第2話

 港林こうりん高校3年B組の教室、牛場亮平うしばりょうへいはいつになく清々しい気分で窓際最後尾の席に座っていた。

 手術は簡単に終わった。と言っても牛場はただ眠っていただけなので、目を覚ましたら終わっていたということに過ぎない。実際には十時間ほどが経過していた。

 脳カートリッジの挿入部は、頭のてっぺんからやや左前寄りの部分に取り付けられた。髪の毛で隠されているのでその部分が目立つことはない。異物が頭の中に入っているという感じは全く無く、普段どおりに生活できている。カートリッジが何も挿入されていない状態では、昔の自分と変わりなかった。

 葛田からもらったカートリッジは十本ほどであった。一本一本はUSBメモリほどの大きさで、この中に人間の脳の一部が入っていると考えると不思議な感じがした。貴重なものであるため十本しか渡せないとのことだったが、当然であろう。一人の天才から一つしか取り出せないものなのだ。天才一人の一生にはどんな値が付くのだろうかと考えただけでも恐ろしくなる。残念ながらアインシュタインの脳カートリッジは高値で取引されているらしく貰うことができなかったが、十本もあれば満足であった。

 牛場はカートリッジの入ったケースを眺めた。料理人、ミュージシャン、数学者……多種多様な才能が入っている。格闘家なんてのもある。体だけを使う職業かと思っていたが、脳の構造にも特徴があるのだろうか。

 これから数学のテストが始まる。誰もこちらを見ていないことを確認すると、数学者のカートリッジを取り出し、頭の挿入口に挿し込んだ。頭の中を微かな心地よい刺激が走った。

 テストの問題を見て驚いた。なんだこの簡単な問題は? 小学生でもできるんじゃないだろうか。一問解くのに一秒もかからない。あっという間に答案を仕上げ、残りの時間は寝ていた。

 結果はもちろん満点だった。今回のテストは難問揃いで平均点は50点を切っていたため、100点を取った牛場は一躍注目の的となった。ある者は驚きの目で、ある者は嫉妬の眼差しで牛場を見た。


「おい牛場、ちょっと屋上来いよ」

 ある日のこと、牛場は数名の男子生徒に呼び出された。いつも牛場をいじめている連中だった。

 何をされるかは明らかだった。日頃見下していた牛場が勉強にスポーツに快進撃を見せているのが我慢できなくなったのだろう。牛場は格闘家のカートリッジを挿し込み、屋上へと足を運んだ。

 屋上には目つきの悪い生徒が四人ほど待っていて、半笑いを浮かべて牛場を取り囲んだ。

「牛場くうん……最近いろいろと調子いいみたいだねぇ」

「何だい、君たち。用があるなら手短に済ませてくれないかな」

「てめえ、いつからそんな生意気な口をきくようになった! おい、やっちまえ」

 リーダー格の男は顎を前に出して仲間に指示を出した。三人が拳を握って牛場の前に歩み寄る。

「ふっ……仕方ないな」牛場は表情を変えずに言った。

 男子生徒の一人が飛びかかる。顔面に拳を浴びると、牛場は勢いよく倒れた。

「いてて……」

 立ち上がった牛場は反撃を試みるも、他の生徒たちに両手を抑えられて動けない。顔に腹に一発二発……容赦ない攻撃が襲いかかる。リーダー格の男子生徒は大笑いしながらサンドバッグになった牛場を眺めている。

 五分後、屋上から四人の男子生徒の姿は消え、ボコボコになった牛場だけが取り残されていた。

「いったいどういうことだ――格闘家になったんじゃないのか?」

 牛場は痛みをこらえて上体を起こすと、頭からカートリッジを取り出した。

「なっ――」

 牛場は愕然とした。今まで頭の中に入っていたのは格闘家のカートリッジではなく、落語家のカートリッジだったのだ。

「間違えた……」

 いくらカートリッジで能力を高めたとしても、その人が元々持っている記憶や性格には影響はない。カートリッジを交換している間は注意力散漫な牛場そのままなのだ。

「なんてことだ……」

 牛場は立ち上がると、傷んだ顔を押さえて教室に戻った。


 カートリッジを間違えるという失敗はあったものの、その後の牛場の人生は絶好調だった。一流大学に合格し、大学でも成績は常にトップ。所属するサッカー部では、大学からサッカーを始めたにもかかわらず獅子奮迅の活躍をしていた。もちろん、いじめやカツアゲとは無縁になっていた。

 しかし牛場はこれで満足しなかった。もっと色々な能力を試してみたいと思い、久しぶりに葛田正義くずたまさよしに連絡してみることにした。

「これはこれは牛場さん。お元気そうで」電話越しに聞こえてくる葛田の声の調子は以前と変わっていなかった。

「葛田さん、手術の決断は大正解だったよ。あなたに出会えてよかった」

「ありがとうございます」

「ところで……カートリッジって他にないの? お金なら出すよ?」

「ああ……非常に申し上げにくいことなんですが……実はこのプロジェクト、中止になってしまったのです」

「なんと!」

「脳を提供してくれる天才なんて限られていますからね。採算が合う合わない以前にビジネスにできるほどのカートリッジが確保できなかったのです」

「そうですか……」

 牛場はがっかりして電話を切った。

 まあいいか、今あるカートリッジがあればこの先苦労することなく人生を楽しむことができる。そんなことを思いながら牛場はまだ一度も使用したことのないカートリッジ――脳科学者と一流経営者のカートリッジを目にしていた。

 その時、牛場の頭にある考えがひらめいた。

 ――これは、ひょっとしたらすごいことになるかもしれない……


 牛場は脳科学者としての人生を歩んでいた。

 もちろん脳科学者カートリッジを使用していたのだが、彼は来る日も来る日も研究室にこもって、人生で初めて「努力」というものをしていた。

 牛場の目標は、カートリッジを人工的に作り出すということだった。人工カートリッジは天才の脳のコピーのようなものなので、本物の脳が必要であることに変わりないが、量産が可能になる。量産が可能になれば全ての人が同時にカートリッジを使うことができる。やがて世界中全ての人が脳手術を受けて、カートリッジで知識や技能を身につけることになり、人類は勉強や練習といった無駄な努力から解放される。

 牛場は人類の歴史を変えるかもしれない偉業達成に向けて、必死で努力した。そして五年七ヶ月という歳月を経て、ようやくそれを成し遂げた。

 しかしここで満足していてはいけない。人工カートリッジを世界に広める必要があるのだ。牛場は自身の脳に挿したままになっていた脳科学者のカートリッジを久しぶりに取り出し、一流経営者のカートリッジと入れ替えた。

 牛場は株式会社ブレインエボリューションという会社を設立した。言うまでもなく、脳手術を施してカートリッジを販売する会社である。脳手術は貧困層にも受けられるぐらい低額にした。脳手術では赤字が出ても、カートリッジの販売で利益を出すという戦略である。

 戦略は功を奏し、脳手術は爆発的に普及した。カートリッジの販売も絶好調で、牛場の会社はあっという間に時価総額100兆円を超えた。

「これで人類に真の平和が訪れた。努力などという苦行から解放されて、誰もが平等に能力を獲得することができる。余った時間をもっと人間的で、意義のある活動に費やすことができんだ」

 本社ビルの五十階社長室から東京の街を見下ろして、牛場はそうつぶやいた。


 時は流れた。

 世界中全ての人間の頭にカートリッジの差込口があった。

 牛場が作った人工カートリッジであったが、ウイルスに弱いという欠点があった。ウイルスに感染したことに気付かず使っていると、脳を媒介として他のカートリッジにまで感染してしまう。カートリッジを他人と共同で使っているケースが多かったため、ウイルスはまたたく間に世界中へ広がっていった。

 正常なカートリッジは大幅に不足するようになり、必要なカートリッジを手に入れられなくなった。それでも人類は、いつかはカートリッジが手に入るだろうと楽観し、昔の人間がやっていた「努力」をしようとはしなかった。

 カートリッジを奪い合うための戦争が各地で起こった。争いをやめるための努力を誰もしなかった。

 やがて資源が不足し、食料が不足した。

 そして、努力を忘れた人類は滅び去った。

 東京のど真ん中に建てられた牛場亮平の銅像を見る者は、誰もいなかった。

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アインシュタインの脳 知多山ちいた @cheetah17

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