アインシュタインの脳

知多山ちいた

第1話

 気がつくと、牛場亮平うしばりょうへいは三人の男たちに囲まれていた。三人とも高校生ぐらいだろうか。リーダー格の男は金髪で背が高く、ピンクと黒が混じった派手な服を着ている。残りの二人は比較的地味で牛場と同じような服装をしていたが、一人はぽっちゃりとしていて、もう一人はやせていた。目つきの悪さは三人とも同じで、半笑いで牛場を見つめていた。

「なあ、俺ら財布失くしちゃってさあ、お家に帰れなくなっちゃったんだよねー。悪いんだけどお金貸してくれない?」

 リーダー格の金髪の男が牛場を見下ろして言った。人通りの多い道を歩いていたはずなのに、いつの間にかビルとビルの間の薄暗い路地に連れ込まれている。疑問を差し挟む余地なく、これはカツアゲであった。

「お金、持ってないです……」牛場は半ば無駄とは分かりつつもごまかした。

「ああ? キミ、ひょっとして俺らのことナメてる?」ぽっちゃり型の男が言った。

「いや、あの……ナメてはいないです」

 三人がゲラゲラ笑う。牛場には何が可笑しいのかさっぱり理解できなかった。

「キミ、どこの学校なの?」金髪の男が唐突に聞く。

「え……あの、港林こうりん高校です……」

 三人と牛場との間でしばらく世間話が続いた。話が終わったとき、牛場は財布から一万円札を二枚取り出し、金髪の男に渡していた。


 牛場は夜道をうつむきながら歩いていた。

 結局為す術もなく大金を取られてしまったが、気に病んでいるのはそのことだけではなかった。今日発表された期末試験の学年順位で、下から二番目だったのだ。今年大学受験を控える牛場にとって、精神的に打撃のある結果であった。

「はあ~。やっぱ駄目だな、俺……」

 実際、牛場は何をやっても駄目な男だった。勉強も駄目、スポーツも駄目、特別な技能も才能もなく、性格も弱気でいじめの対象になることがままあった。であるにもかかわらず、牛場本人には自分を変えようという気概は全く無く、ただただ己の不甲斐なさを嘆きながら毎日を無為に過ごしているだけであった。

「なんだ? あれは」 

ふと、牛場は前方に赤い物体が横たわっているのを目にした。近づいてみると、その赤い物体は人間であった。赤いコートを着た人間が道路に倒れている。

「どうかしましたか?」

 牛場が声をかけながら覗き込むと、赤いコートを着た中年の男が苦しそうにもがいている姿が見えた。

「み……み、水……」赤いコートの男は今にも消えそうな声で言った。

「水ですか?」

「苦しい……」

「待っててください。すぐに持ってきます」

 何の取り柄もない牛場であったが、困っている人を見ると助けずにはいられなかった。それにしても、砂漠でも何でもない東京の住宅地で水を欲しがるとはどういうことなんだろう。高そうなコートを着ており、整った髪に艶のある顔、とてもホームレスには見えない。そんな疑問を心に抱きながらも、近くの自動販売機で水のペットボトルを購入し、急いで男の元へ戻った。

「あぁ~……ありがとうございます……」

 ペットボトルを渡すと、男はそれを一気に飲み干した。青ざめていた男の顔は徐々に血色がよくなり、安堵の表情が見て取れた。

「どうされたんですか?」牛場は男に聞いた。

「どうやら脱水症状を起こしてしまったみたいです。おかげで助かりました」

 赤いコートの男は立ち上がろうとしたがふらつき、牛場が慌てて両手を脇の下に入れて支えた。

「もうちょっと休んだほうがいいですよ。まだ十分に回復していないみたいですから」

「そうですね……」

「ここだとなんですから、場所を移動しましょう」

 牛場は男に肩を貸し、近くの公園に連れて行った。


「いやあ、何から何までお世話していただきありがとうございます」

 牛場と赤いコートの男は住宅街にある小さな公園のベンチに並んで座っていた。赤いコートの男はすっかり元気を取り戻したようで、何事もなかったかのようにピンピンしている。

「それにしても脱水症状だなんて……真夏にこんなコートを着ているからですよ」

 考えてみればこの男には不審な点が多い。住宅街で脱水症状を起こしていたこともそうだが、夜とはいえ真夏にコートを着ているというのが怪しさに拍車をかけた。

「いやあ……まあそこは、気になさらないでください」男は笑いながら言った。

「……そうですか」

「あ、そうだ。お名前を教えていただけませんか? 恩人の名前はぜひ知っておきたいのです」

「俺ですか? 牛場……牛場亮平っていいます」

「牛場さんですか。いやあ、いいお名前だ」男は先ほどまで脱水症状で倒れていたことなど感じさせないほど饒舌になっている。「あ、申し遅れました。私、葛田正義くずたまさよしと申します」

 葛田と名乗った男は牛場に名刺を渡した。名刺には名前と電話番号しか書かれていない。葛田はどこに隠していたのか、いつの間にか黒のシルクハットをかぶっている。

「ところで、助けていただいたお礼をしたいと思っているのですが……」葛田は牛場との距離を詰めて言った。

「いいですよお礼なんて。そういうつもりで助けたんじゃないですから」

「そんなことおっしゃらずに! このままでは私の気が済みません」

「いいですって……じゃあ、さっきのペットボトルの代金120円でいいですよ」

「私の命の値段が120円とおっしゃいますか! ちょっとお待ち下さい……う~ん、何がいいんだろう」

 葛田は考え込んだ。嘘偽りなく親切心から助けた牛場であったが、面倒な人間を助けてしまったと少し後悔した。

「牛場さん、最近なにか悩み事はないですか?」葛田が尋ねた。「あなた、なにか浮かない顔をしてらっしゃる。もし悩みごとがあるようでしたら私に話していただけませんか」

「悩みねえ……特にはないですよ……全てが悩みですから」牛場は自虐的な笑みを浮かべて言った。

「ほう、それはいけませんねえ」

「勉強も駄目、スポーツも駄目。何をやっても駄目なんで、いまさら悩みの一つや二つ無くなったところで大して変わりませんよ」

「牛場さん!」葛田は目を輝かせて牛場を見つめている。「私はあなたのような方を探し求めていたのです」

「はい?」

 辺りはすっかり暗くなっていて、人の姿は見えない。夜風の音がハーモニーを奏で、闇夜の不気味さを演出している。公園の端に設置された時計はガラスが割れていて、十時を示していた。

「私、実は人間の能力を高める研究をしております」葛田が神妙な面持ちになって言った。

「はあ……」

「助けていただいたお礼に、ぜひとも我々が開発した製品を使っていただきたいと思っているのですが……」

「あーダメダメ。 俺がダメ人間なのは能力以前の問題で、そもそもやる気がないの」

「素晴らしい!」葛田が叫ぶ。「我々の製品はまさにあなたのような方のために作られたのです」

「ははは……やる気がなくてもデキる人間になれるって? そんな馬鹿なこと……」

「アインシュタイン……」

「は?」

「かの天才、アインシュタインの脳が死後も保存されて研究に使われていたことはご存知ですか?」

「何ですか突然……いや、知りませんでしたが……」

「まあ、それはいいでしょう。調べていただければ分かることです。聞いていただきたいのはこの先です。アインシュタインの脳は分割されて複数の研究者の手に渡りました。そのうちの一つを手に入れたのが我々です。我々はアインシュタインの脳を使って調べました。天才とは一体なんなのか。天才の脳は我々凡人の脳と何が違うのか」葛田は続ける。「そして我々はついに発見したのです。脳のどの部分が天才を特徴づけているのかを」

「天才は生まれつき天才だったってことですか?」

「いえいえ。どうやらアインシュタイン自身の弛みない努力の結果として脳の特定部位が進化したというのが我々の見解です。生まれつきの天才などいないということですね」

「面白い話だけど、だから何なんです? さっきも言ったけど俺は努力することが何よりも苦手なんですよ」

「まあまあ、お聞きなさい。ここまでの話は他の研究者たちも辿り着いた結論です。我々の真骨頂はこの先です。牛場さん、もしアインシュタインの脳の一部を自分の脳に移植できたら素晴らしいと思いませんか?」

「何の努力もせずに天才になれる……ってこと?」

「そのとおりです」

「う~ん……夢のある話だけど、今更アインシュタインになってもな……」

「どんな人物になりたいのですか?」

「ミュージシャンとか、スポーツ選手とか……そういうのに憧れるね」

「ご安心ください。実は亡くなった世界的ミュージシャンやスポーツ界のレジェンドの脳も我々は極秘に入手しております。それだけに限りません。政治家、学者、料理人……各界の一流の脳をご用意しております」

「全部の能力が手に入れば超人になれるね」

「残念ながら全部を一度に手に入れることは無理です。しかしカートリッジ式になっておりますので、一度手術していただければ様々な脳を必要に応じて入れ替えることが可能です」

「そりゃすごい……」

「牛場さん、助けていただいたお礼に無料でこの手術をプレゼントします。まあ、我々としても実験ができて助かるのですが……」

「ちょっと待ってくれ」牛場の顔が青ざめた。「実験って……そんな危ないことを俺にやらせるのか」

「手術例はもう何件かございます」

 葛田は牛場に手術を受けた人のリストを見せた。マルチタレントとして最近テレビで引っ張りだこの芸能人や文化人、作家の名前が載っている。

「いやしかし……」

 牛場はリストを見てこの夢のような話がひょっとしたら本当なのかもしれないと思ったものの、まだ自分が手術を受ける決心はつかなかった。

「牛場さん、あなたのこれまでの人生を振り返ってご覧なさい」葛田が諭すような口調で言った。「そしてこれからも今までと同じように惨めな人生が続くということを考えてください。ここで決断すれば手に入るのですよ。名声と富に彩られたきらびやかな人生を」

 牛場は思い起こしていた。トイレに閉じ込められた惨めな自分、一周遅れでトラックを走る情けない姿、一桁の点数の答案……。

 次々と湧いてくる記憶を振り払って言った。

「ぜひ、お願いします」

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