どうして別れちゃったの?前にすごくいい人だって、言ってたじゃない」

「んー…いい人だと、思ってたんだけどねえ」

「振られちゃったの?」

「ちがう。振った」

水樹がポテチをバリバリとかみ砕きながら、見るからに元気をなくして答える。

「え!そうなの?な、なんで?」

さっきまでの不機嫌な様子からしててっきり水樹の方が振られたと思っていたので、ちょっと驚いた。水樹はポテチをまたバリっとかみ砕いて、短い時間の間に怒ったりはしゃいだりした疲れが急にきたのかふうと長い息をついてから淡々と答え始める。

「なんか、優しさが全部嘘に思えちゃって。嘘っていうか、すごい自分勝手なものに思えちゃってさ」

「どういうこと?」

水樹がビニール袋からカルパスを取り出して、手で握ったり摘まんだりしながら答える。

「彼、私のことを絶対に肯定してくれたの。君は悪くない、君は優しい、君には真心がある、とかさ。嬉しかったし、酔いしれた。ああ、この人は自分のことをちゃんと見てる、ちゃんと分かってくれてるんだなあって。…でも別れる前彼と口論になったときに気づいたの。彼が私にしてきてくれたことは、全部彼のそうであってほしいっていう思いからきてるんだって。君は優しい君には真心があるなんていうのは、全部彼の願望なんだって。そしてそれは私も同じで、私のことをちゃんと見てくれている分かってくれているなんていうのも、全部私の願望だったんだなって、気づいちゃったの。ああ、優しさっていうのはすごく自分勝手なものなんだなって、気づいちゃって」

カルパスのキャンディみたいな包みをくるくるくるくるとねじりながら、すごく淋しそうに水樹が言う。いつものあっけらかんとした彼女とはうってかわって、今の彼女はなんだか途方に暮れた迷子の女の子みたいだった。

「…そんなの、みんな知ってて誰かを好きになるはずなのにね。自分勝手な自分を棚上げして、いろんな人を傷つけて、それを全部人のせいにして、一人で怒って。サイテーだね、あたし。あたし、今まで何してたんだろね。ばかみたい」

水樹はそう言って、すごく疲れた顔で笑った。そしてようやくカルパスを一つぽーいと口に入れ込んでむしゃむしゃと、大げさな、やけくそな感じで食べはじめた。

 水樹がこんなに深刻に悩んでいる姿を見るのは初めてで、私はちょっと動揺し、彼女のことをかわいそうに思った。たくさんの男の人と交際してきた彼女は結局、一番欲しかったものを手に入れることができなかったのだ。本当の自分を見てほしいという少女みたいにわがままで残酷な欲を、かなえることができなかったのだ。

「自分勝手な優しさ」彼女がそう言ったとき、正直あまりピンとこなかった。だってあまりに当たり前のことすぎて、私には水樹がそのせいで苦しんでいるということが理解できなかった。蝶の彼も同じなんだろうか。彼も水樹と同じように、優しさは自分勝手なものじゃないと信じているんだろうか。

そんなことを考えながらふと水樹に視線を向けると、二個目のカルパスをむしゃむしゃと大げさに咀嚼している最中だった。もみの木を見つめながらぼーっと命を食べている彼女の姿を見て、私はあの時の彼の言葉を必然的に思い出す。

彼女は今、特に何も考えずにカルパスを食べている。そして私はそれを別に悪いことだとは思わない。だってカルパスに含まれてる牛だか豚だかはもうすでに死んでしまっているし、感謝とかごめんとかを思いながら食べたって彼らはもう蘇ったりしない。食べてしまっている時点で、私たちは等しく自分勝手でサイテーなのだ。この世界はそんなどうしようもない自分勝手で溢れている。

彼は、それを知っているんだろうか。知っているうえで殺された命にひとり祈りをささげているのなら、それはとてもつらくて寂しいことだろうなと思う。ああ、だから彼はあのとき私に「安心」と言ったのか。後ろめたさと申し訳なさにさいなまれ、独りぼっちの悲しみに暮れているとき、涙を流す私に出会った。彼は心から嬉しく安心したはずなのに、いざそれを私に伝えたら急に姿を消してしまった。いくら自分が混乱して恐れていたとはいえ、それはあまりに自分勝手でサイテーすぎる行動だなと今更思って、彼に対してすごく申し訳ない気持ちになった。

「ねえ、ひばり。ひばりはさ、どう思う?あたし、ばかみたい?」

ぼんやり黙っている私を不思議に思ったのか、水樹がこちらを覗き込むようにして聞いてくる。私はハッとして

「ううん、そんなこと、思うわけない。水樹にサイテーなところなんて一つもないよ」

と答えた。

それを聞いた水樹はにしっといたずらっ子みたいに笑って「そうかあ」と、それだけ言った。水樹は私が本心で言っていないということに気づいていて、私はそれに気づいていないふりをしている。なんだかお互い自分の心の内を暴かれないようにへたくそなかくれんぼをしているみたいで、私たちは本当にどこまでも、果てなんてないぐらい勝手なんだなあと思った。


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