32 甘いものに氷漬け

 彼はかつて、この『ツナ缶』で沖融ちゅうゆうたる時間を過ごしていた。

 読んで字のごとく、「海岸から遠く離れた沖」で、あるいは「水がわく深い場所」で――「気を和らいで」「心を融かして」――沖融ちゅうゆうたる時間を、ミナトやタカラ達と。

 彼は再び、そんな時間を過ごしたい。


 タカラを研究所に置いて、彼は一人で『ツナ缶』を訪れていた。

 そこには、勝利の美酒を嗜むアラシとミナトもいる。


「ハヤトさん! 早いですね、タカラさんは!?」

「すまん、アラシ。先にトオノさんと話をさせてくれないか」

「え?」


 彼の真剣な眼差しに、アラシは口をつぐむ。

 トオノもそれを察すると、料理の仕込みを中断し、カウンターへとやってきた。


「アラシちゃん、ミナトくん、少し席を外してもらってもいいかな?」


* * *


「はい、どうぞ」


 ホットミードと共に、花弁はなびらが九枚小皿に置かれた。


「これ、きれいでしょう? 食用花をグラス・ア・ローしたんだよ」

「グラス・ア・ロー?」

「砂糖でコーティングしたの。見かけも華やかでしょ? こんな寒い季節だからこそ、花が恋しいと思ってさ」


 確かに見かけは華やかで、食べればパキリと甘い味が咥内に広がる。しかし、彼には「春」が"甘いもの"に氷漬けにされている、皮肉めいた何かに見えた。

 彼の心は、そう世界を捉えてしまう。


 彼の好きな蜂蜜酒ミードのはちみつの香りに、甘い花弁が重なる。心地よい糖分が、落ちたキャンディーに群がる蟲を起想させ、彼はなんだか嫌な気持ちになる。

 花弁はあと八枚になった。


「今のハヤト君は、まるで『花吐病』の患者だね」

「なんすか、それ」

「片思いをすると口から花を吐き出す病気。両思いになると直るんだって。ファンタジーの産物だよ」

「……それは俺への当てつけですか」

「そうだね、そうかもしれない。で、ボクになんの後ろめたい事があったのかな? 最近なんか様子がおかしいなって思ってたけど、キミが昇進してタカラが戻ってくるってうハッピーなニュースだけじゃないよね?」


 人を観察するときのトオノのは、翠の眼の青年と瓜二つだ。今までどうして気付かなかったのだと不思議になる程に。


「さすが、セダム・トンノロッソの実弟じっていですね、トオノさん」

「え?」

「オレは一等佐官になる条件で、今まで何度も世話になったあいつを――セダム・トンノロッソを執行しました」


 パキリ、と甘い花弁砕け、唾液に溶けて混じる。

 花弁はあと七枚になった。


 セダム・トンノロッソを執行した。

 ――いくら聡明なトオノと言えど、彼の突然の告白の意味を理解するのには数秒の時間を要した。次の瞬間、トオノは激情をその瞳に写す。しかしトオノはその激情を彼にぶつけることはなく、そっか、と一言呟いただけだった。

 バーカウンター下の一番手前に蜂蜜酒ミードをしまう。


「オレの事、怒らないんですか」

「どうして? だってそれはキミの"仕事"だろう。どうして怒る必要がある。そんなの無意味だ」

「オレには、それを拒否する権利があったんです。それに、オレはあいつに救われてた。感謝してたんだ。なのに最後は、あいつを殺しました」

「その感謝の気持ちは人工物だよ。あの研究所が仕組んだことだ。そしてキミは、ただの『完成された手駒だった』ということに他ならない。キミに選択の余地がなかったことなんて考えるまでもなくわかるよ。タカラのことも、兄さんのことも、キミの恣意的な判断じゃない。キミの意思でやったことでないなら、咎められない。キミの意思で起こす行動でなければ、そこに何の意味もないんだから」


 ああ、やはり彼らは兄弟だ。

 彼は思う。


 トオノは『思考が、言葉と行動を規定する』と、兄と同じ意味の言葉を彼にかけ、彼に無実の罪だと洗脳する。


「この国に情緒なんて不要なんだ。客観的に観察・判断し、その判断の通りに人を動かすだけ。『トンノロッソ』はそんな狂った家だ。ボクがあの家を嫌う理由がわかっただろう」


 トオノはそんなことを言いながら、くるりくるりと、緩慢に手元のマドラー掻き混ぜ棒を指で回した。それは、トオノの心が「不安定」であるサインであると彼は知っている。翠の眼の青年から教えてもらった読心術の一つだ。

 彼は安心した。


「どこまで知っていたんですか、セダムのこと」

「何も知らないよ。ボクが子供の頃に、それだけ。でも、大人になると、この国の真実をある程度知ることが出来る。十中八九、兄さんは研究所に収容されたと推測したよ。もうとっくに処分されたと思っていたけどね。兄さんは少し意地悪だけど、とても頭が良かった――というか、人心掌握に長けていた。だから今まで洗脳要員或いは実験のために研究所に収容され、最期は君に処分された。違う?」

「概ねその通りです。他の囚人と同じく首輪はつけていましたが、酷い傷跡はありませんでしたし、チョコレートを食べたり本を読んだり、比較的自由に生活していました」

「そっか、それは良かった」


 トオノは少しだけ口角を上げ、緩慢に回っていたマドラーは漸くその動きを止めた。


「……最期、トオノさんに伝えることはあるか聞いたんです。そしたら何もないって。『オクナは、大丈夫だよ。あの子は賢くて、とても強い、自慢の弟ですから』って、そう言っていました」


 兄さんらしいや、とトオノはそう言って、少しだけ笑った。

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