08 キミにだけは赦されたい

 トオノと処刑場での邂逅を果たした数日後、彼は久々に『ツナ缶』を訪れた。

 いつものカウンターのいつもの席には、いつものようにミナトが座っており、カウンターの奥からはトオノが明るい声で彼を出迎える。


「ご、ごめん、ミナト。思いのほか忙しくて」

「忙しかっただけ?」

「……ああ」

「それならいいや」


 定位置となった彼の席には、蜂蜜酒ミードが丸い氷をやんわりと溶かしながらそそがれていた。


「ほんっとに随分久しぶりだね」

「タカラも、悪かったな」


 研究所では、日夜人魚が人体実験をされている。

 最初は採血やちょっとした観察だったが、日に日にそれはエスカレートし、人魚に色々なものを食べさせてその結果を見たり、活動限界まで海の中に沈めたりといった非人道的な調査も行われ、つい先日、脱獄者を容赦なく執行——銃殺した。

 翠の眼の青年のような罪人を閉じ込めておくこともある。


 彼が『ツナ缶』を訪れなかった理由の大半がその居たたまれなさから来ていたが、ミナトやタカラの顔を見てホッとした。

 ここでは何も変わっていない。変わったのは、彼が見ている世界だけだ。


 ミナトは人差し指の腹で蜂蜜酒ミードの入ったグラスを小突く。本人は気付いていないが、ミナトが何か悩んでいるときにする癖であることを、彼は知っている。


「なあミナト、久々に二次会しねーか? 積もる話もあるし」

「いいよ。僕の部屋においでよ」


 それは思いがけない申し出だった。ミナトと共に飲むようになってから長いが、昼に会ったこともなければ、家に呼ばれたこともない。二人で二次会に行くことはなくはなかったが、それでも片手で数えられるほどだ。


「ハヤトの部屋でもいいけど」

「オレの部屋は人を呼べる状態ではない」

「じゃあ決まりだね」


* * *


 ミナトの部屋は、建物の外観と同じく質素な部屋だった。最低限必要なものしかない部屋は、片付いているというより、散らかるほどモノがない、と表した方が正しい。

 彼の雑然とした部屋とは大違いだ。


「まあ、話はすぐに終わるんだけどさ」

「おお、どうした、好きなやつでもできたか?」

「まさか」


 彼がミナトに覚えた第一印象を思い出す。

 第一印象は女みたいなやつだと思って、その次は、――浮世離れしたやつだ、彼はそう思った。

 何か突飛な行動が目に付いたわけではない。ミナトはとにかく、この世の小さなことから大きなことまで、無頓着だった。世間俗事の煩わしさから超然としていて、その儚げな容姿と相まって、生きているのに、その中身は死んでいるようだった。その無頓着さが、彼にはとても居心地がよかったのだけれど。


 上着を脱ぎ、二人は簡素なソファに向かい合って座る。

 じっとミナトの言葉を待った。


「君には恣意しい的な判断をして欲しい。創造主たる、キミたち人間にとって、僕は罪なのか」

「やめろよ、人間とかそんな、オレ達には関係ないだろ」

「そう言ってくれて嬉しいよ」


 ミナトの言葉の真意がわからず、彼はただ当惑するばかり。


(オレ達には、関係のないことだ)


 つい今しがたミナトにかけた言葉を反芻はんすうする。その心に偽りはないはずだ。


 彼は、息をのんだ。

 明るい星空のような青い瞳は、白目に対して瞳の比率が大きく、白と青にハッキリと別れた印象的な瞳だった。ミナトが男ではなく女だったら、きっと彼は「吸い込まれそうな瞳だ」と表現しただろう。


 ミナトはおもむろにナイフを取り出すと、手の甲を切った。

 その手の甲からは涙が流れる。透き通った、透明の血だ。


 ――翠色の瞳の人魚は殺処分される。なぜか。翠色の目の人魚には透明の血が流れていて、その血には人魚を殺す毒が含まれているから。

 ミナトの目は青いが、その血の色は透明だった。


「やはり、オレ達には関係のないことだ」


 考える間もなく、そんな言葉が彼の口から突いて出る。彼は久々に自分を好きになれた気がした。


「キミが『ツナ缶』に来なくなった間に姪が生まれたんだ。でもね、その子は翠色の目をしていた。キミと同じ、翠色の目。僕と同じ透明の血だから、彼女の目は翠色になってしまったんだと思う。僕の一族ではよくある話さ」

「……オレに、その姪を救ってほしいって話か」

「違うよ。彼女はもう、海の中で殺した。だって、そうしないと透明の血を持つ僕たちの一族はみんな殺されてしまうかもしれない。僕たちの家だけじゃない。多分、青い瞳の人魚もみんな殺されてしまう。でもさ、透明の血に毒なんか含まれていないんだ」


 知ってるよ。

 そんなこと、研究所の人間も、オレみたいな実験警護執行官ですら、透明の血に毒なんか含まれていないことは知っている。

 そう、彼は心の中で続けた。


「キミにどうこうしてほしいって話じゃない。でも、誰かに聞いて欲しかった。それがキミだった。翠の瞳の人魚が生まれたのは、僕にとっては初めてだったんだ。だから……」

「ごめん……」

「違う、キミから謝罪の言葉を聞きたかったんじゃない。……僕は、キミにだけは赦されたいんだ。キミのこと、大切な相棒バディだと思っているから」

「赦すも何も、罪深いのは翠色の瞳でも、透明の血でも、二百年前に処刑された人魚でもない。きっと、本当に罪深いのは——」

「いいんだ、ありがとう。女神様とハヤトに、最大級の感謝を」


 ミナトは胸の前で両手を組むと、彼の青い瞳が、緩やかな孤を描く。

 目尻が下がり、口角が上がって、顔の中心にしわがよる。いつもきれいに澄ましているが、ミナトの笑顔はくしゃっとしていた。

 ミナトの笑顔を久々に見たことを、彼は遅ればせながら気付いた。






 "あなたが何者であるかを放棄し信念を持たずに生きることは、死ぬよりも悲しい。若くして死ぬことよりも"

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