2.そうなの?

「えーっ!なにそれえ!」

「しーーっ!」

ぶつぶつと呪文のように講義の内容を唱えていた教授がじろりと訝しげにこちらを見る。私と水樹は慌ててノートに視線を戻しペンをしゃしゃっと適当に走らせ、小声で話の続きを始める。

「つまりなに、いまはそいつと一緒にランチしてるってわけ?」

水樹が消しゴムを握ったり摘まんだりし、唇をつんととがらせながらいかにも不機嫌そうに聞いてくる。

「うん。毎日ってわけではないけど」

「……浮気じゃん」

「ぶはっ!なにそれ。水樹だって最近彼氏と出掛けてばっかりで、全然私とあそんでくれないじゃない、お互い様だよ」

「うー…」

犬の唸り声みたいな声を出して、水樹が不満を訴える。

「…そいつ、ひばりのことちょろそうな女とか思ってたりしないの?泣いてるし、なんかあったんだろうな、その傷心に付け込んでやろう…みたいな。ひばりはちょっと素っ頓狂なところがあるからなー、心配だよ」

「大丈夫だよ、彼はちょっと変わってるけど、優しいしいい人だよ。私が泣いていても引いたりしないし、深入りだってしてこないもの」

「…」

それでも水樹はまだどうもすっきりしない様子で、にぎにぎにぎにぎと消しゴムをもみ続けている。いつの間にか講義も終了して、教授が自分の資料をトントンと整えていた。行こうか、と二人して講堂を出ていこうとすると教授に「ちょっと君たち」と呼び止められ、あちゃーと思いながら振り返る。

「君たちぃ、集中して聴いている人もいるんだから講義中は静かにし」

「乙女たちの秘密の会合ですっ!」

水樹が教授の言葉を遮ってそう叫び、私たちは教授のぽかんとした顔に背を向けて講堂を出た。


「ああ、ひばりちゃん。遅かったね」

彼がいつも通りの柔和な笑みを浮かべながら見るからに嬉しそうな感じで手を振ってくる。彼の骨ばった真っ白い手の甲には一つの大きなほくろがあって、手を振るそのひらひらとした動きがまるで蝶みたいで、私は毎回、あ、モンシロチョウ。と思う。

「水樹と話してて、遅れちゃいました」

講堂を出てからも水樹はしばらく小姑みたいに小言を言い続けていたが、急にふうと息を吐いた後「なにかあったら、いいなね」と言って彼氏とのデートへ行ってしまった。やっぱり水樹はさっぱりしている。

さくりさくりと芝生を踏んで、彼の座るベンチに近づく。ざあっと風が吹いて、彼の羽毛みたいに柔らかそうな黒髪をふわふわと揺らした。赤の腕時計に黒いエナメルのスニーカー、昔やっていたアニメにでてきたヒーローがプリントされたTシャツと、相変わらず中学生みたいに子供っぽい恰好をしている。

「早く食べよう、もう俺おなかペコペコだよ」

そう言って彼はいそいそと、自分の弁当箱が入った藤色の包みをほどき始めた。私も彼の隣に座ってコンビニで買ってきた鮭おにぎりをぴりりと開け、ミネラルウォーターをぐびりと飲んで水分をためこんだあとおにぎりにかじりついてもそもそと咀嚼し、飲み込む。それを皮切りに、涙がぼろりぼろりと目からこぼれ始めた。まるで壊れたおもちゃみたいに、そこの部分だけ不具合が起きてしまっただけで、他は何ともないというように。

「…みなとさん、なんで私と一緒にご飯を食べてくれるんですか?こんな調子で、怖いと思わないんですか?」

みなとさんは私より二つ年上だ。本来なら先輩と呼ぶべきなのだろうけど、彼の子供っぽい恰好を見てるとなにかどうもおかしな感じがして、私は彼を先輩ではなくみなとさんと呼んでいる。

「きゅ、急だねひばりちゃん。どうしたの」

よほどおなかが減っていたのか、ほっぺたをお弁当でリスみたいにふくらましながら彼が聞き返す。

「水樹が前に、私がこんな風に食べてるのを見るとつらくなるって言ったんです。みなとさんは何も聞いてきませんけれど、やっぱり不気味だとか、思ってたりしますか?」

すると彼はちょっと困ったような顔をして、さっさっと頭をエアーで掻いた。うーんだのそうだよなーだの言いながら天を仰ぎ、私に自分の胸の内を言おうか迷っている様子だ。じーわじーわとセミが鳴き、彼のすっと筋の通った高い鼻から透明な汗が流れ落ちる。あ、とひらめいて

「もしかして、傷心に付け込もうとしてたんですか?」

と冗談交じりに聞いてみた。

「……えぇっ!」

 彼は驚きで目を見開き、すごく慌てた様子でこちらを見た。慌てすぎてお弁当を落としてしまいそうになり、おっとっとと面白い動きをしながら大事なお弁当をなんとかキャッチする。

「な、なにそれ!」

こんなに動揺するとは思っていなかったので、私も驚きながらちょっと引き気味に答える。

「え…いや、冗談のつもりで言ったんですけど、その感じだと本当に…」

「いやいや!違うから! …俺はつらくなんてなってないし、ましてや怖いだとか不気味だとか、そんなこと思ってない。思うわけないよ」

「じゃあ、どう思っているんですか?気になるんです、教えてください」

すると彼は急にふっと真顔になって、私をじっと一心に見つめてきた。いや、正確には私ではなく、私の涙をだ。

ぼろりぼろりととめどなく溢れ出てくる涙を一つ一つ、電車の窓に流れる外の景色を目で追うように一生懸命見つめている。見つめられた私はなんだかとても恥ずかしくいたたまれない気持ちになって、とりあえず涙をぐいっと雑に拭った。

「…安心、かな」

彼が私の涙からふいっと目を背け、聞こえるかどうかわからないぐらいの小さな声でぽつりと答える。

あんしん?彼は今「あんしん」と、そう答えたのだろうか。私の涙が流れるのを見て、彼は安心しているのか。

彼の大人びた横顔を見つめながらしばらく頭の中で考えてみても、いったいどういうことなのかさっぱりわからなかった。もっと、好奇心とか、物珍しさを覚えたからとか、そういういわゆる普通の感情を抱いていると思っていたのに、違った。こんな私と一緒にご飯を食べようとしていた時から感じていたことだけれど、やっぱり彼は変わっている。それも少しじゃなくて、とびっきり。

「どういう、ことですか?」

「…俺さ、大学入るときに、実家の秋田から東京に越して来たんだよね」

そうだったのか。彼が中学生みたいに子供っぽい恰好をしている理由がなんとなくわかった気がした。いや、もしかしたら彼はそんなに子供っぽくもない、実は普通の格好をしているのかもしれないけれど、みんながみんな妙に気取った大人かぶれみたいな服装をしている東京では、彼のような恰好のひとはやっぱりどうも幼く見えてしまう。

彼がちょっと長めのお箸でだし巻き卵を二つに割り、片方を口に運んでもぐもぐもぐとしっかり咀嚼する。それを見て私も思い出したようにおにぎりにかじりついて、ぱくぱくと残りを必死に食べる。相変わらず涙はしつこく流れ出て、気づくと彼がまたじっと私の涙を見つめていた。ごくりと満足そうにだし巻き卵を飲み込んで今度はもみの木に視線を移し、話の続きを始める。

「家、農業やってたんだけど、ほんとすごいド田舎でさあ。東京の人たちからしたら想像もできないだろうけど、自然の恵みとか、山の神とか、命とか、そういうのをすごく重んじてたんだよね。お百姓さんが泣くから米は残すな、これから大人になるはずだった生き物の肉を食べて大人になるんだ、とかさんざん言われながら育った。鶏たちが痛みに耐えながら産んだ卵も生きるために食べたし、小さい頃から大事に育ててきた牛も、お金のために出荷した。悲しかったし、罪悪感を持ったりもしたけど、それが当たり前だと思った。悲しくても、自分で自分が嫌になっても、生きるために、命に感謝しながら食べるのが」

ひゅうっと強めの風が吹いて、私の涙を何滴か散らした。今日は正体不明の鳥が鳴いていないからかセミたちがいつもよりもやけに快適そうに鳴いている。

「でも、東京に来て驚いた。みんな、当たり前に食べていた。ただ美味しいとだけ言って、気に入らないものは平気で捨てたりして、殺された命に何の関心も持っていなかった。…俺は、いただきますとか、ありがとうとかを思いながら食べることが、殺した命に対するせめてもの礼儀だと思っていたから、みんながそうやって無下に命を食べている姿を見て、なんか、ひとりで悲しくなってたんだ」

彼の右手のモンシロチョウが羽をこきりとうごめかせる。

「…だからあの時ひばりちゃんを見つけて、すごくほっとしたんだ。ほっとした。安心とうれしいを混ぜ合わせたみたいな気持ちになった。君は、泣いていた。さも当然のことであるかのように、食べていたから泣いていた。俺は当たり前に悲しいからそれを当たり前に受け止めて食べていたけれど、君は違った。君は、当たり前に悲しいから当たり前に悲しんで食べていた」

群れからはぐれた風が、出口を探すようにこの小さな空間をぐるぐると回る。涙は相変わらず栓をなくしたようにぼろりぼろりと流れ続けて、もうそろそろほっぺたに涙の通り道ができてる頃だ。…そして、彼はやっぱりとても大きな勘違いをしている。私のこの涙に、この透明で澄んでいて邪魔な涙に、そんな大それた意味も価値もな

「ひばりちゃん」

今まで聞いたことのない彼の声にはっとして彼の方を向くと、彼がしっかりと私を見ていた。今度は私の涙ではなく、私の目を。その真剣な眼差しに、私は目をそらせない。

「君は、泣いているよ」

いつまでも耳に残る、波が引くような彼の声。私の涙が迷子の風に進路を変えられ、モンシロチョウにぽたりと落ちる。鱗粉が水をはじいて、彼の手から私の涙がまるでそこに存在すらしていなかったかのように、消えた。

「君はいつも、涙が出てくるとか、涙がこぼれるとか言って、泣いているとは一度も言わなかった」

彼の真っ黒い鏡みたいな瞳。そこにはぽかりと口を開けて、まるであくび途中の猫みたいに間抜けな表情をした私が映っている。

「…だって、泣くっていうのは、悲しいときに使う言葉です」

「君は、泣いている」

鏡の中の私が、ぐにゃりとゆがんだ気がした。私は、泣いている?そうなのか?

「優しくて、温かくて、とても悲しい、涙だ」

そう言って彼はまたいつも通りの柔和な笑みを浮かべて、私の涙をさっと優しく拭った。

私はようやく涙が止まりそうだったのに、彼のそのふんわりとした手の感触になんだかまた涙が出てしまいそうになって、食べること以外で涙が出そうになるのは本当にすごく久しぶりのことのような気がして。ああ、きっと今からこぼれる涙は、悲しみの海をたった一滴で蒸発させてしまえるぐらい温かな涙なんだろうなあ。と思ったりした。

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