10 水色の髪の人魚

 彼の初仕事が終わる。

 その足は自然と翠の眼の青年の独房を訪れていた。これで青年の独房を訪れるのは何度目だろうか、彼はすっかりこの独房に入り浸っている。


「看守さん、どうしたんですか? 元気ないですね」

「そう見えるか?」


 彼はちっとも悲しくなんてなかった。彼は、どこまでも冷静で、その心は凪いでいる。

 生まれたばかりの罪なき命を葬ったが、彼はなんとも思わなかった。強いて言えば、何かを殺すときの引き金と、練習で打つ引き金の重さは、やはり等しく同じだった。そう思っただけだ。


 初めての打診の日から毎月、身体適正検診時に注射を打たれた。栄養剤や感染症の予防と言っていたが、きっとそうでないものもあったのだ。そうでなければ、ここまで自分が冷静でいられるはずがない。――薬物により精神をむしばまれている。これは不可抗力だ。

 そう、彼は自分自身に弁明をする。


「今日、初めて新しい業務に就いたんだが、……自分はとても冷たい人間なのかもしれないって思っただけだ」

「何を言っているんですか。仕事ですよ、仕方がないことです。貴方は正しいことをしたんだ。それが例え貴方の心に反するものだったとしても」


 ――仕事だから、仕方がない。

 ――貴方は正しいことをした。それが例え貴方の心に反するものだったとしても


 青年の言葉は心地よく耳朶じだを打った。

 彼の持つ最後の呵責が赦されていくような気がして、彼は思わずそれに縋りたくなる。彼は心の奥底で、青年がそう言ってくれることを期待していた。青年もタカラも、彼が望んだ言葉をかけてくれる。

 他者から言われることで、それが正しいことであると脳内で変換される。そうすると、彼の心はすっと楽になるのだ。だから、心地良い。


「そうだ、看守さん。この新しい本、やっぱり面白いです」

「『BOOTLEG』か」

「はい、昔陸にあったイギリスっていう国の本らしいです。作者は"アレックス・シアラー"、チョコレートが食べられなくなった世界の話です。そんな話を読んでたらチョコレートが食べたくなってしまいました」


 青年は目を細めて笑い、彼にチョコレートを握らせた。彼の鼻孔は漸くチョコレートのたおやかな刺激を感知する。遅ればせながら、部屋にはチョコレートの匂いが充満していることに気付いた。

 チョコレートは、この国では最高級の嗜好品だ。それを被検体である青年がなぜ手に入れられるのか疑問に思ったものの、青年の笑顔を見ていると、そんな些末なことはどうでもよくなった。

 彼はいつも、ここで、青年となんでもない話をする。青年と話をすると、彼はすっと心が楽になる気がした。最初は青年とあまり関わってはいけないと己を律していたが、ついここに足を運んでしまう。それを咎める者も居なかった。


 青年の翠の瞳、先ほどの紫の瞳、ミナトの青い瞳。走馬灯のように彼のメモリが


「看守さんはテソロに会ったことがありますか?」


 青年はにこにこと笑ったまま、パタンと読みかけの本を閉じた。


「噂は聞いたことがあるが、水色の髪の人魚、だろ?」

「はい。この世で最も"人魚"に近い存在です。ボクたち普通の人魚より遥かに優れた身体能力を持ち、反響定位エコロケーションの衝撃波で正確に物体の位置を取ることはができるんですって。すごい子ですよ、本当に」


 水色の髪の人魚。この世で最も"人魚"に近い存在。

 人魚は白い髪を持つというのがセオリーだが、その人魚は水色の髪をしているという。

 有名な話だが、彼はまだ一度も彼女に会ったことがなかった。彼どころか、この直径二十二キロメートルの小さな国にも関わらず、彼女を目撃した者はいない。


「それがどうしたんだ?」

「ボク、この前久々に彼女に会ったんですよ」

「会ったって、実在してたんだ。つーか女だったんだな」

「当たり前じゃないですか、今度会ってみたらいかがです? なかなかの美人さんですよ」

「いや、オレ好きな人いるし」

「タカラさん、でしたっけ。そういえば以後の進捗はどうなんですか?」

「オレの話はいいから! で、そのテソロがなんなんだよ」

 

 ふふ、と青年は淡く笑うと、一つ咳払いをして話を続けた。


「彼女と初めて会った時、桜みたいだと思ったんですよ」

「サクラって?」

「東の島国のニホンという国に咲く、ピンク色のお花ですよ。一週間で散ってしまうそうですが」

「一週間って、短いな」

「それがいいんです」

「でも、よく覚えてたな。そんなマイナーな花」

「ええ、時間だけはあるので」


 そう言って青年は部屋の壁を見つめる。何かをひどく懐かしむような目だ。

 青年の部屋には本棚などなかったが、もしこの部屋に本棚があったら壁一面びっしりと本で埋められていたことだろう。この独房に私物を持ち込むことは出来ず、本は返却しなければならない。青年は一字一句忘れない、と何度も同じ本を読んだに違いない。――彼は青年の視線の先を見つめながらそう思った。


「あ、話が脱線してしまいましたね。そう、ボクはテソロを見て、サクラのようだと思ったんです。出会った当時はまだボクも彼女も幼かったけど、儚くて、きれいだから」

「どうして桜なんだ? 儚くてきれいなものなら他にもたくさんあるだろう? 例えば、雪とか」

「テソロは、触れたら消えるような弱い人じゃないです。彼女はとても凛としているし、雪みたいに冷たくない」


 青年がそう思うのならそうなのだろう、と彼は納得したが、どうやっても「桜」と彼女が結びつかなかった。

 寒々しい冬のような水色の髪と、金色の瞳を想像する。


「でも、あの水色の髪だぞ。サクラか? 目が、ピンクとか?」

「いや、目は一般的な金色ですよ。でも、彼女の生き方はまるで、ソメイヨシノだ」

「ソメイヨシノ?」

「桜の名前です。ニホンで一番好まれていた桜の名前」


 青年はソメイヨシノについて語った。

 きれいな桜ときれいな桜を組み合わせて作った人造の桜の木。木は子を持たず、ニホン中にあったそれはすべてクローンだったという。春が来ると、木は一週間だけ花を咲かせ、すぐに散ってしまうそうだ。ソメイヨシノは成長は早いが、寿命も短い。


「それにほら、ニホンでは"サクラの下には死体が埋まっている"って言うらしいんですよ」


 まさしくテソロじゃないかと、青年は笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る