私たちは一つの人生しか生きられないし、信じたようにしかそれを生きられない
09 薬莢
太陽が沈むと、反対の空には地球
見慣れた地球
朝から、ずっと心がざわついていた。初仕事への緊張感ももちろんあっただろうが、その理由に確たるものはない。ただなんとなく、ざわついているのだ。本能が何かを告げているが、それが何なのか彼にはわからない。
言い知れぬ不安のような何かを纏ったまま、彼は研究所の門をくぐった。
「おはようございます」
「ああ、来たか。では早速だが、"仕事"だ」
真っ白な壁と床で構成された迷路を進み、分厚い白い扉を開ける。中からはむっと薬品の匂いがした。病院のような滅菌・殺菌の匂いというよりは、ホルマリンを想像させるような、少しどろりとした匂いである。
奥の部屋からは小さな赤ん坊の泣き声とよく似た鳴き声が聞こえる。人間と何かが混じったような、気味の悪い声だ。
嫌な予感がした。
「今日からキミには、実験後の処分を行ってもらう」
赤ん坊は、人間の形をしていた。
髪は銀色。その目に白眼はなく紫色の瞳だけが鎮座している。口は人間にしてはやや大きく、体にはいくつか杭を穿ったような穴が空いていた。誰かが空けたわけではない、最初からその穴は開いており、うっすらと血が通っているのがわかった。
口の中が一気に水分であふれ、胃液が逆流しているのを感じる。それは想像以上に凄惨で、衝撃的な光景だった。
「遺伝学的にはイケると思ったが、出来上がったのはこの通り醜い出来損ないだ。……落ち込むね」
「やっぱり子宮ですよ! 子宮!!」
「子宮は時間もかかるし、何より母体のリスクが高すぎる。壊れてしまった場合を考えろ。子宮は高いんだぞ」
そんな研究員のおぞましい会話に彼は耳を塞ぎたくなる。
彼は後悔した。とんでもないところに来てしまった。
――ここは地獄だ。
この国は「人魚を造る」ことを悲願としているため、日夜、人魚を造りだすための研究を重ねている。当然、失敗することだってある。
町中にいる人魚だって、ヒトとクジラの遺伝子を組み合わせて造った、自らとよく似た「別の種類の生き物」だ。翠色の目の人魚が生まれれば
「あちらにも失敗作があるので回収お願いします」
口の中はまだ酸っぱいままだが、彼はどうにか立ち上がった。
彼が持たされた箱の中には、不気味な声で泣きわめくナニカと、左手の人差し指から小指までがすべてくっついたナニカが入れられていた。
彼は研究員に頭を下げ、上官と共に迷路のような通路を抜ける。
扉の先には、四方を灰色のコンクリートに囲まれた無機質な部屋が待ち受けていた。
「"執行"って、こういう意味だったんですね」
「この国の秩序のための"執行"だ。この国の裏側を知ったものでなければ、当然この国のトップに立つことは出来ない。キミはこれから様々な真実を知ることになるだろう。そのすべてを知ったとき、キミにはそれに相応しいポストが待っている」
「……」
鉄と潮と、何かが錆びた匂いがする。
その部屋の床の半分は赤黒く染まった灰色のコンクリートで、もう奥半分は北から南へと海水が流れている。海水が流れる北の穴も南の穴も、人が入れるくらいの大きさがあった。
「この海水は君が以前担当していた海底調査班の潜行ポイントから、クジラやイルカの動物実験室を通り、この南執行室へと流れ、水路の先にある粉砕装置と濾過装置を通って海へと還る。この部屋は三つある執行室の一番南側にある部屋だ。北側の二室から処分されたモノや、実験室から死んだクジラやイルカが流れて来るのを目撃することも少なくない」
そうか、だからここの海は少し、淀んでいるのか。彼の眼にはそう見えた。
「銃を構えろ」
彼は言われた通り、ライフルの安全装置を外し、専用ゴーグルで目を覆う。
彼は射撃場で何度も射撃の練習をしていたが、威嚇射撃や牽制のためではなく、命を奪うために撃ったことは——脱走する人魚を殺した、一度だけだ。
あの時の人魚殺しが高く評価され、こんな仕事をさせられているのだから皮肉だ。
「これは、貴官の仕事だ。動物被検体、失敗作。執行対象には、例外なく"執行"してもらう」
「はい……」
「用済みとなった被験体にも、例外なく」
「!」
翠の眼の青年と、青い瞳の親友が頭をよぎる。
赤ん坊の鳴き声が無機質な壁に反響して、彼の頭に強く響いた。頭が痛い。彼はもう、戻れないところまで来てしまった。
「さあ、引き金を引け」
ライフルの重みは、何故だか彼の心に安寧をもたらした。
熱を帯びていた彼の心は急激に冷めていく。
深く呼吸をし、肺の中の空気をすべて吐きだした。そして床に置かれた箱に向かってそれを二発放つ。
箱からは赤い水が飛び散り、床を汚していた。
彼と上官は、鉄の箱に入った肉片を部屋に流れる海に流す。
何もなくなったその部屋に残った赤い汚れを備え付けのシャワーで洗い流したが、赤い水は床にうっすらと色を残したまま、いつまでも消えることはなかった。
――"人魚に支配されるのか、それとも皆殺しにするのか"
人魚は支配などしない、人魚の手綱は彼が握っているのだ。もし反旗を振りかざすといういのなら、皆殺しにするまで。仕事だからな、仕方がない。
そう言ったのは面接官の話す主人公だっただろうか、それとも自分だったのだろうか。
彼にはもうわからない。
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