28 翠の眼の青年 2/3

「オクナの友人だからってだけじゃない。個人的に、純粋に貴方のことを気に入っていたんですよ。最初は執行官懐柔のためのスパイとして、仕事のためだったけど、今では本当に貴方の力になりたいと思っている。それに、貴方はとても優しいけれど、ヒーローにはなれないから……」


 ああ、気を悪くしないでほしい。

 青年は慌ててそう付けたし、話を続けた。


「あ、そうだ。もう一つボクは看守さんに嘘をついていました。ボクはテソロと幼馴染って言いましたけど、人魚としてここに暮らすようになったのは十四とかそこらなんです。ん? やっぱり幼馴染かな。幼馴染の定義って何歳から何でしょうね」


 青年は研究所側の身勝手で殺される。

 たとえもうじき病で死んでしまうとしても、それは決して幸運な死ではないはのに、青年は全く疑問に思っていない。


 その事実が、彼には悲しくて、悔しかった。

 だが、それを伝え青年に自覚させたところで、彼にはやはりどうすることも出来ないということも、彼は知っている。

 青年が幸せだと思って死ねるのならば、それに越したことはない。

 彼は、また自らの正義を諦めた。


「ボクは『洗脳』を習う過程で思考実験をよくしたのですが、幾つか興味深い話があったんですよ。聞いてくれないですか。ねえいいでしょう? あ、でも聞き流してくれてもいいですよ。哲学の話ですから」

「いいや、ちゃんと聞くよ」


 ――青年は語る。


「そうですね、最初は"記憶"と"身体"の話をしようかな。ボクたちの記憶はかくもあやふやなものです。忘れてしまうこともあれば、改ざんしてしまうこともある。人生の三分の一は眠っているというのに、その時の記憶はない。記憶こそが貴方を形成しているというけど、じゃあ記憶を失ったら貴方は貴方でなくなってしまうのでしょうか」


「それに、ボクたちは記憶を持っているけど、常日頃その記憶を認識しているわけじゃない。記憶は、起想しているときのみ存在している。記憶はすなわち、『過去形の現在体験』と言える」


「翻って、じゃあボクたちの身体はどうでしょう。ボクたちは必ず一つ体を持っている。手や足が欠けたところで、ボクたちの身体はボクたちの身体だろう。でもよく考えてほしい。この身体に流れる血液も細胞も、その体のほとんどが生まれたままのものじゃない。看守さんは『テセウスの船』というのは知っていますか?」


 彼が沈黙していたその時間はほんの数分のことだったが、彼は随分と久しぶりにしゃべったような気がした。

 普段使わない部分の頭を使っているからだろうか、言葉を発しようとすると、少しだけ喉が詰まる。


「テセウス? さあ、知らないな」

「『テセウスの船』は木材で作られていたんですが、その木材を新しい木材に変えていき、やがて元の木材は一片もなくなった。それは『テセウスの船』なんだろうか。じゃあ逆に、その元の木材を集めて作った船は『テセウスの船』なのだろうか? ――と、まあそういうのが『テセウスの船』の話です。この認識は「他者」に依存する。すなわち、看守さんが看守さんであると認めるのは、貴方ではなくボクである。では、看守さんの自己の認識はどうだろう。貴方を形作るのに、あなたは関係がないのだろうか」


「そうそう、『テセウスの船』と少しと似ていて、それでもって対極の存在にある話があるんですよ。人間Aの右の脳と、人間Bの左の脳を、人間Cの頭蓋骨に入れたら、人間Cは一体誰なんだろうっていう話。『テセウスの船』を決めるのが他者であるのに対し、この人間Cが誰であるのか決めるのは"自己"なんです。人間Aと人間Bの脳を持った人間Cが、自分で決めること。……これは余談であり蛇足なんですが、その実験をこの研究所で実際にしてみたことがあるらしいですよ、もう支離滅裂で精神は崩壊している、ひどい有様だったらしい。ボクも、昔は『ボク』ではなく、他人をつなぎ合わせて『ボク』になった、だから髪が真っ白なんだと聞かされたときは背筋が寒くなりましたよ。もちろん冗談なんですどね」

「ブラックジョークにもほどがあるだろ……」


 連綿と紡がれる青年の話に、彼はそんなツッコミをするので精いっぱいだった。頭がついて行かない。


「あっ、バルメデニスの理論も面白いんですよ。哲学者バルメデニスいわく、ある時点①でA、ある時点②でBだった場合、AはAでBはBだ。AとBは別物で、AがBになったのだとしても、それは僕たち主観による推理に過ぎない。世界にとって、AはBに変化したというのは事実ではない。だって時間ごとに見れば別物なんだ。でも、よく考えてみて。Bは、やはりAだったんですよ。どう考えても。連続的に、継続して変化した結果、AはBになった。点ではなく線で見れば、やはりBはAなんです」

「……?」

「まあ何が言いたいかというと、物事を決めるのは"認識"であるということです」


 認識。

 彼はその言葉を頭の中で反芻する。


「ボクは一つ、貴方に認識してほしいことがある。それは、『思考は、言葉になんて規定されない』ということです。この研修所は、言葉は思考によって規定されるって言っていましたけどね。まあある程度は当たっているかもしれない。言葉による洗脳は可能だった。貴方は人魚を殺すのに、何の感情も抱かなくなっていたはずだ。その心は、至ってフラット。無感覚でいることを貴方は赦したのでしょう」


 青年の言う通りだった。感じるべき罪悪感をことを、「仕事だから仕方がない」と隠して、認識しなかった。


「貴方の思考が、貴方の言葉を規定するのです。そして、その規定された言葉を、この世界では『誓い』という」

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