3.逃避

あれから一週間が経って、街中で鳴くセミたちが入れ替わって、私は一度も、あのベンチに立ち寄っていない。

それはつまり、あの優しくて変わり者の彼に一週間会っていないということだ。

なぜかと言われれば、怖かったからだ。気が引けている。彼にとって私の涙は言わば命の象徴であり、この世界はまだ大丈夫だと思わせてくれる一種の希望であるということを知ってしまって、気が引けているのだ。私の涙にそんな大それた意味も殺された命に並べられるほどの価値もないと知ったとき、彼はいったいどんな顔をするだろうか。あの柔和な笑みが、世界のすべてを許してしまいそうなあのヴェールのように柔らかい笑みが消え去ってしまう。それはとても怖く、許されないことのような気がした。

だから私は決めたのだ。ちゃんと自分でこの涙の意味を見つけられるまで、もう彼には会わないでおこうと。なんだか彼から温かい意味だけをもらい逃げしてしまったみたいで少し後ろめたいけれど、でも、今の私にはこうすることしかできなかった。


午前の講義が終わり、今日一日の大学での予定もなくなる。ぐい~っと伸びをして、今日もお昼は家に帰ってから食べようかななんて考えていると、ちょっとすごい形相をした、近寄りがたすぎるオーラを出しまくっている水樹がいつもよりも数段低い声で話しかけてきた。

「ひばりぃ~、男ってやつはさぁ、何でああもひどい奴らばっかなんだろうね?みんながみんな自分と同じ考えを持ってるって、本当にそうだって、思ってんのかなぁ」

「ど、どうしたの水樹。酔ってるみたい」

尋常じゃないぐらい不機嫌になっている水樹に戸惑いながら、なるべく神経を逆なでしないよう慎重に尋ねる。すると水樹は口をつーんととんがらせて、眉間に朽木みたいなしわを寄せて

「…別れた」

と、それだけ答えた。

「はあ~あ、今回は結構、いい感じだと思ってたんだけどなあ~…ちっ」

水樹は今までたくさんの、本当にたくさんの人と交際してきていて、そのたんびに「冷めた」とか「なんか思ってたのと違う」とか言って相手を振ったり相手に振られたりを繰り返していた。けれどそうやって別れた後も彼女は大抵ケロッとしていて、未練とかいう言葉とは無縁なさっぱりとした感じでさあ次さあ次とまるでわんこそばみたいに男の人とばかばか付き合いまくっていた。だから、ちょっと驚いた。男の人と別れることでこんなに不機嫌になる水樹は初めて見た。よっぽどいい相手だったんだろうな。でも、それなら何で別れてしまったんだろう。水樹の方が振られたということなんだろうか。

そんな本人に聞かなくちゃ分からないようなことをぼんやりぐるぐると考えていると、目の前にいる水樹がふと口を開いた。

「…そういえば、例の彼とはどうなってるわけ?ランチの彼とはいい感じなの?」

眉間にしわを寄せたまま、ぎっとミミズクみたいに鋭い目をして彼女が聞いてくる。急に話題が変わりしかもそれがたったいまちょうど悩んでいることだったので、私は動揺して黒目だけをきょろきょろとさせながら

「え?えっと、う~ん…そうだなあ…。何事も、なかなかうまく、いかないね」

と、困った笑みを浮かべてそう言った。

すると水樹は急にかっと目を見開いて、その小さな口をチェシャ猫みたいににしっとゆがませ、ひひっと老いた魔女みたいに引き笑いした。

「ひひっ、あたしもひばりも、どっちもうまくいかなかったか。くくく、そっかそっか、じゃあ私たち、破局同盟だ」

「破局同盟?って、なにそれ」

水樹はにんやりと楽しそうな笑みを浮かべて、答えになっていない答えを答える。

「そう、破局同盟。ねえ、久しぶりにお昼、一緒に食べない?あたしお菓子爆買いしてきたからさ、二人で暴れよ」

不機嫌だった水樹はこの少しの会話の間にどこか遠くへ行ってしまい、私はそのあまりの変わりようにびっくりしてぽかんとなってしまって、今目の前にいる水樹はとても愉快そうに、まるで世界から嫌いな奴がみんな消えちゃったみたいに笑ってそのまま私の手をがしりと強めに握りどこへだか歩き出した。水樹と何年もの間一緒にいる私はもう慣れっこのはずなのだけれど、その久しぶりの急展開に私の頭はなかなか処理が追い付かず、彼女に秘密のベンチに行くのはやめてほしいと言うことさえ、ままならなかった。

 

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