07 真水の池に毒を入れた

 ブリザードが過ぎ去り、人々は凪を歓迎した。

 だが、彼は執行課へ異動してから一度も『ツナ缶』を訪れていない。

 明後日また行こう、とミナトとした約束はもう何日も守られることなく過ぎていて、こうして扉の前に立ち尽くすのも二度目である。


 扉が開いてタカラやトオノが彼を招き入れないか、後ろからミナトが声をかけてこないか、そんなことを期待して、誰も現れなかったことに安堵あんどしながら今日もきびすを返す。

  この三叉路を左に曲がれば海洋研究所と寮があり、右に曲がれば居住区や店がある。

 彼は何ともなしに、その三叉路を直進した。


 彼はそこを目的地としていたわけではないが、気が付けばそこに着いていた。

 そこは、小さな処刑台がポツンと一つあるのみの、氷の地表。


 この国で最も重い罪である「殺し」を犯した場合ですら、基本的にこの処刑台が使われることはなく国外追放となる。その実は、人権が奪われ、研究所の被検体になることだったが、ここで処刑される者のほとんどの罪状は、革命行動等を含めた不敬罪で、それを処すのは執行官の役目だった。


(悪い人魚は、執行官に殺されてしまう。

 オレは今日、研究所から逃げようとする犯罪者を……。

 ——人魚を、殺した)


 彼の心が少しずつ冷えて、固まっていく。

 いつか、あの翠の眼をした青年の瞳を見つめても、心はフラットなままになってしまうのだろう。

 当然彼にそんな自覚はないが、無意識の海の底で彼は悲鳴をあげていた。彼の無意識は、彼をここまで連れてくるという形で警鐘を鳴らしたが、彼はその事に気が付かない。


 後ろから、小さな足音が聞こえた。


 彼は反射的に護身用の銃を構え、後ろを振り返る。即座にその火口を向けるが、気がつけば銃はその手から離れており、一拍遅れて痛みがやってきた。「びっくりしたー」と聞きなれた声に、はぁ、と一息つく。彼の熱い呼吸は、水の粒子へと小さな音を立てて変化した。


「……やっぱり、只者じゃないっスね」


 曖昧に笑うのは、『ツナ缶』の店長、トオノだ。茶色い髪と明るいブラウンの優しい瞳に思わず泣きそうになる。


「ハヤトくん最近来ないじゃない、仕事忙しいの?」

「ええ、まぁ……」


 なんと答えれば良いかわからず、彼は曖昧に言葉を濁した。


「知ってはいけないこと、知りたくなかったことを、知ってしまったんだね」

「!?」


 トオノは彼の瞳の奥を一瞬だけ覗き、処刑台へと視線を移す。彼もその視線を追った。


 彼自身まだ二十七だが、トオノはそれ以上に若い。

 トオノの知性や物腰の柔らかさからは育ちの良さが伺える。人徳の所以たる彼の公平さ、博識さには眼を見張るばかりで、とにかく聡い。

 どこかの良家の子息で、調べればすぐにトオノの正体はわかったと思うが、あえて彼はそれをしなかった。あそこでは、ただの「ハヤト」であり「トオノ」でいたかったのだ。トオノもそれを望んでいることを、彼は知っている。

 けれど、トオノの意味深な発言は彼の探究心を大いに刺激した。元来、人間は知りたがりな生き物である。


「トオノさんは、ほんと、何者なんですか?」

「ボクは、ただの小さなバーの店長だよ」

「白々しい嘘はやめてください」

「ハヤトくん、ボクは別に何者でもないんだよ。ただボクの親が、……研究所のトップだって言うだけ」

「トップって、ユラ・トンノロッソ長官……!? の、息子!?」

「そうだよ。ボクの名前は、オクナ・トンノロッソ。だから、あの研究所の闇を、結構知っている。それが嫌で家を飛び出して、勘当されて、あんな辺鄙な場所で小さな店を開いたんだ」


 それだけ言って、トオノはいつもの柔和な笑みを彼に向けた。

 その笑みは、これ以上何も聞くなという意味だと悟り、吐き出そうとしていた言葉を飲み込む。


「ここで処刑された人魚って、どんな罪で処刑されたのか知ってる?」

「……虐殺のジェノサイド罪、でしたっけ。"真水の池"に毒を入れたとか」


 二百年前、真水の池——この国では貴重な飲料用の貯水タンク——に毒を入れ、数多の"人間"を毒殺した事件だ。多くの人間は死に、研究所は少なからぬ被害を受けた。なお、その事件の人魚の被害者はゼロだ。当然である。真水は高級だ。基本的に人魚は真水を飲まず、海水を飲んで生活している。


「その実行犯は翠色の目をしていたんだ。だから、翠の眼の人魚の血には猛毒がある、だなんて言われている。そんなの嘘なのにね」

「……この前、聞きました。あれは嘘だって。今でも翠の眼の人魚を処分する理由はこの国食い扶持を減らすためだけだって」

「二百年前の事件の時、彼や彼の家族だけじゃなく、翠の眼の人魚も全員処刑した。それでも、たまに翠の眼の人魚は生まれてくる。だから適当な理由をつけて殺すことにしたんだよ。今となってみれば、その翠の眼の人魚が本当に毒を入れたのかすら怪しい。ボクはこれ以上罪を背負いたくない。だからあの家から、あの組織から逃げ出したんだ」

「……」

「この国の人魚の目は大半が金色だ。だから、この国が困窮した時、次に殺されるのはミナトくんみたいな青い瞳の人魚かもしれないね」

「そんなこと、させませんよ」

「そう、できたらいいね」


 トオノは再び彼に向かって、にっこりと笑う。 彼はその眼を知っていた。

 タカラと、同じ眼だ。

 彼を憐れみ、彼を赦してくれる。


「生きているだけで、罪深いよ」


 トオノが言葉を紡ぐごとに、空気は固まり水へと変わる。

 罪深いのは、翠の眼の人魚なのか、はたまた――そんなことを聞くのは野暮が過ぎる。

 処刑場は不気味なほどに静まり返っており、自らの心臓の音が耳障りなほどだった。


「眩しくなったら、その眼を潰してしまえばいい。そのまぶたの裏に何が焼き付いているのか知ることが出来る。光の残滓があなたをあまねく照らしてくれる」


 トオノは処刑台を見つめたまま、そう呟いた。


「何かの一節ですか? 聖書?」

「聖書じゃないよ。タカラの受け売り。……タカラはさ、そのまぶたの裏に何を見たのかな」


 きっとタカラは、形容しがたく、名状しがたい、ひどく美しいものを見たのだろう、彼はそう思った。

 水の粒子となった白い息が、闇へと溶けていく。





――その日の晩、彼は寮の部屋でしっぽりと晩酌をし、程よく酔いが回ると明かりを消した。ふかふかなベッドに身をゆだねると、夢うつつの中、ふと先日行われた面談が脳裏に浮かんだ。


 男は彼に意味の分からない問いかけばかりする。

 面談はいつも彼の終業後に行われていた。面談とはいえ、最初はいつも、男の小話だった。何か足りない面がある主人公が、達成が難しい目標に、様々な障害を乗り越えて向かっていく。男は大袈裟過ぎるほど大きな身振り手振りを、そして同じフレーズを使い、二者択一を何度も彼に迫る。


 "人魚に支配されるのか、それとも皆殺しにするのか"

 男の選択はいつも極端で過激だ。人魚は支配などしない、人魚の手綱は彼が握っているのだ。もし反旗を振りかざすといういのなら――皆殺しにするまで。仕事だからな、仕方がない。彼は無感覚になる自らを許し、赦すのだ。


 男はいつもそんな小話をした。

 小話が終わると、例の意味のわからない質問が始まる。それが何の意味があって、何を意味するのか彼には見当がつかなかった。


 「君の前には今、皿がある。それはどんな皿で、中には何が入っている?」

 

 (透明の、薄くて、少し欠けているガラスの皿だ。中には何も入っていない)


 闇へと溶けた水の粒子と同じように、彼の意識も微睡の闇の中へ溶けた。

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