22 ヒトの定義

 その日、彼はいつも通り出勤したが、出勤先に居たのは、海洋研究所のトップにして、トオノの父親、ユラ・トンノロッソである。

 なぜ、こんなところに居るのか。ついに機密事項の漏えいがばれたのかと彼は生きた心地がしなかったが、理由はどうやら違うらしい。


「貴官には、この国を『人魚の民』へと導く義務がある。ついてきなさい」


 ユラ・トンノロッソはそれだけ言うと、研究所の奥へ進んでいく。

 いつも失敗作を回収する研究室からさらに奥の、備品室と思しき部屋を通り過ぎると、二つの扉が現れた。眼の前には重厚な石の扉、右手にはやや錆びた鉄の扉。


「この右の扉の先には分娩室と防腐庫がある。用があるのはこちら。まあ、貴官が次にこの部屋に入るのはしばらく先の話になるだろうが」


 目前の扉は、右手の扉と違いかなり厳重な施錠がされていた。

 古臭いウォード錠が一つに、一般的なピンタンブラー錠が二つ、ロータリーディスクシリンダー錠(丸い窪みと線が特徴的な鍵)が一つ。


 重そうな扉を開けて電気をつけると、飛び込んできたのは、ベッドに眠り、大量の点滴を打たれたタカラだった。


「タカラ……!?」


 ベッドに駈け寄り、約一年ぶりに彼女の顔をその翠色の虹彩に映した。

 顔色は悪く、肌は異常な程に白いが、懐かしいその姿に涙腺が緩む。


「タカラは病気なんですか!?」

「落ち着きなさい、その子は"タカラ"さんではないよ、テソロだ。周りを見なさい」


 あまりの光景に、背筋に冷たいものが走る。

 周りにあるのは、たくさんのベッドと、それに備え付けられた生体情報モニタ。そして、その一台ごとに居る大量の点滴を受けて眠る"テソロ"だった。

 彼の眼の前にいる彼女は、そのうちの一人に過ぎない。


 よくよく見れば、テソロの顔はあまりにも懐かしい顔立ちをしている。ちょうど"タカラ"と初めて会った頃くらいのように見受けられた。


「この子は二十二年前に作成したテソロのクローンだ。この子宮の中には、人魚が居る」

「え……、は?」

「間もなくこの赤ん坊は成熟し、いよいよこの国に"人魚"が生まれる。」


 かけ布団をめくると、そこには生まれたままの姿の彼女がおり、そのお腹は大きく膨らんでいる。


 分かってはいた。タイプOを多く処分するようになり、次の対象はタイプT・テソロだと。

 しかし、想像するのと、目の前で実際にそれを見るのでは全然違う。


 ここに居るテソロは子宮なのだ、遺伝子なのだ。

 ——ただそれだけのために造られた。


 知っていたはずの、あまりにも生々しいその事実に、思わず目を背ける。

 この腹の中にいる赤ん坊が成熟したら、目の前の彼女はきっと、痛みを感じる間もなく腹を裂かれ、赤ん坊を生み落とす。役目を終えた彼女は、今度こそ眠りにつくのだろう。

 知らない間に彼女は生まれ、知らない間に彼女を生み、知らない間に彼女は死ぬ。そしてその最後の幕を下ろすのは、おそらく彼だ。


(いや、そもそも、本当に、「知らない」のだろうか。 本当はずっと意識があるのんじゃないのか。二十二年間ずっと)


 おそろしい妄想に、胃液が逆流しそうになる。

 そんな様子の彼を知ってか知らずか、ユラ・トンノロッソは彼女の膨らんだ腹に機械を当て、彼に話しかけた。


「このエコーを見なさい」


 生体情報モニタは白黒の画面に切り替わる。それは人魚の姿を映した。

 上半身は"ヒト"で、下半身は"サカナ"の、あの人魚だ。


「キミは一年前、これとよく似た形の人魚を処分したね? これは、あの人魚の後継だ。人間の女性から作ったクローン、タイプA・アンバーからオフィーリアが生まれ、テソロが生まれ、そしてついに真の人魚が生まれる。我々人類は、ついに先代達の悲願であった人魚に成るのだ」

「人魚に……」


 彼は、白黒のモニタに映る人魚を見て、想う。

 ――確かにその子は、元は「人間」の遺伝子からできたものだ。でも、改造に改造を加え、今、この人魚の中の何パーセントが「人間」の遺伝子を持っているのだろう。これでも俺達人間が、「人魚になった」といえるのだろうか。


「私たちは、本当に人魚になったのでしょうか」

「なったさ。機械や技術を借りて生まれた、例えば体外受精した子は、人間だ。姿かたちが少しくらい違ったって、身体に機械が埋め込まれていたって、自らの技術を使って顔や内臓を切り張りしたって、人間だ。 人間としての遺伝子も知能もある。心もある。人類としての文化や歴史も受け継ぐ。この子どもは人間で、そして人魚だよ」


 ——でも、この子は、本当に人間なのだろうか。人間以外の遺伝子が入ったこの子は、人間なのだろうか。

 ——人間以外の遺伝子が入ったら人間ではない……? そうなのか? 違う、そんな単純なものじゃない。

 ——じゃあ、人魚は人間か? ミナトは? アラシは? タカラは? 目の前にいる"テソロ"は?


 何を持って人間と定義するかなど彼にはわからなかったが、少なくとも彼にとって、人魚は彼の子孫という意味での人間ではない。


 人魚は、やはり、人魚という新たな種なのだ。それは、人類の進化などではない。


(……オレ達は、人魚になんて。オレ達はまるで神になったかのように、新たな生き物を造り出しただけだ。そうだ、昨日ミナトと話した通りだ。人類は絶滅する。そして、絶対にそのことに気付いてはいけなかったんだ)


 彼はこの世界のすべてがバカらしくなってしまった。

 あまりにも無意味で、狂っている。

 彼は今まで、何のために殺してきたのだろう。


 焦点の定まらない眼で彼女を見つめる彼を見て、ユラ・トンノロッソは小さくうなずいた。モニタの画面を生体情報の画面に戻し、眠る"テソロ"にそっと布団をかける。


 その布団の風に煽られ、彼の鼻孔に、懐かしい"タカラ"の香りが入り込んだ。

 匂いは記憶を呼び覚ます。楽しかったあの日々が、彼の頭の中を駆け巡った。






 "私はまったく怖くない。だって、これをするために生まれてきたのだから"

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