42 氷細工の夢が溶け落ちて

 ミナトが連行され、先ほどまで星空を飾っていた窓枠からゆっくりと白い光が漏れてくる。

 夏になると、『ツナ缶』を囲む薄い氷床の海は溶け、まだら模様になる。毎年見る光景だが、彼にはその千切れた氷床が、五人の関係が崩れていくさまを物語っているような気がしてならない。


「店長……ねえ、どうすればいい? ミナトが……いっちゃった。どうしよう、どうしよう、どうすればいい……? 私のせいだ……」

「タカラ……」

「教えてよ、店長。私が、"タカラ"になれた時みたいに、ミナトを助ける方法を教えて。私は何を捨てればいい?」

「落ち着いて、タカラ。タカラのせいじゃないよ」

「でも、だって……! 私が、研究所の期待通りの働きをしなかったから……」


 タカラは、瞬きもせずにボロボロと涙を流した。

 彼はこんな風にタカラが泣いているのを初めて見た。タカラの涙を見たのは受肉式の後アラシと再会した時ぐらいで、その時だってボロボロと泣いていたりしていなかった。潤んだ瞳から一筋だけこぼれてしまった、そんな涙だった。


「ほら、深く息をして」

「そんなこと言っている場合じゃないよ! ミナト、すぐに殺されちゃう」

「タカラ、ミナトくんはね、最初からこうなる運命だったんだよ。このバーに訪れたその日からね」


 時が止まる。

 トオノの優しい、色素の薄い茶色い瞳は相変わらずタカラの奥をまっすぐと見つめていた。

 彼女は、そして彼も、アラシも、呆然自失としており言葉を発することができない。


「おかしいと思わなかった? この若さで店を構え、大して繁盛もしていないこの店を続けられている理由は何だと思う?」


 ねえ、ハヤトくん。

 トオノが発するその口の動きが、彼にはスローモーションに見える。いつもと同じ、優しいはずのトオノのその声が、彼は恐ろしかった。


「……それは、あなたの実家が太いから、援助を受けていたんじゃ、ないんですか」

「半分正解。ボクは確かに家から勘当されたけど、知りすぎていたがゆえに完全に自由にはなれなかった。だから、スパイとして働くことを条件にこの店を開くことにしたんだ。透明の血や翠の眼の人魚が多く存在していることなんてもちろん研究所も把握していたし予期していたことではあるけど、全員を把握していた訳じゃない。ボクはここで透明の血の人魚や、あるいは氾濫分子足りえる人物を密告していた」

「じゃあ、ミナトのことも……!?」

「もちろん」


 トオノは薄い茶色の瞳を細め、にっこりと笑っている。


 タカラは研究所にミナトの透明の血のこと――の対象から外すという条件を受けて研究所に協力をしたし、彼も同じ理由で一等佐官への道を進んだ。

 しかし、それはトオノの密告が発端だったらしい。


 怒りなのか悲しみなのか、名状しがたいどろりとした何かが彼の腹の底に溜まる。


「グラン・ハーバーの血の色を密告したのも、"テソロ"がこの店で働いていることも、ハイト・コーズランド執行官が店に入り浸っていることもボクは知っていたし、研究所も知っていた。ああ、ハヤトくんが機密事項を漏らしていることは言わなかったかなあ。ボクはハヤトくんに出世してほしかったからね」


 トオノは水を沸かし、ティーサーバーに湯を注いだ。


「トオノさんはこの国の理不尽さが嫌だったじゃないんですか」

「そうだよ。だから、ボクはこの狂った国の法に一矢報いたかったし、犠牲者のために何かしたかった。キミが殺した、ボクの兄のために」


 ひゅっと彼の喉の奥が鳴る。

 けれども、はいそうですかと納得することなど到底できなかった。


「何故ですか、オレ達を操って、いったい何がしたいんですか……!?」

「タカラのためだよ」


 次の瞬間、バチンという音が空気を裂いた。


「こんなこと頼んでない! ミナトのことを売って……! どこが私のためなの!?」


 タカラの瞳は怒りに震え、水面のようにゆらゆらと揺らめいてる。


 ああ、そうだった。

 彼は心の中で呟く。この国は、狂っている。それは一見聡明なトオノですらも同じだ。


「タカラはもう、自由だ。好きなだけここに居ればいい。もう研究所に戻らなくていい。テソロを捨てて、キミはタカラになるんだ。それはキミがずっと求めていたものだ。キミが願ったんだ。初めてここに来たあの日、自由になりたいって」


 トオノは、にっこりと笑ってそう告げた。


「そうだけど、でも……!」

「タカラは、アラシちゃんが一番好きな友達だよね? ハヤトくんが一番好きな男の人だよね? ミナトくんは二番だ。二番は、いなくてもいい」

「!」

「兄さんはもういない。タカラには幸せになってほしい。この、イカれた国の犠牲になったタカラが幸せであることが、僕に残された兄さんへの手向けなんだ。友人であるミナトくんを執行し、忠誠を見せれば、ハヤトくんはこのまま昇進し続けるだろう。ミナトくんを諦めれば、全てうまくいく。眩しくなったら、その眼を潰してしまえばいい。そう言ったのはキミだ。ミナトくんたちと過ごす日々はタカラにとって夢のような日々だっただろう。でも、夢はいつか覚める。タカラのまぶたの裏には何が焼き付いている? アラシちゃんと、ハヤトくんじゃないの?」

「ミナトだって、焼き付いている」

「うん、そうだね、タカラが大切に思っている証だ。ミナトくんはいない。でもアラシちゃんとハヤトくんがいる。残されたものを大切にするべきだ。光の残滓ざんしは、キミをあまねく照らしてくれる。そうだろう?」

「違う! セダムは、そんな後ろ向きな意味で言ったんじゃない!!」

「セダム……? きみにその言葉を教えたのは、兄さんだったのか。だったらなおのこと分かるよ。諦めることは、必ずしも間違いじゃない。その言葉はそういう意味だ」


 窓から吹く心地よい潮風が四人の頬をさらう。

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