37 バッカルコーン

 無数に浮かぶ大小の氷岩は、海面から出ているのは一メートル程でも、海中では九メートルに渡ってその先端を海底に突き刺そうとしている。

 氷の岩によって造られたアーチや三角形の隙間を潜っているとまるで氷の洞窟を泳いでいるような気分になる。氷の隙間からは、相変わらず光のカーテンが水面に揺れて、氷に歪んだ亀甲模様を写しだしていた。


 約四十五分と少しぶりに海面に顔を上げ、地上の空気を吸うとホッとした。 酸素タンクのカラカラに乾いた空気ではなく、適度に湿り気を帯びた地上の空気は彼の喉によく馴染む。


 彼は迎えに来ていたボートに乗り込み、重たい機材とウエイト重りの全てを外し、ピッタリと体を圧縮していたドライスーツの内部に空気を送り込んだ。

 彼に続いて、船にはタカラとミヨゾティが乗り込んでくる。彼と違い、彼女は黒いTシャツにハーフパンツのみだ。


「はー、外の空気美味しい……」

「平気な顔して四十分息止めていたじゃねーか」

「そうなんだけどね、やっぱり陸での生活に慣れているから、この酸素だらけの世界の方が私は落ち着く。ミヨゾティはそうでもないみたいだけど」


 彼女が小脇に抱えた女神様は、下半身の鱗に覆われた足で、まさしくき上げられた魚のようにピチピチと甲板を叩いていた。

 ひれのついた人間なのか、頭のついた魚なのか、これじゃあわからないな、と、彼は心の中でそんな皮肉を呟く。


 彼が目線を上げると、そこには三六〇度中、二八〇度が氷に覆われた世界が広がっていた。南東の方には、実験をした開水地帯(氷がない海)もあるにはあるが、それでも岩のような浮氷にまみれている。そして、北には大氷壁と呼ばれる氷山。

 氷山の蜃気楼により、いつもは見ない遠くの氷山が浮かんで見えた。

 白い水平線が永遠に続き、氷河は太陽光に依って銀色に燃えている。

 板状軟氷ばんじょうなんびょうである。

 海の水が冷えて凍る時、初めは薄くて細長い針状か、小さい板条の氷の結晶ができ、海面は油でも張ったように、重くドロドロとした粘り気のある氷で満たされる。遠くからは鉛色の氷に見えるのだ。氷河が太陽光で溶け、板状軟水になっているという証である。


 南西には開水地帯、北には大氷壁、東の浮氷・定着氷を超えてすぐに海洋国グラス・ラフトがある。

 ボートに揺られながら、彼はその真っ白で大きな浮氷を見る。忙しなくガーガーと鳴くペンギンと、気持ちよさそうに昼寝をしているアザラシの群れがいた。


「うわ、美味しそう。実験終わりはお腹空くんだよね」

「わかる。喉も乾いたし、蜂蜜酒ミードとアザラシ肉で一杯やりたいところだ」


 海洋国グラス・ラフトにおいて、肉は大変貴重な食料である。

 第三区にある国営工場で生産されているのは野菜や果物等の農作物と真水のみで、この狭く食料の乏しい国で畜産をする余裕はない。

 大豆やナッツから作った植物由来の人工肉「フェイク・ミート」という牛の味に近い人工肉もあるにはあるが、生産量の少なさから高級品となっている。この国における肉といえば、牛でも豚でも鳥でもなく、アザラシやセイウチの肉が主流だ。もしくは、肉は肉でもサメやクジラといった魚肉になる。

 故に、アラシの家の様に漁や狩猟りを生業としている家も少なくない。アザラシやセイウチは、食料としては勿論のこと、革などから燃料となる「油」や彼の衣服の一部となる「毛皮」もここから得ているのだ。

 この船も普段は漁船で、彼らが実験のために潜っている間に釣りだか漁をしていたのか生臭い臭いが立ち込めていた。何匹かの小魚が、ミヨゾティと同じようにビチビチと狭い甲板の上で跳ねている。


「そういえばさ、会わなかったね。クリオネ」

「あー、そういえばそうだな」

「我らが女神様は流氷の天使には祝福されなかったみたいだ」


 この船にはかつて陸で当たり前のように備え付けられていた機械動力は積んでいない。完全な人力動力によるボートは、手慣れた船頭達によって、波に揺れながらゆっくりゆっくりと国に近づいていく。

 ミヨゾティは、甲板の上に跳ねていた小魚の頭と胴体を引きちぎって遊んでいた。


 流氷の天使ことクリオネ・リマキナは、天使の羽のように見える翼足よくそくで泳いでいるが、捕食時は体内からバッカルコーンという六本の触手で獲物を囚え、養分を徐々に吸い取っていく。その様は、天使と言うよりは悪魔だ。

 ――美しいだけの生き物なんて、やはりいない。

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