命がべったり

井桁沙凪

1.あ、こんにちは


 涙、涙ってなんだろう。

最近誰かが涙を流すところを見たのは多分一週間前ぐらい。有名なチャリティー番組が足の不自由な男の子の夢をかなえてあげるっていうのをやってて、男の子が一生懸命に頑張っている様子を見た出演者の女が号泣してた。メイクが涙を黒く濁して、誰もハンカチを貸したがらない様子はぜんぜん慈悲がなくて結構笑えた。ああいうのを見てると、あれ、涙って結構安物なのかなとか思っちゃう。

人はいっぱい涙を流す。いま全人類が一斉に涙を流したらもう一個分の海が出来上がるんじゃないかな?どっちも塩っ辛いけど涙の海の方がなんていうかとろみがありそうだ。そしてどうせ作るなら、温かい感情から生まれた涙じゃなくて悲しい感情から生まれた涙で作られたらいいな。誰かの辛さの結晶を肌で他人事みたいに感じながら、ぷくぷくとどこまでも沈んでいきたい。でもそしたら私が毎日流している涙はどちらの方にカウントされるんだろう。悲しい涙と呼ぶにはちょっと高尚すぎるし、じゃあ温かい涙なのかと言われれば、それはそれで違う気がする。私みたいな人って、他にいるんだろうか。もしいるとしたらその人はこれを呪いと受け取っているのかな。それならはやくこの呪いを解く方法を見つけ出して、私に教えてほしい。私はほら、勉強とか遊びとか、人間関係とかでそれなりに忙しいはずだから。

そして晴れて呪いが解けたら最近話題になっているあのおしゃれなカフェに行って、でっかいふわふわパンケーキを食べてやるんだ。涙が伴わない食事って、どんな感じなんだろう。


 ちゃぽりちゃぽりと音をたてるミネラルウォーターのペットボトルを右手に、スーパーで値引きされていたメロンパンを左手に私は私だけのベンチに向かう。同じゼミの人にすれ違いざま挨拶をされたので、それを適当な愛想笑いで適当に返す。ここは私の通う大学で、その生徒たちは最近なぜだかみんな浮ついている。夏だからかな。夏って嫌いだ。みんな不気味なテンションと一体感でこっちが冷めるくらい盛り上がってくる。友達の水樹もそうだ。今日はナンパを狙って渋谷の街を練り歩くのだという。服の露出度が高いんじゃないのと指摘したら、おまえはおじいちゃんか!とよく分からないつっこみをされた。今頃彼女好みの塩顔系細マッチョにナンパされたりしているんだろうか。

大学を正面扉から出て、いかにも人工物って感じにカットされた真四角の石を踏みつけながら講堂の丁度真横に移動する。しばらく進むと日に当たりすぎて黒く変色した螺旋階段があるので、そこを登って、左に曲がって、またそこにある螺旋階段を降りると芝生の上にベンチが置かれた小さな菱形の空間にたどり着く。

目にまぶしいぐらいの黄緑色の芝生にもみの木がぐぐんと生えていて、夏のじりじりとした痛い日差しをまばらに遮って芝生の上にぽつぽつとしたまだら模様を作っている。さくりさくりと芝生を踏みつけながら歩いて、ぎりぎり二人座れるかどうかぐらいの長さのベンチに座ってメロンパンの袋を開け、少し遅いお昼ごはんを一人もそもそと食べる。これがここの大学での私のルーティーンだ。ここならだれにも見つからない。私が食事をするところを誰にも見られない。それは私にとって何よりも重要なことだ。


そう、私は何かを食べると涙が止まらなくなってしまう。一度自分で自分が食事している様子を撮影してみたことがあるのだけれど、「それ」はかなり異様だった。一口何かを口に入れた瞬間、ぼろろっと涙が目からこぼれはじめる。

本当に「こぼれた」という表現がぴったりな感じで、ぼろぼろぼろぼろと涙が必死に私の目から出ていこうとするのだ。前にテレビで「マンションで発生した火災!必死に逃げる住人たち」みたいなニュースが流れていたのだけれど、その住人たちが正面の扉に詰まってぎちぎちになりながら一人一人外に出ていく様子がふっと思い出された。

客観的に自分が食事するところをみたのはそれが初めてだったので、それなりに覚悟はしていたはずなのだけれどその時はやっぱり少しショックを受けた。だって全然普通じゃない。そのことを水樹に話したら「うん、うん、あんたって本当に悲しそうに涙出すじゃん。見てるこっちがつらくなってくるよ」と彼女にしては珍しく深刻そうに、わざとらしいぐらい目を合わしながらそう言ってきた。彼女の意図していたことではないとはわかっていても、私が彼女をつらい思いにさせていたという事実は私にとってまたまた結構なショックだったのでそれを言われてからは彼女と食事をすることを控えて、こうして秘密のベンチで一人で食事をすることにした。彼女ははじめこそ必死に謝ったり誤解を解こうとあたふたしてくれていたが、そのうち私の頑固な態度に諦めがついたのか食事のことに関しては何も言ってこなくなった。本当に、さっぱりとしたいい友達を持ったと思う。

 生ぬるい風がびゅうっと吹いて、もみの木をざかざかと激しく揺さぶる。正体不明の鳥がヴィーヨっと鳴き、それに呼応したように蝉がじじじと控えめに鳴いた。そして螺旋階段からはカンカンと、誰かの足音がする。

…誰かがこっちに来ている。どうしよう。慌てて涙をごしごしと雑に拭うけれど、涙はそれに負けじとさっきよりも必死な感じで逃げ出てくる。ここから離れようにも、あの螺旋階段を上るしかその方法がない。そうこうしているうちに、誰かがぽすりと芝生の上に降り立った。見えたのは、黒いエナメルのいかにも子供っぽいスニーカー。

「えっ、あれっ」

彼の目の前には、メロンパンをほおばりながら涙を流す謎のおんな。一見恋物語が始まる瞬間に見えなくもないけれど、私は彼氏に振られたわけでも、世界に絶望したわけでもなく、食べているから涙をこぼしている。つまり、ただの変な奴ってことだ。変な奴と恋をしたがる奴はいない。

彼が徐々にこちらに近づいてくる。まるで見たことのない生き物を発見したみたいに、そろりそろりと。とうとう私の目の前まで来た。漁網みたいにあみあみされた革のベルト、なんだかよくわからないキャラクターがプリントされた白のTシャツ。日に照らされてきらりと光るこれまた子供っぽい赤の腕時計。大学生っぽくないなあなんて思っていると、彼が口を開く気配がした。

「……悲しいんだね」

波のさざめきみたいに静かで、冬のため息みたいに留まった声。驚いて顔を上げると、彼もなぜか同じように驚いた顔をしてこちらを見返してきた。

恰好は中学生みたいに子供っぽいくせに、顔立ちはやけに大人びていた。なんていうか、彼の持つ知恵とか経験が、鼻下に伸びる影とか、まつ毛の間とかに見え隠れしていた。

出すべき言葉がお互い見つからなくて、しばらく二人で黙って見つめあっていた。蝉の声が私の涙に溶け込んで、ぽたり、と落ちる。彼の汗も同じようにして、ぽたり、と落ちた。その瞬間、彼がはっとたった今夢から覚めたみたいな顔をして右手に持った藤色の包みをぐわんと揺らした。にこりと赤子みたいに柔和な笑みを浮かべて

「一緒に食べても、いいかな?」

…これが、奇妙で優しく愛おしい、彼との出会いだった。

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