第3話 偽者でなくなるような予感
「わたしは強姦されたことのある女なんです――」
この嘘こそが、初めてわたしがあなたについた嘘であり、そしてわたしの嘘の中で最も重要なものでした。一言に嘘といっても、嘘の中には全ての嘘の中心となる要のようなものがあるのです。
この嘘がないと始まらない、逆に言えばこの嘘があったからこそ、今のわたしとあなたの関係があるのです。
もし、この嘘が見破られたら、わたしの吐いてきた嘘なんて全て瓦解して、きっと、あなたはわたしの全てが信用できなくなるのだろうと思ってきました。
「えっ、どういうことですか…?」
(いえ、どうと言われましても、言った通りなんですが…)
「……本当に嘘なんですか?」
(はい、残念ながら…)
「じゃあ、今までのあれはなんだったのですか…?」
(ごめんなさい、嘘なんです)
「……嘘なんですか?」
(ですから、嘘だと申しました)
「僕を騙していたのですね…?」
(だから、そう言っているじゃないですか。あなたも案外、まともな人なのですね。あなたはそんな常套句しか言えないのですか? いつも上等なシモネタでわたしを笑わせてくれたあなたに戻ってください)
「ずっと、僕を馬鹿にしていたのですか…?」
(いえ、違うんです。決してあなたのことを馬鹿にしてついた嘘ではないのです)
こんな風にわたしは心の中ではあなたの問いかけに応じていました。しかし実際のわたしは口を噤んだまま黙っていました。
どういう訳か声が出ないんです。ちゃんと受け答えして、あなたにわたしの真意を知ってもらいたいのにどうやっても出ないんです。
心臓が何かに鷲掴みにされているみたいな感触を覚えました。
掴まれれば掴まれるほど、不安が全身に飛び火するのです。そうすると、わたしの身体は震えるのを通り越して固まってしまうのです。わたしは焦りました。
「お願いだから、何とか言ってください…!」
気のせいか、あなたの声色が荒くなったような気がしました。いえ、気のせいではなかったのでしょうね。わたしは泣きそうになりました。
あなたがもっと落ち着き払って、私の話を聞いてくれるような期待がどこかにあったのでしょう。
その期待があっさり打ち砕かれて、わたしは余計に押し黙ることしか出来なかったのです。
「お願いだから、何とか言ってください…!」
わたしは苦肉の策として、あなたに微笑みかけてみました。言葉ではなく笑顔であなたにお答えしたという訳です。あなたに対して何も含むところのない、何の敵意もないわたしの気持ちを判ってもらいたかったからです。
いくら嘘をついたからって、それがなんだと言うのですか? わたしはいつだって、あなたのことが大好きな早苗のままなのです。
しかしこの微笑みが仇となりました。どうやらあなたにとって、この時のわたしの笑顔なんて、あなたのことを嘲うだけの小悪魔のようにしか映らなかったのでしょうね――。
「ねえ、何、笑っているんですか…?」
(いやだから、敵意のない表明という訳なんですが、それじゃあ駄目ですか…?)
「……おい、何、笑ってんだよ! 俺を馬鹿にしているのか?」
突然、あなたの言葉が敬語ではなくなりました。あなたの叫び声に反応して、わたしの心臓が一瞬、止められたような気がしました。
この時のあなたは本当に怖かったです。あなたの真の恐ろしさを初めて垣間見た瞬間でした。あなたの丁寧な言葉遣いがわたしは大好きだったのに。あなたも他の男の人達と同じように、乱暴な言葉を使うのですね?
いつもわたしをなだめるように、諭すように叱ってくれたあなたはもうこの世からお隠れになってしまったのですか?
それにあなた「俺」ってなんですか? あなたがお使いになるのは「僕」でしょう?
それを「俺」だなんて……。駄目です、そんなのいけません。
「なんとか言えよ! いつまで笑ってんだ!」
ああ……多分、外からみたら、この時のわたしはひきつった笑顔のまま、硬直していたことなのでしょうね。あなたの怒りのボルテージはわたしの沈黙に呼応して益々、上がる一方だったのです。
(ああ、とりあえず謝らないといけない。この人のことをなだめないといけない。この人のことを怖くなってしまってはいけない。何か、何か言わないとやばい、実にやばい…)
焦れば焦るほど、わたしの頭はまともに機能しなくなり、役立たずになるばかりだったのです。
要するにわたし自身が一番やばかった? いえ、もう少し格好良く言わせて下さい。つまりわたしは「狼狽していた」という訳なのです。
その内にわたしの瞳から涙が溢れ出しました。念のため断っておきますが、狙ってやった訳ではありません。
わたしにそんな大それた演技力などありませんし、第一そんな余裕などはなかったのです。
しかし都合よく出てくれたものです。まさに恵みの雨です。あなたに対抗するための女の武器が、今ここに用意されたという訳です。
わたしの知る限り、これほど破壊力があり、呪われた武器はありません。流石です。
あなたはわたしの涙を見て、我に還ったのか、戸惑いながらも自分の怒りを鎮めようと努めてくれました。
今が謝るチャンスなのだということは判っていましたが、わたしは泣きじゃくるのみで、相変わらず口を閉ざしたままでいました。というのも、わたしの心は動揺したままでしたから、それも当然なのです。
それに、あなたの問い掛けにお答えする為に、まずわたしがやるべきことは心の平穏を取り戻すことが先決だったのです。
そうでしょう? そうでなくては、あなたに満足のいくお答えなど出来る訳がありません。だからわたしは自分の涙の流れる時間の中で暫く休息していたという訳です。
しかし、そんなわたしの思いをよそに、痺れを切らしたあなたはまた口を開き始めました。
「……ごめんなさい、声を荒げて怖がらせてしまったのは、確かに僕が悪いのだと思います。だけど強姦されたのが嘘だって言って、その後、ずっと黙られてしまったのでは意味が判らないのです」
確かに仰っていることは正しいのですが、わたしに少しの猶予も下さらないあなたはひどいです。
わたしの涙が見えないんですか? ほらほら、こんなに出てますよ? ねえ、あなたは鬼ですか?
いいえ、そうですよね? わたしが悪いのですから、仕方がないのかもしれません。それにあなたがきちんと自分を抑えようと努めていてくれたことだって、ちゃんと判っています。
その証拠にあなたの丁寧な言葉遣いが、再びこの世に帰って来てくれました。それにあなたの言葉から「僕」が帰って来てくれました。
本当に良かった! おかえりなさい! 「俺」はあの世に葬られたのですね? いい気味です。
ですから私はその思いに答えるべく、再びあなたに向き合う決心を何とか固めたのです。
――もうモラトリアムの時間はおしまい。さあ謝るぞ!
意を決したわたしは、渾身の力を込めて声を張り上げたのです。最早、叫び声でした。
ところが、やっと声が出せたのに、わたしは謝るどころか妙なことを口走ってしまいました。
「あ、あなたほど、頭の良い人がどうしてですか? あなたが心のどこかでわたしのことを見下していたことをわたしはちゃんと知っています! それなのにどうしてわたしを見破れなかったの……!?」
あなたに謝るつもりが、血迷って逆ギレ紛いなことをしてしまいました。
ごめんなさい、悪気はなかったのです。ただ、うっかり本心が出てしまったのです。でもわたしはこの時に悟ったのです。
つまり自分が謝る気がないこと、そしてもうあなたに一切の嘘をつく気がないということを――。
あなたをなだめる為だけに謝罪をする――などという姑息なことは、もうわたしはしたくなかったのかもしれません。
わたしは案外、自分でも驚く位の覚悟を決めてしまっていたようなのです。
こういうのは頭で幾ら思い直そうと思っても駄目です。わたしの心はそう決めてしまったのです。
ですから、わたしの理性はわたしの心を恐れました。ですが、わたしの心は揺るぎませんでした。
それにどういう訳か、この時のわたしは、生まれて初めて正しい方向というものに向かっているような気さえ感じられたのです。
つまり、わたしは自分が偽者でなくなるような予感がしたという訳なのです。
正しいということや間違っていることなんて、本当は判らないし、何かの幻想なのかもしれない。
それでもわたしのこころは、何か救われていくような清々しいものをこの時、感じていたのです。
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