02 BAR『ツナ缶』

 通い慣れた氷の道をサクサク歩くと、港と呼ぶにもおこがましい小さな氷の桟橋と、それに停泊したに到着した。二重扉のドアには閉店の旨を告げる板が掛けられているが、彼はなんの躊躇ちゅうちょもせず扉を開ける。

 カランと軽快なベルが彼の耳を迎え、蜂蜜の少し甘い薫りが彼の鼻を迎え、じゅわりと溶けるような温度が彼の肌を迎えた。

 そして彼の目は、長い銀髪と、銀色の眼鏡の奥にある金色を捉える。

 白いシャツと茶色のロングソムリエエプロンを身に纏った女性は——タカラだ。


「まだ開店前——って、ハヤトとミナトか、おかえり」

「よう、ただいま」


 彼がこの古びた小さなバーに通う理由は、このバーで出される蜂蜜酒ミードが美味しいこと、そしてこの従業員が大変に彼の好みの顔立ちだったことに他ならない。

 最初は顔だけが好みだったはずなのに、いつしか彼女のシルクのリボンがほどけるような声に安寧を見出し、惚れ込んでいた。


「今日のおすすめはごろごろミネストローネです。メインは何がいい? アザラシ肉のソテーか、海鳥のローストか、バターサーモン」

「オレは海鳥で」

「ミナトはどうする?」

「ナポリタン三キロ」

「海鳥ね、了解」


 コトン、と彼の目の前に置かれたのはただの白湯だが、その白湯は彼の喉を通し、血管をめぐり、体の内からだんだんと温まっていく。


「てゆーか、店長はどうしたの?」

「風邪ひいてダウンしてる」

「風邪? 人間は本当に脆弱だね」


 ミナトとタカラの会話を聞いているうちに、彼の瞳はどんどん重くなっていった。腹はこれ以上ないほどに空いているはずなのに、もう眠くて眠くてたまらない。

 まどろみの中、椅子にもたれながらぼんやりと机の上のキャンドルを眺める。しばらくするとタカラが「ハヤト」と呼びつけるので、彼は間延びした返事をした。

 まるで彼女と恋仲になったようで、彼は心の中でにやつく。少しばかり口角も上がっていた。


「ちょっとこっち来て」

「なんだ? 味見か?」

「この鍋の中、スープ。適当に飲んでいいから。で、こっちのフライパンに海鳥入ってるから焦げないように見てて」


 反論する間もなく、彼女はそそくさと二階へと消えていった。

 今は開店していないため厳密には客ではないが、彼は一応である。雑な扱いに面倒くささ半分、嬉しさ半分という心持ちで厨房に足を踏み入れて、驚嘆きょうたんした。


「……きったねえ」


 彼の寮の部屋も十二分に汚いが、厨房の中はそれ以上に混沌としていた。伝票と買付メモが至るところに貼られ、間接照明用の裸電球の替えが辺りに散乱している。さらに、チーズやらナッツやら調味料やらの食料でごった返していた。


 彼はなんとなく、店長のトオノは綺麗好きだと思っていたため、この予期せぬ惨状に思わず目を見張る。

 しかも、手前はひどい有り様だったが、奥にある皿やグラス等の食器類、調理器具は恐ろしい程に整理整頓・除菌されているのだ。まるで「潔癖のトオノ」と「散らかし屋のトオノ」が二人共存しているようで、彼はちょっとした気味悪さを覚える。


(「潔癖のトオノ」さんと「散らかし屋のタカラ」って感じじゃないんだよな。なんていうんだろう、この物の置き方は、タカラじゃない)


 タカラはホールに出がちで、トオノは厨房に引きこもりがちというのもあるが、なんとなくこの厨房が「トオノ仕様」であると彼は判断する。

 タカラは「好きなもの」を並べる。好きなものを、美しく。

 トオノは効率を重視する。この散らかったように見えるが――実際散らかってはいるが——使用頻度の高いものが手前に来ていた。だから、背の高い調味料の後ろに背の低い調味料が並んでいたりする。

 これがタカラだったら、使用頻度は度外視し、最前線に色彩豊かな香辛料が入った瓶を並べていることだろう。

 その証拠か、彼女の領分である店内の内装はそのようになっている。

 店内には彼女が好きなドライフラワーが所狭しと、けれど整然と並べられていた。


 厨房の中を見回していると、食欲をそそるトマトの温かな香りが彼の鼻腔を刺激した。鍋の蓋を開ければ、中には濃いオレンジ色をした半透明のスープに、正方形のトマトやニンジン、ジャガイモやブロッコリーなどが浮いたり沈んだりしている。


 鍋の近くに置かれた木製のスプーンでひとすくい。

 口に含み、唸った。


「うまい!!」

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