34 深海遊泳 1/2

 乾いた酸素で喉が渇く。

 水圧に押され全身がキュっと締めつけられるのと同時に、彼の体温は侵され、広大で深い海にべられていくのを感じた。視界はほんの少しずつ暗くなる。

 現在、深度三十二メートル地点。


 胸のバブルスイッチを押すと海よりは幾分か暖かい空気がスーツに入ってきて、彼の締めつけと冷気が少し和らぐ。

 体は沈むのをやめ、上にも下にも行くことなくぷかぷかと水中でうかびながら空を見上げた。


 一年中雪と氷に覆われたその場所は海が非常に澄んでおり五十メートル先の人影すら見えそうだ。


 三十二メートルの海水を超えた先に見える太陽は少しうす暗く、淀んでいる。辺りは白いツタのような植物が時折顔を見せるだけで、生き物の鼓動は感じず、寂寂せきせきとしていた。

 冷たい水と、無重力の浮遊感。無音とは決して言えない海の鼓動に耳を済ませていると、ここだけ時が止まっているように感じた。

 水深三〇メートルの世界では、「赤」がない。詳細は割愛するが、赤やオレンジがとても暗い色に見えるのだ。――だから、ここは時が止まった、青の世界である。


 彼は薄暗い太陽をぼんやりと見ながら、初めて海に潜った日のことを思い出した。

 初めて見た青の世界は、言葉に出来ないほどの希望で満ち満ちていた。

 彼らは何百年も前から海の上の世界から海の中の世界へと移住すべく、長きにわたって営みを続けて来た。

 彼らが求めた世界の半分が、今ここにある。


 彼は何度もこの海で時を過ごしたが、この冷えた非日常はいつだって彼に安寧をもたらした。


 不意に視界の中に海色みいろの人魚がやってくる。

 右手を伸ばすと、人魚は彼の手にタッチして、そのまま彼の周辺をくるりと回った。


 海色みいろの鰭を持つ人魚"ミヨゾティ"は深度三〇メートルの水圧などものともしていなかった。


 ――現在、ミヨゾティの泳力テスト中である。

 彼はミヨゾティの護衛としてその実験に参加していた。


 彼の背にある重い酸素のタンク、彼の身を寒さから守る完全防水全身装備ドライスーツを必要としない人魚は身軽で、生物としての泳力が足りないとはいえ、その自由さといったら彼と比べるまでもない。

 研究班の班長がチリリンとベルを鳴らし注目を集めた後、ハンドサインを送る。


 右手人差し指を立て『浮上』

 少し間を置いて

 人差し指と中指を立ててピースサイン『2』

 握り拳『0』


 次の深度は水深二〇メートルらしい。

 浮上しようと胸元のバルブボタンに触れたとき、何かが彼の手をかすめた。ポケットに入れておいたはずのナイフが緩やかに、そして加速しながら落ちていく。あっと思ったときにはもう手遅れで、それはすぐに見失ってしまった。

 彼の足元には、深い深い海の底が広がっている。いわく、ここから海底まで、あと、五四六〇メートルあるらしい。

 あのナイフは、五四六〇メートルの潜行の末、錆びて朽ちるまでの数十年を、見たこともない不思議な生物と共に、光のない海底で過ごすことになる。

 ――実際に彼がいるこの地点の本当の水深などわかるはずもなく、おそらくもっと浅い場所ではあるが、それは途方もないことのように思えた。


 深度が下がれば下がるほど、完全防水全身装備ドライスーツに入れた空気は膨張し、彼を瞬く間に海面まで引き上げてしまう。スーツ内の空気を抜きながら、人工の足ヒレを使いゆっくりと浮上する。それに合わせて水圧に押さえつけられていた鼓膜からメリメリと音が鳴った。これは良くないサインではあるが、経験則で大丈夫だと判断しそのまま浮上を続ける。

 水深二〇メートルまでくると、辺りは大分明るくなり、魚も一気に増えた。


 小さな人魚・ミヨゾティはタカラと手を繋ぎ、一四〇度方向に向かって泳ぎ始める。そのスピードに、彼はとてもじゃないが追いつけない。

 モーターが着いた水中バイクを掴み、それに牽引される形で二人の後を追った。


 海色みいろの髪を結わいたタカラは足そのものをヒレの様に――太ももから足全体をしならせる様に水を切り、一定のスピードで流れていく。タカラのヒレは忙しなく水を蹴り続けたが、人魚はタカラと並列して、否、むしろ人魚がタカラの泳ぐスピードに合わせて泳いでいるようだった。

 ミヨゾティは誕生してまだ数週間ほどだが、その姿は人間換算だともう一歳ほどで、泳力は申し分ないらしい。


『ハ ヤ ト』


 もちろん音など聞こえないが、彼女が口ぱくで彼を呼ぶとそのまま彼の手を取り、海を泳いだ。隣の人魚は海色みいろのヒレを器用に動かし、彼のまわりを踊る。

 着いた先は、光るくらげの住処だった。


 この海には、カブトクラゲ、ウリクラゲ、クシクラゲなど、七色に発光するクラゲが多く生息している。脳味噌のような形をしたムネミオプシスというくらげも居た。

 水中に、透明の脳みそが浮かんでいる。その昔、なんとも滑稽で猟奇的な姿に彼は笑い、おののき、レギュレータ(酸素を吐き出す装置)を咥えていることも忘れ吹きだし、あわや死にかけた。そんなことを思い出し、ギュッと奥歯に力を入れて、そのゴムの味を噛みしめる。


 ミヨゾティは、初めて目にする光るくらげに眼を輝かせていた。

 小さな人魚はその発行体に手を伸ばすが――

 ――それに触れる前にタカラは人魚の手を掴み、そのまま後ろから抱えて辺りを揺蕩たゆたった。


 タカラが他の人魚より優れていた『反響定位エコロケーション能力』。つまり【耳】。

 彼女がこの研究に参加する理由は、比較対象と言うこともあるだろうが、その最たる理由はミヨゾティとの意思疎通だ。

 もう、以前のように反響定位エコロケーションのための超音波強度テストを行ったりはしない。


 シャボン玉に反射する太陽光のような光るくらげたちの住処でしばし光の雨を満喫した後、研究班班長がハンドサインを出した。


 右手人差し指を立て、『浮上』

 少し間を置いて

 人差し指を立てて『1』

 掌を広げて『5』


 次は水深十五メートル。

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