26 詭弁の正体

 彼は声も出ず、足も動かず、ただその翠色の眼球を動かして、彼女の空中を泳ぐような海色みいろの髪を眺めることしか出来なかった。


 彼はいつだって、何も出来なかった。


 タカラとの再会を果たしてから幾日か経ったが、状況は何も変わっていない。

 ミナトが大逆罪に選ばれれば、彼はミナトを殺さなければならない。同じ建物の中に居る彼女を連れ出すことすら、彼には出来なかった。


 トオノと他愛もない話をしているミナトとアラシを見ていると、このまま何も知らないまま日々を過ごした方が幸せなんじゃないかと、タカラがそう考えるのもわかるような気がした。

 もし自分がタカラと同じ立場だったら、きっと同じことをするだろうと、彼は白湯を飲みながら考える。


 * * *


 彼が一見のんびりと、その実暗澹あんたんとした気持ちで食後の余暇を過ごしていると「相席良いですか」と声をかけられた。

 研究所内の食堂を利用するほとんどは研究員である。執行課の制服を着た彼と相席をしたがるものなど、彼の同僚くらいだ。そもそも、相席をするほど込み合ってはいない。

 不審に思いながらも条件反射で「どうぞ」と答えると、彼はギョッとした。


 相席を申し出たのは、研究所トップ、ユラ・トンノロッソだ。

 その人と会ったのは、"テソロ"の被検体を見たあの日以来である。


「この前出来なかった話の続きをさせてくれないか。少しだけ、外を歩こう」

「外、ですか」


 現在の海洋国グラス・ラフトの平均最高気温は氷点下十四度である。

 今日は晴れており風もほぼないが、それでも氷と雪に覆われた外は睫毛がすぐに凍りついてしまうほどに冷えている。人間も人魚も、この寒さにはすっかりと参っていた。

 そんな中を歩こうなど正気の沙汰とは思えなかったが、上官の誘いを断れるはずもなく、彼は二つ返事で応えた。


 氷点下十四度の世界は、呼吸をするだけで凛冽な空気で肺が凍りつきそうだった。

 連れてこられた研究所の海洋実験場は、一部の海面が凍っている。

 海面の下からは、ホットケーキのように重なる氷のが見えた。このは、氷の中に閉じ込められた泡に霜ができたもので、綿のように真ん丸に固まっているものもあれば、氷の中に雪が入ったようなものもある。

 日の良く当たる場所では、強い日射で氷の内部が部分的に溶け、半透明の花を咲かせているものもあった。チンダル像と呼ばれるものだ。小さな頃、このチンダル像の花を母親にプレゼントしようとしたが、母に手渡すころには花は既に崩れていたことを思い出した。


「私は、貴官を一等佐官に推薦しようと考えている。今日はその話をしようと思ってこの寒空の下に貴官を連れ出した」

「一等佐官……。二等佐官になってからまだ二年も経ってないですよ、どうして私なんですか」

「まず一つ目の理由は、貴官がこの国を嫌悪しているからだ」

「!」


 ユラ・トンノロッソは真っ直ぐに彼を見つめた。

 その茶色の瞳が、彼の翠の眼を侵食し、枯らせていく。


「前にも話したが、貴官はこの国を『人魚の民』へと導く義務がある。この国を導くためには、この国を嫌悪していなければいけない。貴官ならば、この国を理解し、嫌悪した上で、合理的な解を持って最善の選択を選ぶことができる。自らの正義を諦め、利のための選択をすることができる。今の貴官と同じように。だから貴官なのだ」

「……お言葉ですが、私は、オレは、この国の行く末なんてどうでもいい」


 こんなことを話して、彼の出世の道は絶たれたかもしれない。

 それでも良かった。昇進するということは即ち、この狂った国の犬になるということなのだから。


「タカラを苦しめるだけの、人類がほんの僅か長生きするためのバカげた計画なんてさっさと頓挫してしまえばいい」


 女神の祝福で人魚を大量虐殺する計画がなくなれば、彼女は自由になれるし、ミナトやアラシが人質に取られることもなくなる。

 例え無意味だったとしても、革命を起こした方がまだ自らの正義をまっとう出来るのではないかと、そんなことすら思えてくる。


「人魚は、人間であり人魚なんだろ? なら、俺たち人間が滅亡したっていいじゃねえか。言ってることとやってることが矛盾してる」

「いや、違わない。人魚は、人間であり人魚だ。けれど我々人間は最後の最後まで、二本足で立つ人間として足掻かなければいけない。それが、残された人類の責任だ。貴官は、市民の最大の幸福のために謀り続ける。それが貴官の大切な人を守ることにつながる」

「それは詭弁だ!」

「貴官は、その詭弁を利用する。私と同じように」

「!」


 詭弁を、利用する。

 彼がその真意を問おうとすると、ユラ・トンノロッソは再び歩き出した。


 キュッキュと、雪が鳴る。

 押しつぶされた雪が苦しそうに泣いていた。


「貴官を一等佐官に推薦する二つ目の理由は、貴官は実に都合の良い存在だったからだ」

「どういう意味ですか」

「貴官が"詭弁"によって得るものは、『女神の護衛任務』だ」


 女神ミヨゾティ。

 ユラ・トンノロッソの話曰く、間もなく誕生するらしい。


「"崇拝の象徴"が簡単に死なれては困る。女神を護衛する必要があるが、誰でもいいというわけではない。そこで抜擢したのが貴官だ。護衛任務の請負条件は『我々を裏切らない信頼のある者』『その身を挺して護衛出来る者』だ」

「それを受けて、オレになんの得がある。オレはあんな人魚、どうなったって構わない」

「一等佐官になれば、テソロと、グラン・ハーバー調査員、アーシファ・サモトラケ研究医、三名の身も保証できる権限が与えられる。テソロの軟禁も貴官の監視付きでなら解除してもいい。、貴官との約束なら別だ」

「!」


 これが、彼に示す詭弁の正体メリットなのだ。

 人魚との約束に意味はない。つまり、タカラに協力をさせるだけさせて、その約束を守る気などハナからなかったのだ。

 護衛の任につけば、ミナトとアラシの安全は保証され、タカラも自由の身となる。


「しかし、一等佐官にならなければこの話は白紙に戻る。女神が死んでも同様だ」

「……」

「引き受けてくれるね」

「……はい」


 一等佐官昇進のために、彼は一つの任務を命じられた。

 それは、セダムの執行。

 シロイヒト。

 ——翠の眼の青年。


 青年の犠牲だけで、彼の最大の目的は果たされる。

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