05 食べかけのビスケット
三ヶ月後、海底調査員勤務最終日。
通い慣れた氷の道をサクサク歩き、小さな桟橋に停泊した船の二重扉を開ける。
「やあ、二人ともおかえり!」
「ただいまー店長。お腹すいたー」
「トオノさん、ただいまっス」
二人を迎えたのは、BA R『ツナ缶』店長・トオノ。ハヤトやミナトより少し年下の彼は柔らかい色をしたブラウンの髪と瞳を持つ、この国で二割しかいない"人間"だ。
トオノのゆっくりとした話し方は、バーのゆったりとした雰囲気とよく合っている。
「今日、最終日だったんでしょ? お疲れ様、この
「えっ、いいの?」
「五年もハヤトくんの
いつものカウンター席に座る二人の前には、いつも頼む
「ワイングラス? もしやワインがあるのか!?」
「残念、ワインはないよ。ブドウは絶滅したまま。あるのは
「た、タカラ! その抱えてるビンは高級
「そうだよ」
「うおおおおおお!!」
ハヤトは喝采をあげ、ミナトはじっと黙ってその様子を眺めている。その青い瞳は琥珀色に染められ、湖面に浮かぶ月のようにキラキラしていた。
高級
ボトル一本でハヤトの給料一ヶ月分はする高級品だ。そこそこ良い給金をもらっているハヤトで一ヶ月分なのだから、人によっては二ヶ月、三ヶ月分してもおかしくない、正真正銘の高級酒である。
トクトク、トクトク。
ワイングラスに入ったまんまるの氷が、柔らかく琥珀色に包み込まれていく。
「はい、どうぞ」
「ハヤト、今ほどキミの
「お前のそういうゲンキンなとこ、嫌いじゃない。お疲れ!」
二人はグラスを傾ける。
それから数分、二人は黙ったまま、グラスに口をつけることもなく、静かに目を閉じていた。
「あれ、美味しくない?」
「ふふ、本当に美味しいお酒を飲むとああなるんだよ。タカラも一口どうぞ、はい、乾杯」
「いいの? 高いのに」
「いいんだよ。いつもありがとう」
タカラも、先の二人に
「っっあー……、うますぎ……、なあ、そうだろタカラ」
ハヤトの問いかけに、タカラも無言でコクリとうなずいた。
「やっばいねハヤト、あれはやばい」
「やばいな。うますぎる」
「香りが良すぎて、喋るのもったいないっていうか、息するのも勿体無いよね。なんなら僕は息を止めた。でも呼吸することで香りがまた立つから悩ましい」
「なんだその悩み。でもわかるぞ、一生口の中で転がしたい」
「完全同意。しかもまだ、こんなにある……最高。僕は今日死んでもいい」
「それな」
* * *
通い慣れた氷の道をそっくりそのまま逆方向に歩く。
人間のハヤトは何枚も服や防寒具を着込むが、人魚のミナトは薄い白シャツ一枚だ。人魚の適正温度は氷点下三度から
「お祝いとか言って、結局ボトル買わされたな。まあ相場よりは安いしめちゃくちゃうまかったけど」
「物腰柔らかだし全然押し付けがましくないのに、なんか気がつけば結構な額のお金払わされてる気がする。店長はなんやかんやウマイ商売人だよね」
ハヤトの右手には"アンバー"のからビンが握られている。
この国の物資は有限なためビンそのものも高価だが、異動祝いとしてトオノから有料でプレゼントされたものだ。ニマニマと口角をゆらし、頭上の月に重ねる。
「何やってんの?」
「今日のみやげは、食べかけのビスケットにしようと思ってな」
「は? 食べかけのビスケットって……、月? キモ」
「お前本当に口が悪いな」
「僕じゃなくてもキモイって言うよ、今のは」
「久々にナイト・ダイブしてーな。夜間調査、結構好きだったのに。異動したら夜間に潜ることは無くなるだろうな、それだけが残念だ」
ハヤトの言葉を聞き、ミナトも空を見上げる。
けれど、歩みは止めない。
「僕はさ、小さい頃、月の色は緑色だと思ってた」
「ああ、海の中から見ると緑色に見えるよな」
「だから初めて地上で月を見た時びっくりしたんだ。緑色じゃないし、いつもは白みたいな、黄色みたいな色をしてるのに、ピンクになったり、オレンジになったり、赤くなったりする。たまに大きくなるし」
「なんだっけな、あれ、理由」
「目の錯覚だったかな? 忘れた」
二人は視界の端でぼうっと月を捉えながら氷の道を進む。
今更無言で歩いていたところでなんとも思わないが、ハヤトは謎の居心地の悪さを感じていた。ふと隣を見ると、先ほどまで空を見上げていたミナトがとぼとぼと足元の氷を見ながら歩いている。
この氷の道は決して安全なわけではなく、何も不思議な光景ではないはずなのに、なんだかミナトが寂しそうに見えた。——彼の心が、そう思わせているのかもしれない。
「明日は初出勤日だから難しいけどよ、明後日また行こうぜ」
「うん、そうだね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます