36 トリトンの魔法の杖
右手人差し指を立て、『浮上』
少し間を置いて
掌を広げて『5』
水深五メートル。
そこは安全停止のための水深である。潜行し、乾いた酸素を吸っていると体内に窒素が溜まる。その窒素を薄めるため、この深さで一定時間止まる必要があるのだ。
背負ったタンクの中の酸素も圧縮され、水深三〇メートルでは二十分も持たない。
海藻が生えた岩の間からコポコポと空気が漏れ出ている。その気泡を縫うように泳いでいるのはヒレと体の下半分は白と黒の
ギスカジカの魚影が、氷脈の漏れ陽に重なる。
シロイルカが過ぎ去ると、今度は地上のあの緩慢な動きから想像もつかないほどの素早さを見せつけるペンギンが近くの魚を捕食していく。
この極寒の地で、ブリザードの吹きすさむ氷壁の前で平然と何時間も直立している。そのペンギンが足元に隠している卵を彼らはしばしば盗み、食べるが、それがまた美味だ。ペンギンは卵が盗られたことに気付いていないのか、もしくは気づいてはいるが自らへの慰めのためか、彼らが卵の代わりに置いた手ごろなサイズの氷の塊を大切に守っている。そして、いつまでも出てこない我が子を嘆いて啼くのだ。
かわいらしく、
狩りの仲間である狩猟犬も、労働力として使役できなければ絞殺してその肉を食べる。
この国に時折訪れる「シロクマ」「シロキツネ」「シロオオカカミ」は脅威であるが、その旨さといったら極上である。魚肉でない獣の肉は貴重だ。
そして、シロクマもシロキツネもシロオオカミも――
彼は文字通り魚に飛びつくペンギンと、その周りをうろうろとたゆたっている人魚を見て、ついつい忘れがちになってしまう弱肉強食の世界を思い出した。
ペンギンや先ほどのシロイルカは人魚に危害は加えることはなかったが、その
武器を何も持っていない人魚が本当にこの海で生き抜くことができるのか彼は甚だ不明だった。どこかの御伽話のように「トリトンの魔法の杖」などないのだ。人魚は自らを守るためにこの海底で武器を造り、やがては文明を築くのだろう。
海洋国グラス・ラフトの都市が海底都市と化したその時、その住民を人間と人魚の成り損ないから、
――この海には、まだまだ多くの生き物がいる。
比較的大きな生き物が目に留まりやすいが、ウミウシのような小さな生き物もたくさん息づいている。
人類と呼ばれるものは絶滅の危機に瀕しているが、海の中の生き物は今とて生命力に満ち溢れ、人類がこの広大な海をも占領しようとしていた時よりも栄えている。
(陸の支配者としての人類はその身を滅ぼし、次は人魚に姿を変え、海の支配者になろうとしているのか……)
光のシャワーの中で、ミヨゾティは形容しがたい神々しさを纏っていた。
ゆらめく柔らかな太陽光の中で、彼はそんな感傷に浸る。
チリリンとベルが鳴り、ふと残圧を見るともう五十を切っていた。そろそろ引き返す時間である。
既に三十五分ほど潜っていることになるが、人魚はもちろんのことタカラたちもまだまだ平気そうだった。
『エコロケーションで漁をさせろ』
タカラはこくりとうなずくと、子魚の群れをミヨゾティの方に寄せ、手を振った。両手を握りぷーっと口を膨らまし、そのまま力を籠める仕草を見せる。
ミヨゾティがその真似をすると、タカラが片目をぎゅっと瞑って耳を抑えた。彼には分らないが衝撃派を放ったらしい。
その証拠に、人魚の周りの子魚は動きを止め、タカラは適当な子魚をいとも簡単に手で捕まえた。その半分を食いちぎり、もう半分を人魚に与える。
タカラが他の人魚より優れていた強みは、「海中での耳」だ。タカラは耳が良く、水の音源を察知することができた。
そして人魚は、魚としての圧倒的な「筋力」と、正真正銘のエコロケーション能力を持っている。その衝撃波で正確に物体の位置を取ることは勿論、衝撃波によって魚を捕えることすら可能だ。
先ほどまで、人魚がこの海で生きていくなど荒唐無稽なことにしか思えなかったが、その捕食シーンを目の当たりにして、急に現実味を帯びてきた。
御伽話にあるトリトンの魔法の杖でも、人間の知恵である
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