19 赤い海 1/2
二日後。
翠の眼の青年の言う通り、彼はテソロの実験の警護任務が課せられた。
海底調査員の頃は毎日のように潜っていた海だが、実験警護執行科になってからはほとんどが地上での仕事で、海に潜るのは随分と久しぶりのことである。
分厚いインナーの上から首と手首をしっかりとゴムで密閉した潜水スーツを着込む。手には分厚いグローブ、目と口以外の全てを黒い布で覆い、氷点下の海水の冷気に備える。腰には八キロの重りをつけ、酸素の入ったタンクを背負い、長い足ヒレとマスクをつけた。
ガシャガシャとたくさんの装備を背負って海に入っても、彼が入れる時間は長くて二時間。乾いた空気で肺を満たし、ガチガチに凍えた筋肉を無理矢理動かし、分厚い衣服に足の爪先から頭のてっぺんまで覆っていても、わずかに露出した唇から徐々に彼の体は凍っていく。
それでも、彼は海の世界に魅入られるのだ。
(なんか、今日左耳が抜けねぇ……)
水圧で耳の鼓膜が圧迫され、ひどく痛む。鉄の指に耳の穴を突かれたようで、ジンジンと鼓膜が痛む。潜行を中断し、少し上に戻ると圧迫は緩和されるため、グッと喉に力を入れて、鼓膜への圧力を体の内から押し返した。
ゆっくりと耳抜きをしながら目標の水深二十メートル地点まで進む。
ホッと一息ついて上を見上げるまでが、彼のルーティーンだ。この行為によって首の隙間から若干の水が入ってくるのも常だが、それでも構わない。
太陽が揺らめく水面は、タカラの瞳と同じ、冷たい金色。
海の中は何の匂いもしない、音は、彼の呼吸の音と、たまに聞こえるクジラの声のみ。
彼の体を締め付ける水圧と冷たさはいつも変わらない。
だからこそ、彼にとってはその視界に映るものが全てで、彼の意識はいつだって視界に支配されている。音も匂いも酸素でさえも、彼にとっては二の次なのだ。
『大丈夫?』
彼と同じ実験のサポートに入った同僚は心配そうに首を傾げなから右手の親指と久し指で丸を作る。
彼も右手で丸を作ると水中銃を構えた。
実験警護執行科として、今日は水中実験の「警護」の任務だ。
事前に聞いた実験内容は「タイプT型人魚の
人魚の人体実験は、内容が内容なだけに人魚のサポートはほとんど入らない。しかも新しく生まれたタイプT型人魚の実験ともなると、一級極秘実験になるため、今日の人魚のサポートはテソロのみだ。
タカラの腕がそっと解けると、人魚はその小さな体躯からは信じられないほど早い速度でタカラの回りをぐるぐると回った。
「……!?」
ぼごっ、と空気が漏れる。
小さなそれはまさしく人魚で、それは稚魚だ。
海色の髪と同じ、下半身が海色の鱗に覆われ、その足先は
人魚の完成は近い。数年前からそれは言われていたが、彼の目には御伽話の人魚がそのまま現れたように見えた。
「みどり!」
海の中にいるはずなのに、クリアな声が聞こえる。近くにいればある程度の声は聞こえるが、同僚の吐く泡は規則正しい小さな水泡だ。
クジラの声のように響く、人間の声。
「みどりー!」
声が近づいてくる。
稚魚が彼めがけて一直線に泳いだ。
(みどりって、オレの眼の色のことか? あの距離で、緑色が識別できるのか? それに、声……、クジラがしゃべってるみたいだ)
水の分子は赤色を吸収する性質がある。だから、海は青いのだ。
海の中では、遠く離れた場所から青と緑を識別することは難しい。水深二十メートル地点ではまず不可能だ。けれど、その小さな人魚は彼の翠色を識別しているらしい。
呆気に取られた彼は、そのまま稚魚を迎え入れることしかできなかった。
分厚い手袋越しに、確かにその稚魚の体を感じる。
見れば見るほど、それはテソロの——タカラの親戚だと言われたら二つ返事で納得しそうな見かけをしていた。言葉を覚えたばかりの、小さなタカラ。人間換算すると、大体三歳くらいの人魚に見えた。
タカラが、稚魚の後を追ってやってくる。
足ひれも何もつけていないが、滑らか身体をしならせて泳ぐタカラは、全力で泳ぐミナトと同じくらいの速度で彼のところに到着した。
彼が稚魚を差し出すと、タカラは稚魚の手を引っ張り、そのまま戻っていく。
上から下まで防護服に覆われているため、彼の正体には気付かなかったらしい。
(タカラ……)
——自分の正体を貴方にだけは知られたくなかったんです
——どうしてテソロが正体を隠したかったのかわかりますよ
地獄のような実験が、幕を開ける。
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