深海シティ4cb8e7 -人造人魚SF-
いましめ
第一章
あなたが何者であるかを放棄し信念を持たずに生きることは、死ぬよりも悲しい。若くして死ぬことよりも
01 人魚
海面の温度は氷点下二度。
背中のタンクから繋げられたホースを口にくわえ、
流氷の間を縫うように潜行し、目的の深度十五メートル地点で沈むのをやめた。水圧によって圧迫されたスーツに空気を入れながら、ボゴゴゴと強めの息を吐く。
彼の口元から放たれた気泡は、小さな楕円を描き、すぐ隣の気泡と競うように海面へ昇って行った。
『準備は良い?』
彼は彼の
親指と人差し指で丸を作ると、二人はゆっくりと海底に沈んでいった。
彼は、海遊が大好きだった。海に潜るために海底調査員になり、この非常に冷たい海域に住む生き物を愛でている。
この海にはシャチやクジラなど、二十三種類の水棲哺乳類がいるが、彼の目当てはそれらではない。オワンクラゲやカブトクラゲ、そういった発光生物だ。
光るくらげを見つけ、ぼうっとそれを眺める。
太陽が出ているか、曇っているか、風はあるか、海の中は何色か、透明か、濁っているか、流氷の形はどんな形か、どんな生き物がいるか――同じ場所に潜っても見える景色はいつも違う。
空気は乾いていているし、スーツによって首は絞めつけられている。マスク越しで見る視界は狭く、生きるのに精いっぱいだ。生きるのに、忙しい。その上で魚などの生き物を愛でたり、海の世界の光景を楽しんでいるのだから、余計なことを考える暇など全くない。
今日は快晴で、海も凪いでいる。そんな日は水面が彼の体に映り、光のカーテンが彼を覆う。無重力の中、海の下から明るい太陽を眺めていると彼はそれだけで心が洗われた。
ああ、自分もこの相棒のように人魚であれば良かったのに。
今日も、彼は誰にも言えない願いを、吐いた息と共に海の中に溶かした。
だからこそ、彼にとってはその視界に映るものが全てで、彼の意識はいつだって視界に支配されている。音も匂いも酸素でさえも彼にとっては二の次なのだ。
* * *
「本日の海底調査報告を」
「はい。深度七十メートル地点水底にタコ四種類の生息を確認。海藻も順調に育っているようです。水深四十メートルでヴェッテルアザラシ、カロムリクラゲ、その他、魚類はブルヘッドノトセンなどノトセニアのなかま、貝類はナセラコンキナ、節足動物はグリプトノータス アンタルクチクスがおりました。前回潜行時と特に大きな変化は見られませんでした」
「承知した。詳細なレポートは明日提出するように。今日はこのまま直帰か?」
「はい、その予定です」
「そうか、お疲れ様」
「お疲れ様です。お先失礼しますー」
彼は頭を下げると、部屋から退出した。
部屋の前の廊下では、
「ハヤト、終わった?」
「ああ。メシいこーぜ」
銀色の髪は、人魚の象徴。
二本足で歩き、見かけは人間と大差ないが、海の中を身一つで自由に泳ぐ人魚だ。
ミナトの短く切った髪の間から、青白いほどに白いうなじが覗いている。明るい星空のような青い瞳はいつ見ても美しい。しかし、男だ。
「今日のご飯はなんだろうね」
「なんかガツンとパンチがあるもんが食いたいな」
「わかるー。ナポリタン三キロぐらい食べたい」
「いや流石に食べ過ぎだろうそれは」
女のような顔をしているが、顔に似合わず大食らいで、華奢な体躯にも関わらず体力も底無し。
彼と違い、数々の浮名も流している。
ここは、かつて南極"大陸"と呼ばれていた地球の南の極点にある、直径二十二キロメートルの小さな氷床の国――海洋国グラス・ラフトの海洋研究所。
南極を南極たらしめている冷たい海流・南極
故に、この国は人魚を造りだすことにした。
人間から人魚を造り、人魚に人間の文化を与えることで、人間は人魚へと概念的な進化を遂げる。
これが、海に沈んだこの地球と共存するための生存戦略。
その完成も、あともう少しというところまで来ている。
「そういえば、自家製
「いやー、無理だった」
「えっ、え? だって、食料工場で仕入れた蜂蜜を発酵させるだけだよね?」
「あれって、しっかり密閉すると良くないだろ? だから蓋を被せてたんだけど、どこかでズレたみたいで埃が入ってな……、萎えてやめた」
「はー……、本当にハヤトは飽きっぽいというかなんというか。海底調査だって最近身が入ってなくない? 飽きたの?」
「まあお前と五年もやってればな。この歳になるとあの極寒の海に五時間も六時間もいるのもしんどいし、人魚のお前にはわかんねーかもしれねーが」
「まだ二十七でしょ」
「海の中にいるのは変わらず好きなんだけどなー」
「人間が潜れる職種って海底調査員か実験警護執行官だけだっけ。異動願い出してみれば?」
「んー、でも、職場環境は悪くないんだよな……」
「キミって意外と僕のこと好きだよね」
「は? キモイからやめろ」
極寒の海の中、五時間に及ぶ海底調査で身体は疲労困憊のボロボロだ。
月に二回の海底調査の後は直帰が許されているが、彼が向かうのは海洋研究所備え付けの寮ではなく、行きつけのBAR『ツナ缶』である。
彼のハヤトという名も、
これは、今まで何も成し遂げられなかった彼が、何かを成し遂げる物語。
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